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第十三話 見知らぬ場所

 そよそよと何処からか吹き込むやわらかな風が、頬を撫でる感触に、沈んだ意識がゆっくりと覚醒していく。


 ——まぶたを開いて最初に映り込んだのは、見知らぬ天蓋てんがいだった。



(ここは……私は、確か——)



 覚醒したばかりで上手く思考が働かない。

 でも、少しずつ、ゆっくりと直前の事を思い出してみる。


 リシアと名乗った少女との出会い、花が咲いたような笑顔、禍々まがまがしい黒いオーラをまとった獣、怒号に血飛沫ちしぶき、そして——歌。



(……歌……)



 あの時は不思議な感覚だった。


 眼前に広がる凄惨せいさんな光景と悲鳴に、何も出来ず終わるのは嫌だと思った瞬間——力があふれ、旋律せんりつが浮かんだ。


 まるで昔から知っていたかのように。


 それ以前の事は——思い出そうとすると、やはり記憶にかすみが掛かったような感覚で、無理に考えようとすれば頭が痛んだ。


 そよぐ風が肌をくすぐり、流れにさそわれて窓辺を見れば暖かな日差しが差し込んでいた。

 起き上がり、ベッドから一歩踏み出してみる。


 一歩、また一歩と進んで。窓辺に辿り着くと、開け放たれた窓からテラスへと足を運んだ。


 外へ出ると一瞬、まぶしさで視界が白に染まった。だが、明るさに目が慣れるとそこには、四季の花々と木々に彩られた美しい庭園が広がっていた。



「綺麗……」



 力強く咲きほこる美しい花と、景観美けいかんびを考えて整えられた木々が見事な美を演出している。壮観だ。目を奪われる。


 吹き付ける風が銀の髪糸をさらっていく。なびく髪をおさえ、欄干らんかんに手を添えて、景色に魅入みいった。



(ここはどこだろう? 私は……どうしてここに?)



 振り返って、部屋の様子を確認する。


 上品で気取らない、品の良い家具で内装が整えられている。

 ベッド以外に、くつろぎのスペースもあって、多分一般的な部屋よりも広いと思われた。


 そして、テラスからの外観を見る限り、ここが二階で大きな邸宅である事がうかがえる。


 邸宅の境界線は、庭園のずっと先。


 境界線の先には他の邸宅の屋根らしきもの、はるか先には大きな建物——城の様な尖塔せんとうの建物が朧気おぼろげに見えている。


 部屋にも、外の景色にも、もちろん見覚えはない。


 記憶が抜け落ちてしまっているのだから当然とも言える。

 無我夢中で歌ったのは覚えている。けれど、ここにいる経緯はまったく思い出せなかった。



「お目覚めになられたのですね」



 急に背後から女の人の声が聞こえた。


 くるり、と振り返ると、金色の髪を束ねた濃紺のうこんの瞳の若い女の人がいた。

 黒地のワンピースタイプの服に、白のエプロンを着用している。



(この家の使用人……侍女さん?)



 その人はこちらを見て——何故か動きを止めた。



(どうしたんだろう?)



 首をかしげる。しばらく見つめていると、彼女がハッとした様に身じろいだ。



「お医者様をお呼びしますね。お嬢様、どうかこちらへ。お部屋の中にてお待ち下さい」


「えっと……、わかりました」



 お嬢様と呼ばれた事に、言い知れぬくすぐったさを覚える。

 言われた通り部屋へ戻ると、寝ていたベッドへと腰を下ろした。


 まだ置かれた状況を把握出来ないが、目覚めた時の部屋の様子や、侍女と思われる彼女の丁寧ていねいな振る舞いから、きっと悪い事にはならないだろうと思った。


 思考をめぐらせていると「ふわり」と何かが肩に掛かる。見れば、白い布地のショールだった。



「こちらで少々お待ちくださいね」



 と微笑みながら告げた、彼女が羽織はおらせてくれたのだと気付く。それから彼女は「すぐに戻ってまいります」と、部屋を後にした。


 扉が閉まるとパタパタと走る足音が聞こえ、遠ざかっていく。


 羽織はおったショールが暖かい。

 彼女の気遣きづかいが嬉しく、心も温まるのを感じた。






 ——程なくして、先ほどの侍女が白衣を纏った男性を連れて部屋を訪れた。


 あごと口周りに、髪色と同じ灰色のひげたくわえ、 緑色の瞳の目元にしわきざまれた熟年の男性だ。


 彼は「ファルネーゼきょう」と名乗り、ここ「グランベル公爵家こうしゃくけ」の侍医らしい。



(……グランベル)



 どこか懐かしい響きだが、やはり思い出せる事はない。


 ファルネーゼ卿と対面する形で、いくつかの簡単な問診と診察がおこなわれた。


 怪我を負った箇所は痛まないか。貧血はないか。と言った質問や、魔術による身体状況の確認をされた。


 その結果。



「怪我も治っているし、これと言って異常はなさそうだね」



 異常なしと診断が下る。


 診察は終始、温和おんわな雰囲気で行われたが独特の緊張感があった。終わった事にほっと胸をでおろす。



「どうかな? 何か気になる事はあるかな?」



 気になる事と問われ——何も思い出せない事を話すべきか、迷う。


 親切にしてくれたとは言え、知らない人に話すのは緊張する。少し怖い気持ちもあった。


 だが今の自分には、頼れるがない。ここで隠しても、いい事はないだろう。勇気を出すしかない。


 少しの間を置いて、「実は」と話を切り出す。



「……思い、出せないんです。名前も、自分が誰なのか……も。私を治癒してくれたあの子、リシアさんと出会う以前の事が、何も」


「記憶が……ふむ」



 自分の隣にひかえた侍女が、驚きの表情を浮かべる。

 ファルネーゼ卿は顎鬚あごひげでながら考えをめぐらせているようだった。


 沈黙が流れる。もどかしさがつのる。



(どう……思われたかな)



 この人達は「面倒な事になった」と、困った笑いを浮かべるだろうか。



(何もわからないのに、もし見捨てられたら——。

 この先、どうすればいいのかな……)



 心に不安が降り積もる。

 俯いてぎゅっと拳を握り、まぶたを閉じた。


 ——すると、頭に温かな何かが乗せられた。



「記憶がなくて心細かっただろうね。何、心配はいらんよ」



 見ればおだやかな笑みを浮かべるファルネーゼきょうがいる。

 彼の大きな手が、安心させるように頭をでてくれていた。



わしも力になる。公爵家の皆様もきっと君の力になってくれる。だから安心していいんだよ」



 高めのゆっくりとした口調だ。不安に思っていたのが嘘のように心が晴れて行く。



(優しくて、あったかい)



 意図せず瞳から、しずくが一筋流れ落ちた。



「……ありがとう、ございます」



 優しさが嬉しかった。

 安心したら涙が止まらなくて、次から次へとあふれては落ちた。



(リシアさん、侍女さん、お医者様——記憶を失って、目覚めた時に出会ったのは幸運にも優しい人達だった)

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