――新婚旅行、二日目。
ルームサービスで朝食を済ませ、身支度を整えたわたしと貢は一階のコンシェルジュカウンターに立ち寄った。これから夜まで市内観光を楽しむため、ルームキーを預かってもらうつもりなのだ。
「おはようございます。二〇二五号室の篠沢です」
「おはようございます、篠沢様」
コンシェルジュの女性はスラッとした長身で、背筋がピンと伸びていて、同じ女性のわたしが見てもカッコいい。そして、朝からすごく爽やかだ。
「すみません、これから市内観光に出るのでルームキーを預かっておいて頂けますか? 夜には戻りますので」
「かしこまりました。ご用件承ります」
彼女は快くキーを預かってくれた。そのついでといっては何だけれど、彼女に質問してみる。
「ありがとうございます。――ところで、〝シティループバス〟って新神戸駅前からも利用できますか? パンフレットみたいなのがあったら頂きたいんですけど」
「はい、ご利用頂けます。パンフレットでございますね。少々お待ち下さいませ」
彼女はもう一人いた男性コンシェルジュにカウンターを任せ、バックヤードに戻り、数分後に戻ってきた。その手に緑色のパンフレットらしきものを持って。
「――お待たせいたしました。こちらが〝シティループバス〟のパンフレットでございます。時刻表も記載されておりますので、本日の観光にご活用下さいませ。では、お気をつけて行ってらっしゃいませ!」
「ありがとうございます。行ってきます!」
わたしたちはホテルを出て、新神戸駅前にあるという〝シティループバス〟の停留所を目指した。パンフレットによれば、バス停は濃い緑色だということだけれど……。
「――あ、あれじゃないですか? バス停」
「ホントだ。ここに載ってる写真と同じだね」
そこでしばらく待っていると、バス停と同じく深緑色のオシャレなバスがやってきた。
これもパンフレット情報だけれど、この〝シティループバス〟は「走る異人館」とも言われて親しまれているらしい。深緑色のボディやレトロな外観は、本当に北野の異人館みたいでオシャレだ。
車内に乗り込むと、可愛い制服姿の乗務員さんが優しい笑顔で出迎えてくれた。この女性はバスガイドも兼ねていて、運行ルート上に点在している観光名所の案内アナウンスもしてくれるのだとか。
昨日の夜、川元さんが教えて下さったとおりに信号待ちの時に彼女に声をかけ、大人料金の一日乗車券を二枚買った。これで今日一日、どの乗り場からでも乗り放題だ。
「――ねえねえ、まず最初はどこに行く?」
わたしたちは二人掛けの座席で、わたしがトートバッグから取り出したガイドブックとこのバスのパンフレットを広げ、今日の行先の相談を始めた。
「そうですね……、まずは山の手の方から攻めましょうか」
「ってことは、北野異人館街か。あの辺りは去年行ってなかったもんね」
去年の神戸旅行はあくまで出張で、仕事がメインだった。空いた時間にはちょっとした観光ができたけれど、こうして最初から好きなルートを辿って観光するのはまた違う。
「――そういえば、新婚旅行の行先、海外じゃなくてよかったんですか? なんかごく当たり前みたいに、国内に決まっちゃいましたけど」
貢が今更な質問をぶっ込んできた。今回の旅行先は二人で相談して決めたのだけれど、実は海外も候補には挙がっていたのだ。
「ホントはね、スペインのバルセロナに行きたいなぁとも思ってたの。でも、貴方のために諦めました」
「僕のため? ……っていうと、語学力の問題ですか?」
「うん……まあ。スペイン語、わたしは喋れるけど貴方はムリみたいだし。英会話でも大丈夫そうだけど、貴方はどれくらいのレベルできる?」
ちなみに、わたしは日本語の他に中国語・韓国語・英語・フランス語・スペイン語・イタリア語の六ヶ国語が
「英会話でしたら……まあ、日常会話くらいならどうにか。大学時代に英会話教室で習ってたことがあるんで」
「ほらね。だから、貴方に恥かかせたくなくて、国内にしたの」
彼にだって沽券やプライドがあるはずだもの。新婚旅行先で恥をかいたら、今後トラウマになってしまうかもしれない。
「それは……どうも。そういえば絢乃さんって、ビジネス英語もペラペラでしたね。なぜか韓国語も」
わたしは会長に就任して間もない頃、海外からの仕事の電話に「高校生がよくこんなの覚えたな」という高いレベルのビジネス英語で応対して、彼を驚かせたことがあった。彼が今言ったのは、多分その時のことだ。
「うん。でも、わたしよりビジネス英語が堪能な人はたくさんいるんじゃないかな。わたしは将来必要になると思って覚えただけだし」
「それも〝女帝学〟の一環ですか?」
「そういうこと。――まあ、この神戸も国際観光都市だから、観光中に外国人の観光客とかに出くわすことはあるかもね。旧居留地とか南京町もあるし」
「はあ。そういう時は、絢乃さんに対応お任せしまーす……」
彼が自信なさそうにわたしを頼ってきたので、わたしはこっそり吹き出した。
〝シティループバス〟のルートは一方通行なので、わたしたちはだいぶ遠回りをしてから『北野異人館』のバス停で降りた。
