体を起こし、辺りを見回して現状を確かめる。カーテンの隙間から零れる光や吸う度に肺に沁みるように馴染んでいく澄み渡る空気。
楓は今、間違いなく生きていた。
「どういうことだ」
理解出来ない。死に遭いあの夜に全てが閉じられたはずではなかったか。それが痛み一つ残らないという状況。楓の脳裏に暗い霧が蔓延って行った。
混乱に頭を揺らしながらも親が用意していた食パンにブルーベリージャムを塗って素早く平らげコーヒーの温もりに触れる。
父が広げる新聞紙の日付を確かめ目を見開いた。そこに印刷された文字が示す曜日は十一月最後の木曜日。
「父さん、それ今日のか」
「ああ、そうだが」
突然楓から放り込まれた疑問を反芻しながらただ首を傾げる父に対して楓は息苦しさを感じていた。
あり得ない。木曜日は昨日だったはず。
居ても立ってもいられない、感情の動くままにカバンを手に取り家を出た。足が刻んだ距離、冷たい空気に上塗りされた風が頬を冷やす。
「私の能力には無い」
誰かの死が引き戻した時間の間に辿った道の記憶を覚える能力が宿っているわけでもなければ死の瞬間を否定する能力を操るわけでもない。特殊の極みに立つ異能力者であるはずもない事は自分が一番理解していた。
「里香、あの子は今どうしてる」
会ってみなければ分からない。もしかすると他の能力者を媒介して記憶を植え付けられているのかも知れない。或いは里香を知る何者かが、例の計画の研究者の残党か。
いつもの待ち合わせ場所に立って待つ事十数分。愛しの彼女はあくびを噛み締め抑えながらゆったりとした足取りで現れた。
「おはよう、楓」
声は落ち着きに満ちていて、和やかな温もりの花を冷たい空に咲かせていた。昨日の事に関係しているとは到底思えなかった。
「どうしたの」
首を控えめに傾げる所作はあまりにも穏やかで微笑ましい。楓は瞳に込められた力を抜いて無理やり笑みを作る。
「なんでもない」
それから歩き始める二人。見慣れた景色に見飽きた建物、空の香りは乾いた心によく馴染む。
そうして歩く中で一つの大きな異変、見逃す事の出来ないそれを目にしてしまった。
今まで毎日通っている商店街の景色、そこから歩道橋が消えてしまっているのだから。
「里香、歩道橋がない」
楓の指摘を受けて里香は大きく首を傾げた。
「歩道橋なんてここになかったよね」
違和感はより一層大きくなって心いっぱいに膨らみ今にもはち切れてしまいそうだった。明らかな異変とそこに織り交ぜられた嫌悪感の漂う歪みを嗅ぎ取り、楓は駆け出した。
「どうしたの」
「今日は欠席で」
それは方向を示している。歪みのひどい方へ、より一層強い能力の気配へと向かう。焦りは景色の記憶を引っ張り出すよりも先に向こう側へと足を動かしていく。
そうしてたどり着いた場所、そこでようやく今の居場所を悟って震え上がる。
その場はあの研究所、かつて大きな戦いを経て里香と絵海を宿命から解放したあの場所。
廃れてしまったそこを、数週間程度の日数で埃が溜まり始めている床を歩く。電気が通っていない、完全なる廃墟の中は大きな闇。懐中電灯の一つさえ持っていない自分、かといって炎の能力を使おうにも長時間異能を扱えない自分。何も快適を持ち出せない拳を握り締める。
そうして歩いた先に待っていたのは不自然に明るい一室。それはあまりにもおかしな現象だった。
明るみの中にて座っている少女が顔を傾け滑らかな声で笑い始めた。
「お疲れ様」
「これは一体」
楓の足りない言葉でも理解に至ったのだろう。少女はそのまま声を奏でる。
「私の能力の中だよ、この世界そのものが」
少女は左手を掲げる。途端にその手に収まった傘はどこから取り出したものだろう。
「夢を操る能力、夢を描く力『ドリームドロウ』さ」
少女は楓の瞳を覗き込み、そのまま固まったような様で告げる。
「君、もう長くないよ」
「どういう事だ」
楓の疑問は彼女の言葉によってすぐさま解消される。霧を辺りに巡らせることすら許さないといった姿勢だった。
「予知能力者の仲間が言うんだ、楓ちゃんが死ぬって」
言葉が出て来ない。返したい言葉は、否定するための感情は幾らでも湧き出てくるはずなのに、何一つとして音にならない。
「異能力の戦いの中で里香だけ残すって」
少女は立ち上がり、むき出しの細く長い脚を動かし近寄っていく。一歩、また一歩、地面を叩く音を響かせながら寄っていく。
「どうにか伝えたかったんだけどなかなか出来なくて」
遂に目と鼻の先にまで近寄って、楓の頬に手を添えて耳元に口を近付ける。一拍の沈黙を生み出し、囁き交じりの地声を澄み渡らせた。
「ごめんね、不器用で」
それから楓の脳裏に浮かんだ光景は見るに堪えない物で、目を背けるように瞳は閉じられ意識はろうそくの火を掻き消すようにそこから消え去った。
体を起こし、辺りを見回した。カーテンの隙間から吹き込む輝きは木漏れ日のよう。すぐさま制服に着替えてパンにブルーベリージャムを塗って父が広げる新聞紙へと目を向ける。十一月最後の木曜日。
「父さん、それ今日のか」
父は新聞紙を見つめていた目を楓に向ける。
「ああ、そうだが」
楓は特に返事を返すことも無くパンを食べてコーヒーを啜る。湯気と香り、強くありながらも心地よい苦みが朝の空に彩りを与えていた。
家を後にして、里香と合流して商店街を歩く。歩道橋を通り過ぎ、並ぶ店の中にあるはずのものの存在を認められなかった。
「カフェは無いのか」
カフェロワイヤルとラスク。二人して目を輝かせながら交わしたあの会話の生きた心地は現実のものだった。
里香は頭を微かに下げて首を左右に振る。
「先週仕舞ったよ」
「そうか」
零れ落ちた言葉、閉店のお知らせの張り紙が見張り番をしている建物。
どれが真実なのか、どこが現実なのか分からないまま二人並んで学校への道を再び歩いて行った。