静寂の空気を踏み割って日差しにヒビを入れて歪なガラス玉へと仕立てながら進み続ける。このままでは悲劇で全てが確定してしまう。もしもそうでなくてもきっといい結末は迎えることは出来ない。ヒビだらけのガラス玉とは果たして何のことだろう。空などではなくて里香自身なのかも知れない。そう思うだけでも心に墨色の重みがかかって来る。
里香の沈み切った心などお構いなしに朝の空は優しく爽やかな顔をする。蒼に散らされた輝きはどこまでも憎たらしくありつつも今日の天の気分に感謝もしていた。きっとあの場所にあのヒトはいるだろう。進み続けて少しの時が風になって通り抜けて、里香とすれ違い続ける。
やがて目的の場所へとたどり着いた。住宅が並ぶ街の中でそこは車道という境界線によって切り取られた世界、だだっ広い公園。緑色の海、草原のみなもに足を踏み入れて。
そこで見た姿に驚きを隠すことが出来なかった。
相変わらずサイズの合わないピンクの服を着こなしていた。右肩が露わになっていて右手は隠されていて、脚にもこの前と変わりのないソックスが、左右で長さの異なる水色と白の縞模様が纏わりついていて、彼女はそうした衣類をこの上なくだらしなく着こなしていた。
そんな彼女、真砂絵海は子どもたちに囲まれて大空に煌めく太陽にも負けない笑顔を浮かべていた。敵だとか一生近付きたくないだとか薄暗い言葉を抱えて湿った色を持っていた里香としては近寄りがたい雰囲気でしかないという状況に見えない壁を感じていた。
絵海は子どもたちに駄菓子を与えながら微笑んで、右側に伸ばしっ放しにしている髪を一度掻き上げていた。子どもたちは目を見開いて青空に混ざる明るい茶髪、山ぶどうの蔓を思わせる細いそれに目を惹き付けられていた。
「みんな可愛いねえ。私は昔可愛くない子どもだったからさ、思い出すだけで苦しくなっちゃう」
「お姉さんすっげーカッコいいし可愛いのに?」
明るい顔に真っ直ぐな言葉、それを受け止めて引き攣る口を柔らかな笑みで隠した貌とありがとうのひと言を髪に混ぜてなびかせ贈って見せた。そんなひとつひとつの思い出さえも彼女の中ではずっと鮮明に残っているものだろうか。
「俺の中ではお姉さんが一番だよ」
「ありがとう」
その顔が浮かべた喜びは淡い薄桃色でこの空に溶けて絡められそれでもそこに在り続ける。そうした新鮮味を永遠に保つことが出来る、それこそが彼女の脳なのだろう。
いつまでも眺めている余裕はない、その幸せを断ち切る時が来てしまった。心に鉄線を巻きつけて、割り切りの気持ちを身に着けて、彼女の領域への一歩を踏み出す。
一歩進んだ途端、次の一歩が軽くなる。罪悪感など初めからなかったかのようにふわりとした触感で外へと出て行った。
やがて子どもと向き合う絵海に鋭い視線を向けながら、注目を奪うように言葉を投げつける。
「あのさあ、訊きたいことあるんだけど」
言葉は当然のように彼女の領域を揺るがして無事に振り向かせる。絵海をこれから利用する、ただそれだけの話。
「用でもできたの、さあどうぞ」
絵海の表情は引き締められ、子どもの手を放して立ち上がった。真剣な態度だけを窺い里香は質問を口にし始めた。
「今日、異能力の研究機関が楓を殺したの、私のことも捕まえるって」
絵海の目は見開かれた。ことは進み始めているのだと理解するまでに一秒たりとも必要としなかった。
「そう、遂に動き出した。真実に寄り始めるまでは泳がせておくつもりだったのだろうね」
吐き捨てるような投げやりな声を地に向かって放り、目も草原へと向けられた。草木が吸い込む感情はいつまで経っても失われることなく次から次へと注がれて、何処かの緑を枯らして行く。誰にも気づかれない枯れ果てた緑はいつまでもそのままで鮮明なままに焼き付いていた。
「避けようにも手遅れか……これから楓に会ってもらうしかないな。私も向かうから」
「あの、右手見せてもらっていいかな」
里香の頭の中にて飛び跳ね続ける寒気を纏った想いは秋の気温のものとはまた異なった奇妙な肌触りを蔓延らせていた。鳥肌がぞわぞわと這い回り、危機感が必要以上に叫び散らしていた。そう、先ほどの言葉は過去に右手に隠していた、その長い袖の中に隠し通した過去を想わせてそれが重くのしかかって来るものだ。
絵海は男の子の方へと視線を移し、彼の顔を横目で覗き込みながら相変わらずの枯れ声にどうにか優しさを込めながら問いを持ち込んだ。
「ああ、いいかな」
「うん」
単純な言葉と共にゆっくりと袖は捲られていく。少しずつ、袖の動きに視線を誘導するかのような速度で。動きに合わせる目が得も言われぬ感情をかってに拾い上げては混沌の波を広げて行く。ひとつひとつの動きが心臓に悪い。それが正直な感想だった。
やがて動きが止まる。ピンクの優しいざわめき、布がズレ動く音は一瞬だけ静寂に掻き消され、そこから一気に白い肌を晒した。
そこに握られていたのは小さな穴の開いた金属、ビンジュースやビールの栓を抜くための見慣れた道具、更に奥、手首には桜色のリボンを思わせる紐が巻きつけられていた。
「毎週かわいい子どもたちにビンジュースと駄菓子を配ってるのさ」
里香としては手首に留まる桜色の蝶の存在の方が気になっていた。果たしてそれは何を目的として結び付けられているのだろうか。心なしかリボンよりも固く見えるそれに好奇心を引き離すことが出来ずにいた。
「お姉さんによく似合ってる」
「ありがとう。お姉さんはそこのかわいい子ちゃんとお話ししてくるから他の子と遊んでらっしゃい」
言葉の受け取り手は実に素直だった。不満を露わにした表情を浴びせながら大きく頷いて走り去る。小さな身体が遠くへと消えて行く姿を見送って里香は話を紡ごうとした、その時のことだった。
「お迎えに上がりました、被験体里香及び被験体絵海」
告げる声はふたりのどちらのものでもなく、ふたり共に目を見開きながら声の根元へと顔を向ける。