そこはもう日本国内とは思えないくらいステキな町並みで、まるで古いアメリカやヨーロッパの映画の世界に迷い込んだような錯覚さえ起こす。明治時代に神戸港が開港されて以来、この神戸の街がどれほど多くの外国人で賑わっていたのか、この町並みを歩くだけで手に取るように分かるのだ。
「……なんかこの景色、
「うん。ノスタルジックっていうのかな。最近じゃこういうの、『エモい』って言うんだっけ?」
わたしが柄に似合わない若者言葉を使ったので(しつこいようだけれど、わたしだって〝若者〟である!)、貢が隣で苦笑いしている。
「ちょっと! なんで笑うのよ!?」
「ああ、すみません! 絢乃さんが、らしくないことを言ったんでつい……」
彼の口ぶりに「らしくないってナニよ」とは思ったけれど、なぜか腹は立たない。というか、悔しいけれど彼の笑顔はどんな時もわたしの心の癒しになってくれる。
「……まぁいっか。じゃ、行こう」
わたしは彼を許すことにして、彼の腕を取って町をゆっくり歩き始めた。
数分ほど歩き、ちょうど大きな案内図の近くまで来た時、外国人観光客とおぼしき中年のご夫婦に呼び止められた。
「すみません、道を訊ねたいんですが。〝
そう訊ねる男性の言葉は思いっきりクイーンズ・イングリッシュ。
貢は予想どおりオロオロするだけだったので、「
「こちらへ来て、この地図をご覧下さい」
自分が頼られていることを自覚しているわたしは、まずご夫婦を案内図の前に呼んだ。
「現在地がここなので、この通りが〝トーマス坂〟。この坂を上がって、公園のあるところを左に曲がれば〝風見鶏の館〟に着きますよ」
立て板に水のごとく英語で説明すると、イギリス人ご夫婦は「なるほど」と頷かれ、貢まで一緒になってわたしの英語力に感心している。
そんな彼の腕をグイっと掴み、わたしはニッコリ笑ってご夫婦を促した。
「実はわたしたちも、これから行くところなんです。一緒に行きましょう!」
「……えっ! えっ!? 〝レッツゴー・トゥゲザー〟ってどういうことですか!?」
その部分だけは意味が分かったらしく、困惑している貢。わたしはそんな彼にお構いなしに、英国人ご夫妻を伴ってグングン坂を上っていった。
「――ご親切なお嬢さん、どうもありがとう。ところで、そのステキな彼はどなた?」
キレイなブロンドの髪をした奥さまが、一緒に歩いている(……というか、わたしに引きずられている?)貢に目を遣って英語で質問してきた。
「彼は、わたしの夫です。わたしたち、昨日結婚したばかりで」
わたしは満面の笑みでそう答える。日本語では百パーセントノロケにしか聞こえないセリフも、英語でだったら自然に言えるから不思議だ。
「ええっ? 君たちは夫婦なのかい? そんなに若いのに」
ダンナ様の方が、オーバーなくらいに目をみはった。「
「ええ。わたしは十九歳で、彼は二十七歳です」
「十九歳? お嬢さん、あなたまだ学生なんじゃないの?」
年齢だけでわたしを大学生だと思ったらしい奥さまに、貢がここにきて初めて「
「彼女は僕の会社のトップレディです」
彼は自信ありげに英語でそう言ったけれど、「トップレディ」はなんか違うような……。それなら「プレジデント」の方がまだしっくりくるんじゃないかしら?
「彼の言ってることは本当です。わたしは大きな企業グループの会長で、彼はわたしの秘書なんです。彼はわたしにとって、すごく大切な人なんです」
彼のフォローの意味でも、わたしはそう補足した。
そして、彼には多分理解できないであろう複雑な英語も使い、彼とわたしがどんな風に出会って恋に落ちたのか、どれほどわたしの心の支えになってくれているかをイギリスから来られたこのご夫妻に話して聞かせた。
「あら、そうなの? そんなに可愛らしいから、学生さんだと思い込んじゃって。ゴメンなさいね?」
「妻は思いついたことを、その場で何も考えずに行ってしまう悪いクセがあってね。本当に申し訳ない」
ご夫婦で謝られ、何だかくすぐったい気持ちになったわたしは「
日本には「袖
「――さあ、着きましたよ! ここが〝風見鶏の館〟です」
公園を左に折れると、キュートな風見鶏がシンボルの、茶色っぽいとんがり屋根の建物が見えた。
「可愛いトップレディさん、案内ありがとうございました。いい旅を」
「ええ。貴方がたも、いい旅を」
異国のご夫婦とはここでお別れして、わたしたちは周囲を散策することにした。
今日もいいお天気で、ちょっと蒸し暑い。こんな陽気の日は、冷たいソフトクリームが食べたくなる。
「貢ー、そこのお店でソフトクリーム買おうよ」
「ああ、いいですねぇ。行きましょう」
わたしが指さした先、さっき上ってきたトーマス坂をちょっと下ったところにあるお店は、神戸市内にある
わたしたちが泊っているホテルも六甲山系のお膝元に位置しており、この山には有名なオルゴールミュージアムもある。残念ながら、今回の旅のコースには入っていないけれど……。
「――すみません、ソフトクリーム二つ下さい。わたしはチョコで。貢は?」
「じゃあ……、僕はピスタチオ」
「かしこまりました。お会計、千百五十円です」
ここでの支払いは貢がしてくれた。わたしが払ってもよかったのだけれど、たまには彼に花を持たせてあげてもいいかもしれない。でも、千円ちょっとじゃ「花を持たせた」ことにはならないか……。