ここに来て想いは激しい波を打ち始めた。そう、今のままでは里香という女の魅力に落とされてしまう。クマが刻み込まれた目を閉じ、灰色の髪を勢い任せに掻いて大きく息を吸う。こうでもしなければ正気を保っていられる自信がなかった。
そんな雰囲気に浸っている間に周囲の世界では出来事が進んでいる。そう気づかされたのは声が届いたからこそのこと。
「貴様、いったい何故侵入出来た。誰の権限を奪った」
目を開き、出入り口に目を向ける。そこに立つ人物は濃いひげを顎から伸ばしてやつれた身体に常に鞭を打って動いているようなみっともない男、顔にこびりついたような皺を見つめることは男の生きた年数を確かめているようで一瞬にして嫌気へと変わり果てる。
「はあ、おっさんね、それも何かに執着してる感じの」
見るからにその目は左右異なる大きさをしていてその瞳の焦点は合っていない。顔を動かす度に白黒する目に尋常ではない人柄を見た。
「どうせ黒幕だろう」
「正解」
そうした言葉をしわがれた声で伝えると共に白衣のポケットに右手を突っ込む。それから数字を数えるまでもない程度の時の経過とともに男はポケットから手を抜き取った。そこに握られていたものは黒々としていてこの研究所をも凌ぐ無機質を誇る武器、ドラマなどでしか見たことのないそれの実物を目にして楓の目はこれまでにない程大きく見開かれた。
「おやおやおやおや拳銃は初めてかな。若いなガキ。人生の経験が足りてないぞう」
「どんな人生歩んだらホンモノの拳銃なんか目にするんだ」
その問いの答えなど楓の目の中に映されていた。そう、これまでの戦いの日々が答えのひとつなのだから。解答は案外無数に近い感覚で置かれているものの道を踏み外さなければたどり着くことは出来ない。それをしっかりと踏み抜いてしまった己をここで恨む。
――能力を使うなら、今だ
チカラを開こうとするものの、そこに在る感覚は平常と変わりが見られない。
戦いの始まりの合図を脳は出せないままでいた。
「何も対策していないと思うなよ。絵海といったか、今頃あの女も迷い込んでるかも知れないな」
「同じ施設で重要人物として扱われれた人の名前すら覚えていないのか」
男は乾いた笑いを上げながら拳銃を構えた。
「何故実験動物の名前など覚えてなければならない。被験者名など書き留めている、実験の実行者はあのキモイ下僕が覚えているだろ」
モルモットなど、続けてそう口にした途端、男の声は無理やり断ち切られた。
「ふざけるな、大切な里香のことをモルモット呼ばわりなんて……絶対に許さない」
「ほう、面白い、可聴領域を超えていてかつ異能を抑え込む音波が流れているここで何が出来よう」
ケタケタと笑う様はあまりにも下品で思わず目を細めてしまう。顔が強張って溢れ出る嫌悪感に支配されていた。
「愛しの娘、すでに死した月夜が蘇るのなら他のものなど何もいらないのだ」
家族愛というものを取り違えた者の末路のひとつ、男は完全に愛と名乗った別の情を崇拝し切っていた。歪み切ったそれは捻じれた宗教のようであまりにも愛とは相容れない。
「まあいいさ、コイツがいる限り時は繰り返される。機械にいる内にやるのがいいな」
「やめろ」
言葉に重ねられて乾いた発砲音が耳を空気を身体を、そして命を無慈悲に叩いた。