ふと街を歩いていると、獰猛そうな犬が二匹、こちらに向かって歩いて来た。
僕は犬より猫派の人間というけど、別に特段犬が嫌いという訳でもなく、猫より劣るが犬には犬の愛嬌がほどほどにあると思っている人種なのだが、その日はさすがにちょっと驚いた。なんせ犬が二匹とも飼い主が不在な状態で、道路を闊歩していたからである。僕はそんな場面に出くわして、まるで西部劇のガンマンのようなポーズをとっているような気持ちで犬と視線を交わした。一匹の犬は舌を出していた。ぴんく色の舌で歯は白かった。それで、その黒い豆粒みたいな目には白いコントラストが、それまた豆粒を張り付けたみたいにくっついていて、引いた鼻先にぴんと伸びた耳が特徴である、俗にいうところのフレンチブルドッグであると推定する。別に犬種について詳しいというわけではなくあくまで推定であるから、全世界の犬愛好家がたに失礼がないよう、しっかりと注釈しよう。
そしてもう一匹は全体的に灰色で耳が倒れていて、手足が馬みたいに細い犬だった。どうだろう。イタリアン・グレイハウンドか、ウィペットあたりだろう。推定である。ただし、そんな犬たちが二人そろって僕の数歩さきを歩いている姿は、まるで風景はいつもの道路というのに何故かそこはいつもの世界ではないきがした。思い返してみても、そんな特徴だらけの犬を飼っているご近所さんは思いつかない。こういうとき一体どういう機関に連絡すればいいのだろうか?
しかし不思議だった。犬たちは僕と視線を交わしたあと、ふとイタリアン・グレイハウンドかウィペットあたりであろう灰色の犬を筆頭に歩み出し、その後ろをフレンチブルドッグがついてあるくという姿をみせ、僕が呆気に取られていると、そのまま真横を歩いて行き、僕という人間にまるで興味がないような仕草でスルーされてしまった。僕はその様子をみつめているとするべきであった機関への連絡を犬の行進とともに抹消してしまい、とある考え事が脳裏に生まれた。
犬は、人と違う生命であるのだが、どうして人と犬は分かち合えるのだろう。
これは僕が実体験もないくせに物事をこうであると思いたい、はたまた、常識的にという世間様に自然な言い訳が働くことでもあるのだが、しかし、何となく気になってしまったのだ。犬を飼っている人物は口をそろえて可愛いとか言うが、思えば、その心は通じ合っているのだろうか。分かっている。そんなこと犬本人と飼い主の心が見えない限り永久に解決できない問題であるのは、重々承知している、のにもかかわらず、僕はひょんなことが気になってしまうと、それを考えるくせというか、趣味があるのだ。色んな視点から、というのはちょっとばかり苦手だけど。主観で考えて、都合のいい答えを出す戯れが、何か最近のマイブームであるせいで、そんな犬の姿をみたとき、そういう『不分明』に、一度好奇心の天秤が傾いてしまった以上、考えられずにいられないのだ。
家から十分くらい歩いて、畑とかの脇道を通ると横切ってくるトヨタの車と、三人組の小学生が雑談しながら自転車をこいで通った。彼らをみて思いを巡らせる。
人と人は分かり合えることがない。何故ならそれこそ、心を覗く術はないからである。確かに感情という反応がある程度の気持ちを推し量るうえで重要であり、人々は対話のなかで、顔を伺いながら親睦を深めていた。だが僕の持論から言わせれば、そういうものは、多少なりとも嘘があると思っていて、故に、僕に言わせれば、真に心を理解している他人は存在しないというのが結論ではある。ただし、それは僕の主観的かつ一方的な結論づけであり、他人の理屈では少し違うのかもしれない。実際、僕は他人からそれは違うと理屈を垂れられたことがある。多少長々としてまとまりがない話し方をする友人だったから困ったけど、簡単に要約すると『人は感情で共鳴したとき、心が通じ合う』というのだ。確かに。と思った。一理あると。
