「……うっ、うぅ……ま、て……待って、ヴァル!」
ハッと目蓋を開けた美澪は、ヴァルの手を掴もうと腕を伸ばしたまま、ベッドの上で目覚めた。
「ハァッ、ハァ、ハァ……」
伸ばした右手の向こうには、なじみのない白い天井があり、ここが神域でないことを悟る。
「ここは……神殿……?」
歩き回って確認する元気はないが、清潔なベッドに寝かされていることを考えると、多分そうだろうと思う。
それから、先ほど目にした森の中での光景を思い出して、グッと唇を
――あれが『召喚』の儀式。
そして神官長と名乗る初老の男性は言った。美澪が、ヴァートゥルナの魂を継ぐものだと。
「……どうして? なんであたしなの……っ? ……ぅ……うぅ……っ」
美澪は力なく腕を落とすと、大きくしゃくり上げ、涙が流れそうになるのを我慢した。それでも、あふれそうな涙を、震える両手の平でぐっと押さえる。
「……っぅ、うぅ……ふぇ、ぅ、ぁあ……!」
ついに涙腺が決壊し、手の平の隙間から、涙がぽろぽろとこぼれ落ちていく。
(もう日本に戻れない。お父さん、お母さんが待つ家に帰れない)
そんなつらい現実を、「はい、分かりました」と、簡単に受け入れられるはずがなかった。
しかし、ふと、ヴァルの言葉が脳裏をよぎった。
『帰れないよ、もう二度と』
(……ヴァルの言葉を信じてもいいのかな?
美澪は涙をぬぐい、鼻水をすすりながら、ぼうっとする頭で今後のことを考えた。
――『女神』ヴァートゥルナ。
神官長はそう言っていた。
しかし、美澪が神域で出会ったヴァートゥルナ――ヴァルは少年だった。そして、『ヴァートゥルナの魂を持った』とはなんのことだろうか。
(もしかして、図書室や神域で感じた違和感と、なにか関係があるのかな?)
――他の誰かではなく、
宙を見ながら、考えを巡らせていた美澪は、いつもの冷静さを取り戻しつつあった。
(泣いて喚いても問題が解決できないなら、まずはこの世界に馴染んで、それから元の世界に帰る方法を探せばいい)
「……現実を受け入れよう。……大丈夫! なんとかなるよ!」
そう盛大な独り言を言い切ったあと、
「お目覚めになられましたか?」
と言って、寝室と別室をつなぐ扉のない出入り口から、栗色の髪をきっちり結い上げた
美澪は――羞恥心は忘却の彼方に追いやった――目を丸くして、「あの、どなたですか?」と尋ねる。
にこりとほほ笑んだ女性は、抱えていたトレーを手近なチェストの上に置くと、その場に膝を付いて拝礼した。
「お初にお目にかかります。わたくしは、メアリー・ド・ラウィーニアと申します。本日、神官長様より、エフィーリア様の専属侍女に任命されました。御用の際は、なんなりとお申し付けくださいませ」
言って顔を上げたメアリーは、目鼻立ちの整った、優しげな顔つきの女性だった。
メアリーの瞳は、窓から差し込む陽の光に照らされ、
メアリーはピッチャーとグラスが乗ったトレーを、ベッド脇のサイドテーブルの上に置いた。
「喉が渇きましたでしょう? 果実水をお持ちいたしましたので、こちらをお飲みください」
メアリーが持つピッチャーの中には、様々な果実が入っていた。ピッチャーを傾け、シンプルなグラスに、透明な液体を注いでいく。すると辺りに、みずみずしく爽やかな香りが広がった。
その様子を見つめていると、視線に気がついたメアリーが、ふふっと穏やかに微笑んだ。それから美澪の手に、グラスを握らせる。
美澪はわずかに警戒しながらも、
(この世界に馴染むって決めたでしょ!)
と勇気を出して、グラスの縁に口をつけた。
「ん、……おいしい」
口角をわずかに上げた美澪は、グラスの中身をゴクゴクと飲み干した。その姿を優しく見守っていたメアリーは、
「もう
と尋ねてきた。
美澪はどうしようかと迷ったあと、首を横に振った。
「左様にございますか。ご入用の際は遠慮なくお声がけくださいませ」
そう言ってカラのグラスを受け取り、ふわりとほほ笑んだメアリーに、美澪の口角が自然と上がった。
(メアリーさんの笑顔って太陽みたい。なんか安心しちゃうな……)
美澪は、ずっと強張っていた頬筋を持ち上げ、笑顔を作った。
「ありがとうございます」
と、
(ちゃんと笑えてたかな?)
ドキドキしながらメアリーを見上げる。するとメアリーは、
「もったいないお言葉でございます」
と膝を曲げて拝礼した。
(メアリーさんって良い人そう)
そう思った美澪は、この際、いろいろと聞いてみようと思った。
「……あの、メアリーさん」
「メアリー、と」
間髪を入れず、メアリーに笑顔で返され、美澪は「えっ」と戸惑った。
「で、でも、メアリーさんは多分、あたしよりも年上ですよね? それになんか、お嬢様みたいに品があるし……。あたしなんかが呼び捨てにするなんて、おこがましいと思います」
もじもじと歯切れ悪く言い、表現し難い気まずさを
「エフィーリア様は、女神ヴァートゥルナ様の魂を
と言った。それに対し、美澪は困った顔をして、理由を言い連ねた。
「でも、あたしがいた国では非常識なことなんです。だから友達でもないのに突然タメ口や呼び捨てにするのはなかなか難しいというか、慣れなくて逆に気疲れしちゃいます」
「なんかすみません」と軽く頭を下げて、シーツをクシャリと握りしめた。するとしばらく、何かを考えていた様子のメアリーが、
「かしこまりました。わたくしは、エフィーリア様のお
と言って、その場に膝をついて叩頭した。
美澪はメアリーのつむじを見下ろしながら絶句する。
頭を上げたメアリーに、「エフィーリア様……?」と呼ばれて、一瞬飛んでいた意識が現実に引き戻された。
「あー……、えっとですねー……」
美澪は無意味なつなぎ言葉を口にしながら、裸足のままでベッドから床に降り立つと、跪座したままのメアリーの手を取った。そして、近くにあった椅子にメアリーを座らせて、黒いお仕着せの上から両肩を掴んだ。
「……メアリーさん。いえ。メアリー」
「は、はいっ」
「いまの話。……詳しく聞かせてもらえます?」
美澪はヴァルに似た、蠱惑的な笑みを浮かべた。