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第十五話 記憶喪失の彼女

 ——記憶喪失。


 予想だにしない事実に、ルーカスは衝撃を受けていた。同時に、己の行動を猛省する。



(……醜態しゅうたいを、さらしてしまった)



 イリアが目覚めたとしらせを受け、急ぎ邸宅へ戻り部屋を訪ねると——。


 彼女は、泣いていた。


 ルーカスの好きなあわい青色。勿忘草わすれなぐさ色の大きな瞳からとめどなく涙を溢れさせていた。涙を流す姿を見るのは初めてだった。


 彼女は、彼女の大切な人——祖父のように慕っていた、前教皇きょうこうルキウス聖下せいか——の死を前にしても涙を見せず、辛い時ほど気丈に振舞うような人だ。


 そんな彼女が泣いている。

 涙を目にして、ふつふつと、ある感情が沸き上がった。


 熱く激しい、怒りの感情。


 〝何か〟があったのは確実。その〝何か〟を対面するファルネーゼ卿がしたのではないか。

 そうでなかったとしても、理由を知っているはずだ、と。話を聞いて考えるよりも先に、体が動いていた。


 烈火のごとく駆けめぐる激情を、抑えられなかった。それほどまでに、彼女の涙が衝撃的だった。



(イリアを傷つける者は、誰であろうと許さない。例え、幼い頃から見知った親しい相手だとしても、決して)



 けれど「貴方が誰かはわかりません!」と言われて、頭が真っ白になった。

 自分を認識していない。その事実が、信じられなかった。


 視線を向ければ、怯えた様子で瞳を逸らされてしまい、これまでの彼女とは違う、違和感を覚えた。



(まさか、記憶を失っているなんて……)



 誰が予想出来ただろう。

 突然、頭を抱えて苦しみ出した事も含め、予想外の事ばかりで、ルーカスは歯痒さを感じずにはいられなかった。






❖❖❖






 応接室。ファルネーゼ卿と腰を据えて話す。

 内容は勿論、彼女の状態について。



「単刀直入に聞く。彼女の記憶は、戻るのか?」


「なんとも言えませんな。お嬢さんの様子を見るに、手続き記憶と意味記憶——つまり経験や繰り返しで得られた技能やコツ、プロセスなど体で覚えた記憶と、一般知識や常識に関する記憶には問題ない。

 自身に関する事、関わりのあった人物や、自分が体験した出来事の記憶などを思い出せないようですな。

 頭痛という変調も見られる。無理に記憶を取り戻そうとしてはなりません。さっきも言ったように、現時点では安静第一ですな。それと——」



 ルーカスは手を組み合わせて、握り込んだ。

 イリアが目覚めた事は嬉しいが、手放しで喜べる状況にはない。



(一体、何があったんだ……)



 刃物でったと思われる怪我と記憶喪失そうしつ


 政争、闘争、不慮ふりょの事故。


 ——はたまた何者かの思惑か。



(いずれにしても、彼女の実力を考えれば害をなせる人物は限られる。もしが関わっているなら……不用意に事をおおやけにはできない。彼女の身の安全に関わる)



 ルーカスはそう結論付けた。教団に動きが見られないのであれば、なおの事だ。



(……そういえばこの一年、イリアは表舞台にあまり出ていなかったな。

 連絡も……職務に追われて、最近は取った覚えがない)



 ルーカスが特務部隊の団長に任命されたのは昨年の春。約一年前だ。慣れぬ団長の職務と立て込む任務に忙殺され、色々と余裕がなかった。



(ルキウス聖下の逝去と新教皇の就任。

 表舞台から遠ざかった彼女。

 そして今回の件……何か関係しているのか?)



 けれど、線に繋げるには情報が少なすぎる。

 どのような思惑が動いているのかわからないため、今は静観すべきだろう。


 ——と、考えをまとめていると、いつの間にか部屋は沈黙に包まれていた。


 ファルネーゼきょうとの対話を忘れ、思考の沼へ沈んでいた事に気付く。


 ルーカスがファルネーゼきょうへ視線を送ると、彼は聞いていなかった事などお見通しだと言わんばかりに、肩をすくめて見せた。



「すまない。思考にふけっていた。それで、彼女の今後の事だが……」


「まずはお嬢さんが安心できる環境を整えるのが宜しいかと。その上で今一度、詳しい検査をしてみましょう」


「安心できる環境、か」



 公爵家ここならば可能だろう。

 彼女の記憶が戻るまで安全な場所を提供し、敵から守り抜く事も。今の自分であれば難しくない。


 ふと、ルーカスは、生前ルキウス聖下と交わした約束を思い出す。



『もしこの先あの子が困っていたら、その時は手を差し伸べてあげてくれないか?』



 今がまさに、その時ではないだろうか。



(何より、イリアは俺にとって大切な存在だ。

 ルキウス聖下との約束を抜きにしても、守りたい大切な……)



 ——ならばやる事は決まっている。


 決意を胸に、ルーカスは立ち上がり。



「ファルネーゼきょう、先ほどは事情も聞かず詰め寄ってしまい申し訳なかった。イリアの事、よろしく頼む」



 謝罪の意を込めて頭を下げた。



「顔を上げて下され、若様。むしろわしは若様が取り乱すほど、心を寄せるお方が居た事を嬉しく思っておるのですよ。

 過去にはお辛い経験もなされたでしょうが、近い内にいい知らせが聞けそうですな?」


「……揶揄からかわないでくれ」


「はっはっは! 心配せずともわかっております。治療についても出来る限りを尽くしましょう」



 豪快ごうかいに笑って見せたファルネーゼ卿の言った「わかっている」とは何を差しての言葉か。


 彼女の事で揶揄からかわれるのは、これで三人目。

 一日に何度も同じような事を言われれば、嫌でも気付かされる。



(どうも俺は、イリアの事となると周りが見えなくなってダメだな……)



 ルーカスは「気を付けよう」と、一層の自制心を持って行動する事を、己の心に深くきざんだ。

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