涙がこぼれ落ちて、止まらなかった。
〝彼〟が訪れたのは、そんな時だ。
コンコン、とノック音が鳴った。自然と、皆の視線が音の鳴った方へ。侍女が扉へと向かった。けれど
「目覚めたと聞いて、彼女は——」
彼は息を切らした様子で肩を上下させ、
鼻筋が通っていて、とても
(綺麗な、人……)
思わず見惚れてしまう。すると、彼の紅い瞳と視線がぶつかった。
何故か、涙が止まらない。意図せずぼろぼろと
こんな姿を見知らぬ青年に晒してしまった事が、とても恥ずかしかった。
彼の瞳から逃れるように視線を
——直後。
「何があった、答えろ! ファルネーゼ卿!!」
怒りを含んだ彼の
突飛な行動に頭が混乱する。理解が追い付かない。彼の怒っている理由がわからなかった。
「ルーカス様、落ち着いて下さい!」
と、侍女が慌てて止めに入ったが——ルーカスと呼ばれた彼の耳に、その声は届いていないようだった。締め上げる手を強め、青筋を立てて怒りを
怒りに
けれど、当のファルネーゼ
それどころか、
「はっはっは! 若様のこんな姿が見られるとは」
どうしてこの状況で嬉しそうにしていられるのか。不思議だった。
「笑っている場合じゃない! 答えるんだ!」
彼の手に一層力が加わっている。ファルネーゼ
(ダメ……やめて!)
「
「彼を止めないと」と、使命感にも似た感情が、自分の中に湧き上がる。
恐怖に負けてはいけない。勇気を出さなければ、と己を励まし、息を吸ってお腹へ力を。
「——お願い、やめて……やめて、ください!!」
ようやく口から出た音は、自分でも驚くほど大きかった。
紅い瞳がこちらへ向く。怒りの滲んだ表情を見て、反射的に肩が跳ね、手が震えた。恐怖心から涙が
けれど、構わず訴え続ける。
「貴方が誰かはわかりません! だけど、こんな……こんなこと、止めて下さい!」
すると、彼は目を見開き、動きを止めた。
その口からどんな言葉が飛び出すのか、予想がつかなくて身構えてしまう。だが——。
「な——俺が、わからない、のか……?」
彼は、動揺していた。
締め上げていた手が
彼はしばらく
「ファルネーゼ卿、これは、どういう……」
「若様、お嬢さんはどうも、記憶を無くしてしまわれたようなのですよ」
「記憶を……?」
視線がぶつかる。思わず
「……イリア」
切なく紡がれた音。それが自分の名だろうか。弾かれるように彼を見やると、形の良い眉根を下げて瞳を揺らし、とても悲しそうにしていた。
(どうして、そんな顔をするの……?)
ちくり、と胸が痛む。とてつもない間違いを、犯してしまったような気持ちになる。こんな気持ちになる理由がわからない。
(貴方は、一体……)
自分とどんな関わりがあると言うのか。思い出そうと思考して——イリアは、酷い頭痛に見舞われた。
「……うっ、ああっ!」
頭が割れるように痛い。まるで「これ以上考えるな」と、警鐘を鳴らすかの如くガンガンと音が鳴り響き、痛む。
イリアは頭を抱えてうずくまった。
「イリア、どうした!?」
心配そうな、彼の声が聞こえる。返答しようにも、痛みが邪魔をして声を上げる事が出来ない。
「記憶喪失に伴う症状でしょうな。お嬢さん、無理に思い出そうとしてはいけないよ。何も考えず、ゆっくり深呼吸をしてごらん」
温かな手が背を撫でた。ファルネーゼ卿のものだとわかる。「大丈夫、大丈夫じゃよ」と声をかけながら、優しく摩ってくれる。
(考え……ない。……息、を……)
イリアは言われた通り思考を
そうすれば、少しずつ。痛みは引いていった。
こめかみを押さえて、顔を上げる。と、今にも泣き出しそうな表情で、こちらを
「大丈夫かね?」
「……は、い」
イリアは頷く。まだ僅かに痛むが、耐えられないほどではない。
「ファルネーゼ卿、イリアは……」
「現時点では安静第一としか言えませんな」
「……そう、か。…………
彼は浮かない様子で
「ファルネーゼ
「かしこまりました」
ルーカスは侍女にそう告げると、こちらを振り返る事なく、そのまま退出していった。
ファルネーゼ卿も、
「ふむ、若様は随分と余裕がないご様子ですな。お嬢さん、
と、言い残して、彼の後を追った。
(……行っちゃった)
頭痛は嘘のように治まっていた。だが、過去を思い出そうとした時に感じたあの痛みは何だったのか。
しんと静まり返る部屋の中。イリアの胸に新たな不安が芽吹いてゆく。
わからない事が怖い。思い出せない事が苦しい。
ここに来て人の優しさに触れて、紛れたはずの感情がどんどん大きくなる。
(私を知っている様子の彼……。
彼に話を聞ければ、この不安から逃れられる……?)
イリアは彼の去った扉を見つめて。押し潰されそうになる心を悟られぬよう、唇を引き結んだ。