ただしそれは他人同士にある、言わば波長といったまやかしであると僕は思っている。それは多少感覚めいた話ではあるけど、『たまたま』同じことを想った。が僕の答えである。確かに僕とて友達がいない訳ではない。それなりに人と会話をするし、他人がいないと飢えてしまうという、とても寂しがりな自分の一面も理解している。だから、『感情で共鳴したとき、心が通じ合う』という理屈通りの状況に遭遇したことがあるのだ。確かに同じことを考えていたときや、同じ感想を抱いたとき、にわかに嬉しくなり、お互いが、心を通じ合わせている――。
ならば、僕はこう言おう。
『瞬間的な共感ならば、心は通じ合う』と。
ただしこれには枕詞に、瞬間的ながついてしまう。僕が気になるのは、もっと永続的な、朽ちないような通じ方である。それこそ、友人はどうだろう。
確かにたまに、この人とならずっと話せるかもと感じる、一緒にいて心地いい人間が性別問わずいる。それも言ってしまえば、波長というまやかしがたまたま合致しただけだと、多少ませた冷たい回答をしようと思えばできるのだが、それでは味気ない。そんな曖昧な回答では、犬と人間が分かり合えるのかという答えにはならない。僕はね、ちょっと変な事をいうけど、科学的なこととかあまり興味がないのだ。僕は人だから、非科学的なことを好んでいる。いうなれば、想いってやつさ。ませてるだろう?
さて、そんなことを考えながら図書館に到着した。このあたりで一番大きな図書館で、黒いレンガの壁とモダンな正面の造形は、一度みたら記憶に残りそうな立派なものでありながら、細かくみると、それは、どこかでみたようなプリセットのパズルだった。モダン建築の素晴らしさというのをはっきりと論じれる訳じゃないけど、僕はあの建造物の何に魅力を覚えるのか、美しいと思うのかで言えば、それはシンプルさであると思う。シンプルなものにはシンプルな回答で済ませてしまうけど、シンプルかつ洗練されたデザインが肝だ。ただのプリセットを並べるだけじゃ美しくない。そこに、人の美的感覚やらを組み込むと生まれる、シンプルながら色があるような趣が、モダン建築に魔力を纏わせている本質であると考えている。そういう美的感覚は僕にはないのだけど、たまに、どうして美的感覚がないのに人は建築物をみて関心するのかと疑問に思う事がある。それは建築に限ったことじゃなくて、例えば、音楽もそうだ。専門的に言えば沢山の技術が集結された至高の一品である音楽や建築物を、なぜ庶民である僕らが理解でき感動できてしまうのか、疑問だった。もしかすると、これも犬と人間が分かり合えるのかという疑問と間接的に繋がっているのかもしれない。考慮してみよう。
建物へ入り、図書室へエレベーターを使ってあがった。近未来な扉が左右にスライドすると眼前にはコンクリートの壁があり、体を出すと右手に通路、左手には緑色の蛍光灯と非常用階段があった。右手の通路を僕は進むと剝き出しになっているパイプの壁が現れ、その先には暖色の灯りがついた部屋が見える。その灯りがついた部屋にはいるとさっきのコンクリートの通路で感ぜられた窮屈感が一気になくなり、そこは広々とした圧巻の本の世界であった。
僕は受付のお姉さんに挨拶を済ませ本の森へ入場した。そうして犬についての蔵書を漁ろうと視線を交差させるが、しかし、ふと思った。ついさっき僕は科学的なことがあまり好きではないといった。なのに、こんな図書室へやってきて犬の本を手に取ろうと考えている。それは矛盾していた。行動と拘りの矛盾。そんなことに気が付いた僕は犬についての蔵書がある森を離れて、変な形をしたテーブルに腰をかけた。ふと目を左にずらすと、そこには立てかけられた絵本がずらりと並んでいた。どうやら座った場所がキッズスペースの近くだったようだ。僕は何となく絵本を眺めると、そこに『犬』が表紙を飾っているものを発見した。僕はそれを手に取って、おもむろに捲った。
