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第四話 私は……誰?

 暗い、暗い、一面が闇に満たされた意識の深淵。

 海の中にいるような、感覚。


 〝————〟は揺蕩たゆたっていた。


 何も考えられず、呆然ぼうぜんと。


 ゆらゆら、ゆらゆら。


 段々と体が重くなっていく。

 このままだと沈んでしまうだろう。


 けれど、思考が働かず、流れに身を任せおぼれていった。


 そんな時。

 暗闇の海に一筋の光が差した。



(——ひか、り……?)



 柔らかな光。眩しさを感じて、意識を浮上させる。

 すると——焼け付く熱さ、激しい痛みが腹部に走った。



(熱い……痛い……っ)



 ゆっくりとまぶたを開き、光を取り入れる。


 視界がクリアになって焦点が合う。目の前には心配そうにこちらをのぞき込む女性の顔があった。



「あ、お姉さん! 良かった……気がついたんですね!」



 見覚えのない女性だった。


 赤と金のラインが入った純白の祭服に、黒瑪瑙オニキスの瞳、亜麻色あまいろの髪の毛先が、ふわりと内側に入り込むショートヘアの女性だ。


 そして柔らかな光の正体は、彼女が放つ治癒術の光と、木々の合間からのぞくく朝焼けだった。



「あな、たは……、ここ、は……」


「あ、はい! 私はリシア、エターク王国騎士団所属の治癒術師ヒーラーです!」


(——エターク、王国……? ……わからない。頭が、痛い)



 意識が朦朧もうろうとする。記憶にかすみが掛かったように、思い出せない。

 思い出そうとして思考を巡らすと、頭の奥で鈍痛がした。


 腹部にも相変わらず痛みがある。視線を落として見ると、衣服が裂けていた。


 青い布地に赤黒あかぐろ血糊ちのりが付着している。治癒術で塞がりつつある傷痕が裂けた布地の合間から見える。



 何故、自分はここにいるのか。

 何故、怪我を負っているのか。

 何か、やるべき事があったはずなのに。


 何故? どうして?



 次々と疑問が浮かぶ。

 けれども、考えよう思い出そうとする度に、頭痛とかすみはばまれて、頭が真っ白になってしまって……。



(なにも、思い出せない)



 焦燥しょうそう感が募る。

 名前も歳も、それすらも思い出せない。無意識に拳を握り締めた。



「——さん、お姉さん! 傷は塞がったはずだけど、まだ痛みますか? 大丈夫ですか!?」



 リシアのあわあわと慌てる声に、ハッとする。思考を中断して顔を上げた。

 苦悩が表情に出ていたようだ。傷の痛みはもうない。



「だい、じょうぶ、ありがとう……」


「ああ、良かった……!」



 口が乾いて呂律が上手く回らなかったが、何とかそう伝えると、リシアはまるで花が咲いたように破顔はがんした。


 とても愛らしい笑顔。

 見ているだけで心が癒されるような、魅力がある。治癒術を扱う彼女は、笑顔にもその効果があるのでは、と思えてしまう。

 釣られて、こちらまで微笑んでしまった。


 ——だが、なごやかな空気は一瞬だった。


 近くから「グオオオオオォォ!!」とけたたましい雄叫びが聞こえた。

 かと思うと大地が振動し、大きな衝撃音と剣戟けんげきが響き渡る。


 何事か確認しようと痛みにきしむ体を起こすと、するり、と朝露あさつゆにきらめく様な、細く長い銀色が肩から流れ落ちた。



(銀の糸……?)



 否、髪である。

 それが自分の物であると認識するのには数秒をようした。


 認識して、まばたきを一回。辺りを見渡せば、ここは木々の立ち並ぶ森の中だった。


 遠くない距離に、銀の鎧を身に着けた騎士らしき数十名の人の姿が見える。

 首元から赤と金の装飾の施された制服がのぞいている。


 リシアの衣装のラインと同じ色合い、きっと仲間……なのだろう。


 彼らは、武具を手に陣形を組み、雄叫びを上げて暴れ狂う何かを囲んで対峙たいじしていた。


 その後方にはリシア同様、純白の祭服に身を包んだ治癒術師ヒーラーや、赤と黒を基調としたローブを着た、魔術師らしき人達がひかえている。


 魔術を使って、前衛の騎士を援護している様子だった。


 よく見れば自分の周りには負傷した様子の騎士が数多く倒れ、横たわっている。


 治癒術師ヒーラーが順に治療にあたっているが……負傷者に対し、治癒術師ヒーラーの絶対数が足りない様に見える。



(私も、この人達の仲間……? 囲む何かにやられて、負傷して……記憶が曖昧になったの?)



