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第3話 帰れない

「……あたしがいるって、今はいますけど、ずっとここにいられるわけじゃ――」


「ずうっと一緒にいられるよ」


「はい?」


「今すぐには無理でも、いずれ美澪はボクだけのものになるんだから」


「……な、なにを言って、」


 強く反論したいのに、ヴァルの言葉に強い意志を感じて思わず気圧されてしまう。


 美澪が恐怖心で何も反論できないでいると、ヴァルの白く長い指先が、まろい頬をそっとなでてきた。


「っ……!」


 節が目立たないしなやかな手は、ゾッとするほど冷たかった。――まるで死人のように。


 けれどそれに反して、美澪に向けられた視線には、美澪の動きを封じるだけの熱量が感じられた。


 ヴァルの夜空を彷彿とさせる瑠璃色の瞳が、水面に反射した光を吸収してキラキラと輝いている。その満天の星屑ほしくずのような輝きに瞳を奪われた美澪は、ヴァルと見つめ合ったまま、彼から視線をそらすことができなかった。


「美澪……」


 美澪の輪郭をゆっくりとなぞったヴァルは、そのまま流れるように髪を一房だけすくうと、優雅なしぐさで口づけた。


「美澪、よく聞いて。いま、ボクの心が穏やかなのは、キミと一緒にいるからだよ。……そもそもボクの心の中には、美澪一人分のスペースしかない。けがれのない美しい空間に、ボクと美澪がいる。ほら、ね? ボクの神域はこれで完成してる。完璧だよ」


 ヴァルは軽く歌うような調子で言い、それからこてんと首をかたむけた。


 長い指先が、紺青色の髪からするりと離れていって、呼吸が楽になった。どうやら知らぬ間に、息を止めていたらしい。


 美澪は深呼吸をして、震える喉から息を吐き出した。


「……でもあたしは、ずっとここにはいられません」


「うん、そうだね」


「あたしがいなくなったらどうするんですか? どうして、」


 ――どうしてあたしに執着するの?


 そう問いかけようとしたが、とっさに唇を引き結んだ。ただなんとなく、触れてはいけない気がしたのだ。


 まかり間違っても、先程と同じ失敗を繰り返してはいけない。


 ヴァルの能面のような無表情が脳裏によみがえりそうになり、どうにか頭の隅に押し遣った。


「ねぇ、もしかして美澪。ボクが孤独だと思って心配してくれてるの?」


「えっ」


 ――突然、何を言い出すのか。


 ヴァルに奇妙な懐かしさを感じているのは確かだが、それと同時に、本能的な恐怖心を抱いてもいる。


(ヴァルを怖がってるあたしが、ヴァルを心配している……?)


 わずかな親近感と恐怖感。二つの相反する感情に戸惑っているというのに。


 しかし美澪は、なぜか本心とは真逆のことを口にした。


「そう、ですね。心配してるのかも、しれません」


 そう言ったあと、美澪はフイッと顔をそむけた。


(あたし、なにを言ってるの?)


 頭で考える前に、勝手に口が開いたことに恐怖する。


(この感じ。あの本を開いた時の感覚に似てる……)


 ――まるで、ひとつの身体に二人分の心が共存しているような奇妙な感覚。


 美澪は、背後から冷たい両腕が絡みついてくるような感触を感じ、恐怖に震えた。


 得体の知れないなにかから身を守るように自分の身体を抱きしめる。そうしてのろのろと顔を上げると、とろりとした瑠璃色の瞳と瞳が合って、美澪の肩がびくりと跳ねた。


「ボクの美澪は優しいね」


 澄んでいたはずの瑠璃色は濁り、瞳の奥に狂気じみた感情の影が垣間見えている。


(やっぱりこのひとおかしい……!)


 美澪は当惑の感情を悟られないように、サッと顔を伏せた。


(どういうこと……? あたしがなにか忘れてるの? ……ううん。間違いなく、ヴァルとは初対面なはず。でも、あたしに対するあの執着心はなに? なんであんな瞳で見てくるの?)