簡潔に話をネタバレすると、少年視点で語られる犬と日常と別れが描かれた絵本だった。読んでから思い出したけど、この絵本を僕は小学生のときに読んだことがあった。これをみて僕はちょっとした確信が胸に迸った。
人の気持ちというのはたまにネガティブでありながらも、そこに希望をみようとするときがある。それは、妄想である。僕ははっきりと大人になっておもうんだけど、人は希望をみようとすればするほど大きなしっぺ返しがとんでくるときがある。人間はむずかしい生物だからたまにはイラっときてしまうし、疲れで周りが見えなくなってしまう人もいる。でもどんな人でも希望がある。心にぽつりとある灯りを僕は希望と呼ぶ。生命が生きようと思う気持ちを僕は希望と形容する。人はきっと希望と絶望のどちらも持ち合わせた不安定な存在なんだと思う。それで、人と言うのは希望も持つ生物であるからもうそこからは簡単なことだった。
少年は犬と暮らすなかで犬と心が通じ合っているわけではない。これは僕の間違いだった。どうやら人は犬を愛でるけども、実際は躾けたり怒ったりすることが殆どである。絵本の中で犬は勝手に花壇を荒したりしていた。人でいうならクソガキだ。でも僕は知っていた。クソガキといわれる子供を世間はこっぴどく叱る事はない。いや、今のソーシャルメディアなら違うのかもしれないけど、普通の価値観、普通の感性、そして相手が目の前にいる場合と、叱る側が大人である場合は、大抵、怒りすぎない。何故なら分かっているからだ。ガキにマジになっても仕方ないってやつなのさ、それはね。善悪の分別は成長と共についていくもので言われてぱっと心変わりするわけではない。持論だけど人は愚者だから、具体的な後悔がなければ大人になれないと思う。まあ話を戻すとして。
それも言ってしまえば希望なのかもしれないけど、クソガキがいても人は𠮟りはするが本気ではない。諭すようにいうし響くように言葉に圧を籠めたりする。絵本ではそれを聞いて、なんと犬でも分別を覚えるらしい。犬でも出来るのに二十歳超えてそれが出来ない人は沢山いるから、じつは犬の方が賢いんじゃないかなんて思えてくる。みんな悪い事はしちゃだめだよ。
そんな犬に少年は希望を抱く。それは犬が僕と心を通じ合わせているという妄想ではない。
それは叱っていながら『実はみんな、叱ってるけど犬の事が大好きだった』。という表面的な部分からの、ただの【感想】だった。そこだ。そこだったんだ。人はやはり馬鹿であり、そこが美しい。僕は歓喜した。
希望は時に事実を歪める。言い方が悪いが、そう思おうと思えてしまうのが人の業であり儚さであり美しさだった。犬が可愛い。それをみんなが思っている。そんな共通認識が『心の共鳴』を実現させている。
とどのつまり、確証なき確信が正体であるのだ。
人は事実よりも主観を優先する。そしてその主観だけで人はどんなこともできてしまう。そう思うともしかしたら人って傍から見たら面白い人なのかもしれない。犬を人は可愛いと愛でているが、もしかすると犬から人は愛でられているのかもしれない。分からない。でも、直感的なものをことごとく払拭したとき人は印象を大切にする。それが肝だったんだろう。だから人はシンプルに関心するし、音楽を聴いて感動できるのだ。
誰も他者を理解していないが勝手に共感できるし勝手に愛せる。その歪みがたまたま噛み合った時に発生するのが『瞬間的な共感ならば、心は通じ合う』という事象なのだろう。
……長々とこんなしょうもないことに付き合わせてしまってごめんね。
これは僕のくせなんだ。
ちなみに絵本は最後まで読んだのだけど僕もとても感動した。別れというのはやはり心の希望という灯りが揺らめいてしまうくらいの衝撃を有している。
僕は、この絵本の少年にとても共感し、涙を流しそうになるくらいの、魂の震えを覚えた。
面白いだろう。
僕は今、ただの絵と、心を通わせているのだから。