クリアな空はいつまでここにあってくれるだろうか。澄んだ空はいつ頃暮れるだろう。分からないもののいつまでも続いて欲しいと思えるのは楓の中に余裕があるからだろう。今までは気が気ではなかった。こうしている内にも里香が悲劇へと向かって一歩を踏み出しているのではないかと考えているだけで冷や冷やとしてしまう。今までのそんな息苦しさから解放された。すべての野望は止めたのだから。
楓は里香と共に歩き、歩道橋が特徴的な通りに並ぶ店の内の一つ、カフェを示す看板を見つめて微かに影がかかったアメジストの紫を持つ瞳を細める。
「カフェロワイヤル、期間限定でやるんだな」
楓が食い入るように見つめる中で里香は首を傾げる。
「コーヒーよりもラスクが気になるかな」
ホワイトチョコがかかったラスクが付いてくるという書き込みが里香の目を惹いたそう。学校の黒板を思わせる深緑の板の看板にチョークで描かれたコーヒーとブランデー、ラスクの絵。奥には白の花瓶と突き出した優しく落ち着いた緑とピンクで描かれた花の姿があり、店も人の目を惹くために必死なのだと思い知らされた。
「次の日曜日、行けそうだね」
今日は水曜日、あまりにも遠く感じられるそれは楽しみではあれども訪れるだろうかと不安を呼び起こしてしまう。
どうしてだろう、揺らぎを感じてしまうのだ。楓の中に生まれたそれは大きく強くたくましいものへと育ち行くのだ。
「どうしたの」
沈黙は里香の中にある種の疑いを産み落としてしまったよう。彼女の頬は相変わらずの柔らかさを見た目に滲ませているもののどこか固く見えてしまう。
「何でもないさ、この程度なんてことない」
心の中に生まれた揺らぎの中にちょっとした空気の歪みを嗅ぎ取って、すぐさまその場を後にした。
それから帰る際ひたすら付き纏う歪みに二人の時間を台無しにされてついに訪れてしまった夕日の沈み。空に溺れて茜色の輝きを吐き出す太陽に意識を向けるも歪みが晴れるわけでもなく。
里香にさよならを告げた後、楓は声を上げてみる。
「いるなら出て来い」
しかし、空気は澄んだまま。濁りの会話など訪れることも無く何も変わらない。
「隠れてないで現れろ」
それでも沈黙を貫き通す姿勢は楓を打ち負かし、楓は帰路に付き、自宅にたどり着いて親の出す生姜焼きを平らげ然るべき日常を歩んで眠りに就いた。
それまでの間、ただひたすら不快な歪みは寄り添い続けていた。
眠りは身体に元気を注ぎ込んで朝へと運んでくれる。しかしながら楓の目の下に刻まれたくまは取れる気配がない。
体を起こし、食パンにジャムを塗って早々に平らげてコーヒーを口にする。温かな湯気に包まれた穏やかな時間の中で相変わらず張り付いている空気の歪み。しかしながら昨日よりも曖昧なものになっているだろうか。
気分がすぐれない。どれだけの睡眠も気分転換も蔓延り続ける不快感の前には意味を成さない。
家を飛び出して学校へと向かう。景色が素早く過ぎ去っていく中で木曜日という文字が心の中で騒ぎ続けていた。あと二日で不快な現象を取り除かなければカフェでの安らぎの時間が台無しになってしまう。
楓は辺りに漂う気配の強弱を探りつつも成果を上げることが出来ないまま学校へとたどり着いてしまった。
十一月最後の木曜日は本来の形とは異なる寒気を運んできて何処までも不快だった。防ぎようのない感情、塞ぎようのない情緒の穴。抱え込んだまま過ごす一日の中で里香には黙り続ける事数時間。この時間がこの上なく苦痛で仕方がなかった。
溶かし尽くした時間の果てで帰宅の時間が訪れる。多くの人々にとっては暗い時間の終わり、楓にとっては明るい時間をつかみ取るための始まり。
里香と歩き、昨日の通りにまで訪れた。歩道橋が伸びて空を染める無機質が眩しい。
陽光に照らされる中で楓は昨日の景色を想いながら違和感をつかみ取る。
「カフェの看板は」
里香は首を左右に振って言葉を向けた。
「先月仕舞ったよ」
つい昨日見たはずの看板が先月には無くなっていた。そのような事が起こりえるものだろうか。
「でも昨日話してたよな、里香はラスクが良いって」
「知らない」
まるで昨日とは異なる世界のようだった。突然現れた矛盾を疑うべきか昨日の出来事の記憶を否定するべきか分からなくて答えを見出す事が出来ないまま、歩道橋を横目に歩き続ける。やがて別れの時間が訪れてしまった。
そのまま里香とまたねの言葉を交わし合い、一人で歩き始める。
夕焼けの空もさようなら。星が散りばめられた空におはようというべきかこんばんはと告げるべきか。
ひとりでとぼとぼ歩く小さな姿は周りから見れば弱々しくて寂しいものだろう。あまりにも貧相な身体は生きた心地がしないと評する人物がいる程。それを好む者もいるというがにわかには信じ難かった。
そんな弱々しい体からは想像も付かない力強さを備えた目は今も煌々と輝いている。苦しい現象を、不快な歪みを取り払おうと意識を定めて探りを入れて。
そんな集中力が命取りとなってしまった。
夜闇の中に鮮明な眩しさが訪れるものの、気が付いてその時には手遅れ。目の前に迫るトラックを避ける事など出来なかった。