――どさっ。
「……なに?」
脚立に乗って本棚に手を掛けていた
(あたし以外の生徒は全員退出したはず、よね?)
図書委員の美澪は、放課後の図書室で脚立に乗り、返却された本を本棚に戻す作業をしている途中だった。
美澪は慎重に脚立から下りると、手に持っていた本をブックトラックに置いて、薄闇の向こうをじっと見つめる。
一斉下校の時間が迫っていて、もうすぐ退出しようと思っていた美澪は、蛍光灯を貸出カウンターの上と作業場所にしか点灯させていなかった。そのせいで、美澪が見つめている本棚と本棚の間の通路は薄暗い。
窓も扉も締め切られた室内には、ホコリっぽい空気と古い紙の匂いが満ちている。普段は好ましく感じる空間なのに、美澪はなんとなく不気味さを覚えた。
(……でも、確認しに行かなくちゃ)
美澪は胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、生唾をゴクリと飲み込んだ。
ふとしたらすくんでしまいそうになる足を、一歩一歩踏み出して、立ち並ぶ本棚の間を進んでいく。そうして目的の場所にたどり着いた美澪は、詰めていた息をはぁと吐き出し、足元を見下ろした。
黒のタイルカーペットの上に一冊の本が落ちている。
(ボロボロの本……。こんな本、見たことがないわ)
美澪は本から視線を外して、両側の本棚を交互に見上げた。――どう考えても、本棚から抜け落ちたようには見えない。
(この本、どこから現れたの……?)
疑問を感じ、恐怖心を抱きつつも、まるで引き寄せられるように本に手を伸ばす。そうしてゆっくりとしゃがんだ美澪は、真っ黒い本の表紙を、恐るおそるつついてみた。
「……なにか起こるわけない、よね?」
あはは、と自分に呆れて笑うと、少しでも雑に扱えば壊れてしまいそうな本を、細心の注意を払って持ち上げた。それからどうしようかと悩んだすえ、美澪は本を抱えて、貸出カウンターに向かうことにした。
「――ふぅ、到着」
灯りの下に戻ってきたことで、ほんの少しだけ肩の力が抜けた気がする。
美澪は抱えていた本をカウンターの上にそっと置き、オフィスチェアに腰を下ろすと、目の前の本を魅入ったように見つめた。
「……ちょっと中身を見るくらい、大丈夫だよね?」
怖いもの見たさと本好きの好奇心を刺激された美澪は、こわごわと手を伸ばし、慎重に表紙を開いて変色したページをめくった。
そして1ページ目を開いてすぐに、本の内容が明らかに異質なものだと気づく。
「なに、これ……」
美澪は、原因の分からない焦燥感のようなものに駆り立てられながら、パラパラとページを繰っていく。そして、震える指先で文字の羅列をなぞり、わななく唇を動かした。
「――世界は、創世神により、創られた……?」
美澪は本の状態も忘れて、表紙をバタンと閉じた。心臓が全力疾走したあとのように激しく拍動して、いまにも胸を突き破り、飛び出しそうだった。
「……あたし、知らない……。知らないよこんな文字……!」
見たことのない記号のような文字は、どういうわけか、脳内で日本語に翻訳されて口をついて出た。
(ありえない……っ)
美澪は本から手を離そうとしたが、なぜか自分の意思に反して、左手は表紙を開いた。いますぐ本を閉じてしまいたい。けれど左手はページをめくり続ける。
なぜ、どうして、と繰り返す口元を右手で覆い、荒くなっていく呼吸を押さえながらページをめくり、とあるページで左手の動きが止まった。そして――
「――
そう口にした瞬間、
「みぃーつけた」
透明感のある明るい声が
「きゃあーーっ!」
光の輪の中を、抵抗するすべもなく落ちていく。一瞬にも、数秒にも感じる不思議な感覚を経て、美澪は水の中に落ち込んだ。
「ごぼ……っ!」
背中から落ちた衝撃で、酸素を全て吐き出してしまう。
(やばい……っ、溺れちゃう……!)
とっさに鼻と口を覆ったが、不思議なことに、水が肺を満たすことはなく、地上と同じように呼吸することが出来た。
(一体、どうなってるの……)
美澪は驚きに目を見張ったまま、眼前に広がる光景をただ
恐ろしいほど透き通った水は、どこからか射し込んでくる光を受けて、コバルトブルーに輝いていた。きっとこんな状況でなければ、美しい光景に感嘆の声を上げたはずだ。
(なにが起こったの……?)
あのボロボロの本を見つけるまでは、いつもと変わらない平凡な日常だったのだ。それなのに、どうしてこんなことになっている?
理解しがたい出来事に、思考回路がついていかない。
だが今の状況で、なにより一番理解出来ないことは、水中での呼吸が可能だということだった。
(……ゆめ。……これは夢よ、夢! あたしは夢を見てるのよ。きっとそう。全部、夢の中の出来事だって考えれば、説明がつくじゃない!)
美澪は、瞳を強く閉じて、
「これは夢よ! 早く起きて!」
そう声高に叫んだ。すると、
「――夢じゃないよ」
そう背後から声をかけられ、美澪は肩をビクッと揺らし、おそるおそる目蓋を上げて驚愕した。
「えっ?」
(あたし、さっきまで水中にいたよね!?)
いつの間にか美澪は、薄く水の張った地面の上に立っていた。そして、濡れていなければならないはずの水色のセーラー服は、濡れた形跡もなくカラリと乾いている。
「あの……っ!」
振り返った先に人の姿はなく、その代わり、視界に飛び込んできた景色に
「……どうなってるの……」
もしや、白昼夢でもみているのではないかと思い、右頬をぎゅうっとつねってみた。
「痛い……」
(夢じゃないってこと?)
ヒリヒリする右頬をなで擦っていると、含み笑う声が聞こえ、美澪は後ろを振り返った。そうしてそこに立っていたのは、物語に登場する神や精霊のように、優美で神秘的な容姿をした少年だった。
「やっと会えたね。美澪」