 美澪が考えを巡らせている時。見た目よりもがっしりとした手に、両肩を強く引き寄せられた。


 そして、あっと言う間もなく、美澪はヴァルの胸の中に閉じ込められてしまう。不意打ちを食らった美澪は、呆然とするしかなかった。そんな状況の中、蓮の花ロータスをほうふつとさせる、ほのかな甘い香りが鼻腔びこうを満たしていく。それが気付け薬の役目を果たし、美澪はハッとして、ヴァルの腕の中でじたばたと足掻いた。


「は、離してください……っ!」


 美澪は身をよじり、薄く筋肉のついた胸板を、ドンドンと叩いた。しかしヴァルはびくともせず、やがて暴れ疲れた美澪は、ハァハァと息を切らしてぐったりとヴァルにもたれかかった。


 大人しくなった美澪の華奢な身体を、ヴァルは割れ物を扱うような繊細さで抱きしめる。


「――美澪。ボクのかわいい美澪。……安心して。これからは、ずっと一緒にいられるから」


 心音が聞こえるほど密着した状態で、ヴァルから言われた言葉を反芻はんすうした。


「ずっと、一緒に……。あたしと、ヴァルが……?」


「そう。ずっと一緒だよ」


(ずっと、一緒? ……そんなのイヤ!)


 抱きしめられまま、美澪は勢いよく顔を上げた。


「イヤです! あたしは元の世界に帰りたいんです……!」


 真摯に訴えると、ヴァルはうっそりとほほ笑んだ。


「帰れないよ。もう二度と」


「なっ……!」


 絶望に染まった声をあげた瞬間、足元から強烈な光がほとばしった。


「きゃあっ! 何これ……っ!?」


 黄金色の光が、美澪の全身を包み込んだ。とっさに両腕を上げて光を遮り、目がくらみそうになるのを防ぐ。


「さぁ、美澪。そろそろ時間だ。せっかちな奴らがキミを呼んでいる」


 混乱する美澪とは逆に、腕の隙間から見えたヴァルの表情は落ち着いたものだった。


 ――まるで、こうなることが分かっていたかのように。


「……っ! あたしを呼んだのは、ヴァルじゃないんですか!?」


「ボクじゃない。キミを召喚したのは、人間たちだよ。奴らが執り行った召喚の儀式に創世神が応じたんだ。そして創世神に選ばれたのは美澪だった。だからキミをボクの神域に連れてきたんだ」


 ――『召喚の儀式』とは、いったい何のことだ。


 とてつもなく嫌な予感が脳裏をよぎった。


「まさか……まさかあたし、本当に元の世界に戻れないの!?」


「そうなるね」


 こともなげにほほ笑んだヴァルに、なぜか裏切られたという気がした。


「ヴァ、ヴァル……! あたしっ、そんなの嫌だよ……!」


 髪を振り乱して叫んでも、ヴァルは困ったようにほほ笑みを浮かべるだけで、救いの手を差し伸べることはない。


「ごめんね、美澪。ここから先、ボクは干渉できないんだ。ボクにできるのは、キミを神域に呼び寄せるところまで。――でも安心して? 今すぐには無理だけど、ボクは必ず、美澪を迎えに行く」


「む、むかえに……? じゃあ、あたしを迎えに来たら、ヴァルが元の世界に帰してくれるの!?」


 ヴァルは、口元をゆがめた。


「くっ、あははっ! ――そんなわけないでしょ」


 美澪の胸中に射した淡い希望の光は、一瞬にして闇に覆われてしまった。


「そんな……! どうして……っ!」


 ヴァルに向かって手を伸ばした瞬間、


身体からだが……!」


 美澪の指先が、光の粒子となって消えていく。


「ああ……そろそろお別れの時間みたいだね」


「――い、いやっ! いやよ、ヴァルッ! あたしっ、行きたくないっ! お願い! 元の世界に帰してっ!」


「ごめんね」


「ヴァル!!」


 頭に血が上り、怒鳴るように叫んでも、ヴァルはほほ笑んだままだった。


 幾筋もの涙が頬を伝い落ち、粒子とともに散っていく。


「ヴァル! ヴァル! ――っ、ヴァルーーッ!」


 最後まで残った右目が粒子に変わって消える寸前に捉えたのは、ぞっとするほど蠱惑こわく的に笑うヴァルの姿だった。

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