――夕方五時過ぎ。わたしたち夫婦は洲本温泉のホテルに到着した。
予約した部屋は全室露天風呂付きのフロアーにある和室で、窓からは海が眺められる。
「――お夕食は七時にお部屋までお持ちいたします。それまでどうぞ、ごゆっくりお
制服である和装の仲居は、わたしたち二人を部屋まで通してくれると、落ち着いた頃を見計らってそう言った。
ちなみにこのホテルにはレストランもあるのだけれど、わたしたちはせっかくなので部屋食を希望した。二人っきりで、美味しいゴハンをゆっくり味わいたいから。
「ありがとうございます。お料理、楽しみにしてますね」
わたしがお礼を言うと、仲居さんはニッコリ笑って「では、失礼いたします」とわたしたちの客室を後にした。
「――さて、夕食までまだ時間あるし、先にお風呂に入っちゃおうか」
潮風を浴びてベタついている髪が気になっていたわたしは、貢にそう提案してみた。
「そうですね。――大浴場もあるみたいですけど、この部屋のお風呂も気持ちよさそうですよね。どっちにします?」
「この部屋のお風呂でいいよ。……ねえ、どうせなら一緒に入っちゃう?」
「……………………ええぇぇっ!?」
ほんの冗談で言っただけなのに、彼は思いっきり取り乱した。顔なんかもう、耳まで真っ赤っかだ。
「そそそそ、それはカンベンして下さい!」
「何慌ててるの? 別にいいじゃない、夫婦なんだし。今さらカマトトぶったってイタいよ、貢」
体を重ねるようになってもう半年、一緒に暮らし始めて二ヶ月。こういうシチュエーションにもそろそろ慣れてほしいもんだ。
「…………」
貢はまだ困った表情をしている。とはいえ、これ以上困らせておくのもかわいそうだ。
「……っていうのはウソだよ。貢、先に入ってきたら? 貴方の方が髪、悲惨なことになってるから」
わたしの髪でベタついているのは毛先だけだけど、髪全体に潮風を浴びた彼の頭は被害が
「……はい。っていうか絢乃さん、半年くらい前からものすごく積極的になりましたよね? 前はもっとピュアだと思ってたんですけど」
「えー……、そうかな? ピュアだったのは、ただ単に男性経験が皆無だったせいだよ。――いいから入って来なってば」
天使みたいにピュアなわたし、は貢が勝手に作り出した幻想だ。そして、そのイメージを壊したのも彼自身なのだ。
この数ヶ月で、わたしは確実にオトナの女性になりつつあった。
「は~い。じゃあ、お先に失礼します」
湯けむりの中へ消えていく彼の背中を、わたしは手をひらひら振りながら見送った。
もう荷解きも終えて、手持ち無沙汰になったわたしは、彼の入浴中に何かすることはないかと考えた。
客室のハンガーラックには、今日二人が着ていたパーカーとジャケットが掛けてある。立ち上がって鼻を近づけてみたら、そこからも潮の香りがする。
明日の予報は雨だから、明日もきっと着ることになるだろう。でも、この匂いがしたままなのはどうも頂けない。
「こういう時は……、やっぱりコレかな」
わたしはスーツケースからファブリーズを取り出し、部屋干し中の上着二着にシュッシュッと振りかけた。もう一度鼻を近づけてみると、鼻につく匂いはしなくなっている。
「これでよし、と。――ちょっと重かったけど、持ってきててよかったぁ」
わたしは満足げに頷いた。貢に見られたら、「そんなものまで持ってきているから、絢乃さんの荷物は重いんですよ」と呆れられるだろう。
それからわたしも自分の着替えを用意し、しばらくスマホをいじったりTVを観たりして過ごしていると、貢が浴衣姿でお風呂から上がってきた。
「――ふーっ、いいお湯でした」
「貢、もう上がったの? 早かったね」
スマホから顔を上げたわたしはドキッとした。貢の……初浴衣姿! ダダ洩れなオトナの色香に、思わず「はぁー……」とため息が漏れてしまう。
