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第十四話 感情の波

 涙がこぼれ落ちて、止まらなかった。

 〝彼〟が訪れたのは、そんな時だ。


 コンコン、とノック音が鳴った。自然と、皆の視線が音の鳴った方へ。侍女が扉へと向かった。けれど辿たどり着く前に扉は開き。



「目覚めたと聞いて、彼女は——」



 低い音域の声バリトンボイスを響かせて、赤と黒の布地を基調とし、金の装飾で飾られた軍服を纏った黒髪の青年が飛び込んできた。


 彼は息を切らした様子で肩を上下させ、ひたいと頬に汗を伝わせている。


 柘榴石ガーネットを思わせる紅い切れ長の瞳に、左目の下には泣き黒子が二つ。

 鼻筋が通っていて、とても端正たんせいな顔立ちをした青年だ。



(綺麗な、人……)



 思わず見惚れてしまう。すると、彼の紅い瞳と視線がぶつかった。


 何故か、涙が止まらない。意図せずぼろぼろとこぼれ落ちる。

 こんな姿を見知らぬ青年に晒してしまった事が、とても恥ずかしかった。


 彼の瞳から逃れるように視線をらす。とにかく、涙を止めないと。そう思って、頬をぬぐおうとした。


 ——直後。



「何があった、答えろ! ファルネーゼ卿!!」



 怒りを含んだ彼の声色こわいろが部屋に木霊した。驚いて視線を戻すと、彼がファルネーゼきょうの胸倉を掴んで締め上げていた。


 突飛な行動に頭が混乱する。理解が追い付かない。彼の怒っている理由がわからなかった。



「ルーカス様、落ち着いて下さい!」



 と、侍女が慌てて止めに入ったが——ルーカスと呼ばれた彼の耳に、その声は届いていないようだった。締め上げる手を強め、青筋を立てて怒りをあらわにしている。


 怒りにゆがむ彼の顔はとても怖い。

 けれど、当のファルネーゼきょうは、意外にも平然としている。


 それどころか、



「はっはっは! 若様のこんな姿が見られるとは」



 突如とつじょ、嬉しそうに笑いをこぼした。

 どうしてこの状況で嬉しそうにしていられるのか。不思議だった。



「笑っている場合じゃない! 答えるんだ!」



 彼の手に一層力が加わっている。ファルネーゼきょうを締め落とす勢いだ。



(ダメ……やめて!)



 「ひどい事をしないで!」と、そう伝えたいのに言葉にならない。もどかしくて、拳を握りしめた。その間にも、彼は力を強めていき——。


 「彼を止めないと」と、使命感にも似た感情が、自分の中に湧き上がる。


 恐怖に負けてはいけない。勇気を出さなければ、と己を励まし、息を吸ってお腹へ力を。つむぎたい音を意識して、震える唇を動かした。



「——お願い、やめて……やめて、ください!!」



 ようやく口から出た音は、自分でも驚くほど大きかった。


 紅い瞳がこちらへ向く。怒りの滲んだ表情を見て、反射的に肩が跳ね、手が震えた。恐怖心から涙があふれてくる。


 けれど、構わず訴え続ける。



「貴方が誰かはわかりません! だけど、こんな……こんなこと、止めて下さい!」



 すると、彼は目を見開き、動きを止めた。

 その口からどんな言葉が飛び出すのか、予想がつかなくて身構えてしまう。だが——。



「な——俺が、わからない、のか……?」



 彼は、動揺していた。

 締め上げていた手がゆるみ——ファルネーゼきょうが拘束から解き放たれる。


 彼はしばらく呆然ぼうぜんと立ち尽くして。それからはじかれたように、襟元えりもとを正すファルネーゼきょうへ視線を送った。



「ファルネーゼ卿、これは、どういう……」


「若様、お嬢さんはどうも、記憶を無くしてしまわれたようなのですよ」


「記憶を……?」



 視線がぶつかる。思わずらしてしまった。彼は平静を取り戻していたが、先程の恐怖心が蘇って直視出来なかった。



「……イリア」



 切なく紡がれた音。それが自分の名だろうか。弾かれるように彼を見やると、形の良い眉根を下げて瞳を揺らし、とても悲しそうにしていた。



(どうして、そんな顔をするの……?)



 ちくり、と胸が痛む。とてつもない間違いを、犯してしまったような気持ちになる。こんな気持ちになる理由がわからない。



(貴方は、一体……)



 自分とどんな関わりがあると言うのか。思い出そうと思考して——イリアは、酷い頭痛に見舞われた。



「……うっ、ああっ!」



 頭が割れるように痛い。まるで「これ以上考えるな」と、警鐘を鳴らすかの如くガンガンと音が鳴り響き、痛む。


 イリアは頭を抱えてうずくまった。



「イリア、どうした!?」



 心配そうな、彼の声が聞こえる。返答しようにも、痛みが邪魔をして声を上げる事が出来ない。



「記憶喪失に伴う症状でしょうな。お嬢さん、無理に思い出そうとしてはいけないよ。何も考えず、ゆっくり深呼吸をしてごらん」



 温かな手が背を撫でた。ファルネーゼ卿のものだとわかる。「大丈夫、大丈夫じゃよ」と声をかけながら、優しく摩ってくれる。



(考え……ない。……息、を……)



 イリアは言われた通り思考をめ、ゆっくり息を吸って、吐く。それを何度も繰り返した。


 そうすれば、少しずつ。痛みは引いていった。


 こめかみを押さえて、顔を上げる。と、今にも泣き出しそうな表情で、こちらをうかがう彼の姿があった。



「大丈夫かね?」


「……は、い」


 イリアは頷く。まだ僅かに痛むが、耐えられないほどではない。



「ファルネーゼ卿、イリアは……」


「現時点では安静第一としか言えませんな」


「……そう、か。…………さわがせて、すまなかった」



 彼は浮かない様子でうつむき、束ねた長い黒髪の流れ落ちる背中を見せた。



「ファルネーゼきょう、詳しい話は別室でしよう。ビオラ、俺達は下がる。後の事を頼んだ」


「かしこまりました」



 ルーカスは侍女にそう告げると、こちらを振り返る事なく、そのまま退出していった。


 ファルネーゼ卿も、



「ふむ、若様は随分と余裕がないご様子ですな。お嬢さん、わしも一旦席を外すよ。今は記憶の事は考えず、しっかりと体を休めるんだよ。まずは食事を取るのも良いかもしれないね」



 と、言い残して、彼の後を追った。



(……行っちゃった)



 頭痛は嘘のように治まっていた。だが、過去を思い出そうとした時に感じたあの痛みは何だったのか。


 しんと静まり返る部屋の中。イリアの胸に新たな不安が芽吹いてゆく。


 わからない事が怖い。思い出せない事が苦しい。

 ここに来て人の優しさに触れて、紛れたはずの感情がどんどん大きくなる。



(私を知っている様子の彼……。

 彼に話を聞ければ、この不安から逃れられる……?)



 イリアは彼の去った扉を見つめて。押し潰されそうになる心を悟られぬよう、唇を引き結んだ。

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