里香の目は時間など見ていなかった。その目が見据えているのはただ未来ひとつ。助けなければならない命があるということ。それを胸に焼き付けて進み続ける。このままでは大切な人が、楓が死んでしまう、権力や財力という鎖の紐が伸びる首輪をつけられた女どもの手によって殺されてしまう。
避けなければならない事態はすぐそこへと迫っていた。きっと約束の時間に楓が来ていないということに気が付いたであろう今、ここの里香は既に楓の家の前へと迫っていた。
ドアが開かれた木とコンクリートで組み立てられた家の口から半分だけ外へと踏み出した少女が目にした景色とはどのようなものだろう。里香の脳裏にはスーツ姿の女がふたり立っているあの光景が、公園という景色に不釣り合いなあの姿がこの住宅地でも似合わぬ姿のままそこにいるという捻りもない光景が浮かんでいた。
「だから何の用なんだ」
「私たちは被験体里香の保護に参りました」
「あなたにもご協力願いたい」
その会話の流れを視て里香は納得した。きっとこれから楓断るつもりだろう。それが原因であのようなことが起こってしまう。これから始まるのは破滅への道のりの進行だった。
「悪いが助けになんかなれない」
分厚いくまが刻み込まれた目元は目が伏せられると共にその存在感を増して行った。きっとこれからこの小さな少女は殺されてしまう。里香は辺りを見回して絵海の到着がまだなのだと知りつつも、確認しながらも動き出す足を止めることが出来なかった。
「そう、それはとても残念。渡してくださるのであればこの前並行世界へと侵入なさったことに関しまして目をつぶろうと思っていたのですけど」
続きなど確認するまでもなかった。足を踏み出して、わざとらしい足音を立てながら里香は歩み寄る。しっかりと背筋を伸ばし堂々と歩くという佇まいに不機嫌によって固められた表情。それは何処までも真っ直ぐで駆け引きのひとつも感じさせない。
「私ならここにいるわ」
覚悟を決めた顔は全てを諦めた顔にでも見えたのだろうか。女は振り返って仰け反って、目を白黒させていた。
「楓のことは殺さないで。私を連れだしていいから」
「里香」
きっと納得いかないのだろう。そんな感情を露わにする楓の目を覗き込みながら里香は微笑んで見せた。
「大丈夫。全部うまく回るから。誰も死なないから」
この言葉のどこに信用性があるものだろうか。考えなしに言っているようにしか見えなかった。
――ここで楓に戦わせるわけには行かない
万全の全力で七分間。ここで能力を使って更に閉じた場合、一瞬が数十秒分の疲れにばけるだろう。それだけはどうしても避けたかった。
「でも里香を引き渡すわけには」
里香は顔を傾けて遠いカーブミラーに視界を合わせて、輝かしい未来がすぐそこに来ていることを悟った。
「いいよ、ほら、行って」
わざとらしく張り上げた声は空気中に希薄な気迫を運んで行く。声の柔らかさがあまり強さを見せてはくれない。それでも糸は伝わっただろう。
里香を掴もうとした左側の少女が突然何かに押し飛ばされて地に伏した。
「何とか間に合った」
肩で息をしながらそこに立つ少女、左側の髪を三つ編みにして後ろで留めて右側は伸ばしっ放しという奇抜なセンスを持った少女、真砂絵海は地に伏した少女の脇に腕を回して捻りあげる。
「ふたりでもう片方は頼む」
未だ来ていない時の記憶を持つ少女の声を受け、最悪の未来を過去に見た少女を掴む女に対して何も知らぬ少女は思い切り突撃した。
「異能なんて使うまでもないね」
そう、今この場でチカラを扱う必要などない。楓の体当たりに合わせて里香もまた、同じ方向に相手を圧し込む。
そうしてふたりの敵を捕まえ、楓は家から持ってきたガムテープで手足を縛り上げ、訊ねた。
「誰からの依頼だ」
女はケタケタ笑いながらも今という場を悟って降参の意を言葉に変える。
「研究機関のほうだよ、ほら、向こうの商店街でいかにも発電所ですってツラしてるところ」
そこまで言われてようやく理解を得た。里香の顔を見つめると完全な疑問を浮かべている様子でどこまでも微笑ましい空気を出していた。
「えっ、発電所。あそこ違うの、嘘でしょ」
あまりにも和やかな雰囲気が花びらとなって散っていく。薄い和みが今の彼女らの癒しだった。
「研究所らしいね」
「里香は可愛いな」
楓と絵海のふたりで研究所の遣いの女たちの脚を自由にしつつも離さない。
「しっかしよくここまでうまい立ち回りを……もしかして里香、一回死んだのか」
「そうそう、この前は私がぼーっとしてたせいでね、ここまで来た時には楓死んでたの」
それから煌めく瞳を向けながら話される事実に楓は呆然としていた。言葉に出来ない声にならない、そんな感情を蓄えて、この感情の行き場などとうに失っていて。伏せられた顔、閉ざされていた口が開かれて出てきた重々しい声、ただひとつの言葉に里香は笑顔を曇らせた。
「そっか、また里香のこと、死なせたんだ」
楓の想いなどには一度も耳を傾けていなかったのだろうか、想像力も思いやりも足りていなかったのだろうか。里香にとってはやり直せば済むことが、楓にとってはそうでもないのだろうか。楓と共にいい結末をつかみ取ろうと努力すればそれだけ楓を苦しめてしまうのだろうか。
何が正しいのだろう、何も分からなくなって全ては思考の海に沈められて行った。
静まり返った空気に心を乱される彼女らの姿を目にして絵海は眉を顰めた。
「まだ、何も終わってないのに。今から全てを終わらせる戦いが始まるってとこなのに」
元凶を排除すること、この世界の中の埃被ってジメジメした部分にこれから乗り込もうという今、味方のふたりがジメジメとしていては話にならなかった。湿り気に充ちたものが湿りを晴らそうといくら拭ったところで乾いてくれるわけでもないのだから。
「ふたりとも気を引き締めて。今から戦いなのだよ」
枯れ声から発せられた言葉はふたりの頭を縦に振るだけだった。その程度の重みは持ち合わせていた。