「スーツ姿もカッコいいけど、浴衣もなかなか……」
そそられる……と言ったら、なんか怪しいかも? でも、ついつい見入ってしまう……。
「……? 絢乃さん、何かおっしゃいました?」
「ううん! 何でも。――さぁて、わたしもザッと入ってこようっと♪」
着替えその他を抱えて浴室へ行こうとしたわたしの背中に、貢の声が飛んでくる。
「絢乃さん、バスタオルと浴衣は脱衣所にありますから。持っていくのは着替えと洗面道具くらいでいいと思いますよ」
「分かった、ありがと」
本当は自前のバスタオルも持っていこうと思ったけれど、ホテルのアメニティがあるならそっちを使わせてもらおう。
――着ていたものを全部脱ぎ、先に髪を洗ってから浴槽に浸かった。
「はぁ~~、いいお湯~~♪ 気持ちいい~~……」
ここ洲本温泉の泉質は〝美肌の湯〟らしい。この淡路島を創造したという古代神・
「わたし、これ以上お肌ツルツルスベスベになっちゃったらどうしよう。貢、困っちゃうよね……。フフフッ♪」
いい加減気持ちよく温まったところで、わたしは濡れた髪をヘアクリップでひとまとめに留めて、浴衣姿で入浴を終えた。
「あー、いいお湯だった~♪ お天気がよかったら、眺めも最高だったのにね」
ホカホカと湯気を立てながら貢の元へ。……そういえば、彼にわたしの浴衣姿を見てもらうのも初めてだ。さて、どんな反応をするかな?
「あ……、絢乃さん。浴衣いいですね。大人っぽくてステキです。……っていうか、和装の着付けもできるんですね」
彼は
「ありがと。――うん、着付けもね、女帝学で身につけたスキルなの。っていってもね、この浴衣は簡単なもんだったけど」
その気になれば、本格的な着付けも自分でできるのだ。セレブというのは、パーティーの席やお茶会、冠婚葬祭の時など和装になる機会が多いから。……と母も言っていた。
「いえいえ! 帯の結び方とか、もう完璧じゃないですか。仲居さんもビックリですよ、きっと」
「……そうかな?」
こういうホテルや旅館の浴衣って、みんな簡単に着られるものだと思っていたけど、違うのかしら?
「はい。――そういえば髪、アップにしてるんですか?」
「うん。どうせまた後でお風呂に入るし、これからゴハンでしょ? 髪ジャマにならない方がいいかと思って。……なんか問題でも?」
「あの……、うなじが……その、目のやり場に困るというか……。じゃなくて、ちゃんと乾かした方がいいんじゃないかと」
……貢、貴方はごまかしたつもりかもしれないけど、ちゃんと前半も聞こえてたよ?
「…………そう? じゃあ、貴方が乾かしてくれる?」
わたしは洗面脱衣所にあったドライヤーを持ってきて、彼に「はい」と差し出した。
「もちろん、やりましょう。後ろ向いて下さい」
若干、無言の圧力(……いや、無言ではないか)もかかっていたと思うけれど、彼は渋ることなく引き受けてくれた。
わたしがヘアクリップを外すと、なぜ慣れているのか分からないけれど手際よくドライヤーの温風で髪の水分を飛ばしていく。
「――はい、終わりました」
「ありがと」
「そういえば、ジャケットとパーカーの匂いが消えてたんですけど。絢乃さん、何かしました?」
彼にそう訊ねられ、わたしの目が泳いだ。別に悪いことはしていないけど、荷物が多いことをツッコまれるのはゴメン
……でも、彼にはウソをつけない。
「あ…………、うん。ファブリーズ振ったけど」
「ファブリーズ? そんなものまで持ってきてたんですか。……まさか、丸ごと一本?」
「うん」
貢、呆れるよね……。わたしはこわごわ、彼の顔を覗き込んだけど。
「ハハハッ! 絢乃さんらしいですね……。重くなかったですか? どうせなら、僕の荷物に入れてくれたらよかったのに」
彼はむしろ、愉快そうに笑った。おまけに、ちょっとした優しさまで見せてくれた。