 状況からしてその可能性が高いと思った。


 しかしすぐ、彼らが身にまとった衣服と自分の衣服との差異に、その可能性はないと気付かされる。


 自分が着ているのは、黒のインナーの上にあわい青を基調とした裾の短いワンピースのような装い。

 彼らは赤と黒がメインの色合いで、服の型も似ているとは言いがたい。


 記憶の手掛かりになると思ったのに、そう甘くはなかった。



(状況を、把握はあくしないと)



 立ち上がろうと足に力を入れた。

 次の瞬間の事だ。


 「ドゴオオオン!」と轟音ごうおんが響き渡る。


 前衛で囲んでいた数名の騎士が土煙と共に宙に舞い上がって、すべなく吹き飛ばされて行った。


 数秒経って煙が晴れ、ぽっかりと空いた包囲網から見えたのは、巨大な黒いかたまり

 目視できる程に禍々まがまがしい黒いオーラをまとった、熊に似た生物がいた。


 自分の事に関する記憶は一切思い出せないが、それが何であるのかはハッキリとわかる。

 あれは世間一般に魔獣——魔熊まゆうと呼称される生物だ。


 獲物をむさぼるためだろう、爪は普通の熊の何倍も大きく鋭利えいりに発達しており、鮮血がしたたっている。


 半開きに開かれた口には血濡ちぬれの牙が見え、血走った眼球と赤い瞳が次の獲物を探すかのようにギロリと動いた。



「包囲網を崩すな! 陣形立て直せー!」


「魔術師隊は障壁詠唱! 治癒術師ヒーラー、負傷者の回復急げ!」


「もうすぐ援軍が来る! それまで持ちこたえろ!」


「グガアアァ!!」



 指揮官の怒号と、兵士の悲鳴と、地の底から響くような、重低音で不快感のある魔熊まゆうの雄叫びが戦場に飛び交った。



「はわわ……! 私、行きますね。お姉さんは安全なところへ逃げて下さい!」



 側に居たリシアは酷く慌てた様子で、立ち上がった。

 「逃げて」と言われても、右も左もわからない状態で何処へ行けというのか。



「……あ、待っ——」



 追い縋ろうと、手を伸ばした。


 すると「うわあああ!」という悲鳴と共に、鮮血が舞い飛んできて、すぐ近くに腹を裂かれ血濡れとなった騎士の躯体が落ちた。



「きゃあ!?」



 突然の事にリシアが驚き、尻餅をついた。



「な、治さないと……!」



 彼女は負傷した騎士へにじり寄り、手を合わせる。

 『慈愛じあいの光よ』と、治癒の奇跡を起こす文言が紡がれ、淡い光が放たれた。



「だめです! 障壁詠唱間に合いません!」


「このままでは崩されます!」



 だが、リシアが負傷した兵を癒すよりも早く。


 魔熊まゆうの剛腕による薙ぎ払いが、盾を構えた騎士をいとも簡単に切り崩して、陣形を立て直そうとしていた騎士達が、次々と宙へ舞った。


 血飛沫を撒き散らした騎士の躯体くたいが「ドサリ」と鈍い音を立て地面に落ちて行く。



「……あ、ああ……」



 眼前に惨状さんじょうが広がった。リシアは息をするのも忘れた様子で、がたがたと震えあがっている。

 恐怖に染まった黒瑪瑙オニキスの瞳が、鮮血をまと魔熊まゆうを見つめた。



「く……そ……っ、応援……は」


「……誰、か……」



 前衛を務めていた騎士達は壊滅状態。

 魔熊まゆうがこちらへ向く。

 血のように赤い瞳が次の獲物——リシアを捉えた。


 阻むものはない。巨体が向かって来る。



「……逃げ、ろ……ッ!」



 息も絶え絶えな一人の騎士が、叫んだ。


 だが、リシアは足がすくんでしまったのか、へたり込んで固まっている。


 そうしている間に、距離を詰めた魔熊が血濡ちぬれた爪を、大きく振り上げて——。


 直感で悟る。

 このまま何もしなければ、自分を助けてくれたリシアが、ここにいる全員がやられてしまう、と。



 自分が何者なのか。

 何故ここにいるのか。

 何が出来るのかはわからない。



 でも、このまま何もせずあらがわなければそれで終わり。

 何を知る事もなく、消えて行くだろう。



(……そんなの……そんなのは——嫌!)



 無力感にさいなまれ、手が届く人を守れず、終わりたくない!



 と、終焉しゅうえんあらがわんとする、強い思いが芽生えた。


 すると、想いに呼応するかのように。銀色のきらめきが突如、体から放たれた。


 これは、マナだ。

 奇跡を起こす神秘の力だと、不思議と理解できた。


 解き放たれたマナの放流が風となり吹きすさび、まとった衣裳いしょうと銀糸をなびかせる。いつの間にか足許あしもとに魔法陣が展開し、輝いている。


 神秘の輝きが光の洪水となって周囲を照らす。まばゆい光にひるんだのか魔熊が後退あとずさった。



「何、だ!?」


「お姉さん……?」



 マナがきらめいている。とても綺麗で、暖かな光。

 輝きを見ていると、一つ、二つ……と脳裏に旋律が生まれた。



『さあ、歌って、つむいで。

 歌は祝福、みちびき。

 貴女の歌は、運命を切り開くための鍵』



 誰かが耳元でささやいた。優しい声。懐かしさすら感じる。

 導かれるように、感じるまま旋律に歌を載せ、つむぐ。



『紡ぐは慈愛の恵みと堅牢けんろうたる守りの讃歌——』



 この歌が奇跡を起こす事を願って。

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