会話以外の言葉が届かない静寂の膜を破る轟音が、遠くからやって来る音が次第に大きくなっていく。
やがて楓は目にした。見覚えのあるトラックが向かって来るのを。黒い棘が窓ガラスに刺さったそれは車道を、つまりは楓と月夜の立つこの場所を通り抜けてはそのまま過ぎて行った。
「あれは」
「そう、あなたの記憶もすべて読み終えたみたいね。本人の記憶なら望めば幾らでも起こせるわ、それ以上は上位のアクセス権がなければ」
つまり、研究員のいるところへの忍び込みが必須なのだろうか。楓は頭を掻いて再び月夜の顔を窺う。
「私は生き返る必要なんかない、そう訴えようとしてはみたけど私の持つ上位アクセス権の向こうで記憶たち、みんなの記憶がざわめくの。絶対にダメだ、失敗作って言われるってね」
所詮は脳波や記憶、身体の機能を読み込んで創り上げただけの紛い物だと理解はしているのだろう。月夜の父、死した者を生き返らせようという禁忌に足を踏み込んだ顔も知らない男を、又聞きだけの空想内の存在でしかないそれを睨みつける。
「いいや、私は帰ろうかな」
月夜によれば周波数を合わせるだけで忍び込んだ人物は最低限度のアクセス権を持っているとして誰彼構わず公開データのみの閲覧が許されるのだそう。この世界に入る時に許可証を持っていればその等級に応じてアクセス権が開放される。その等級にもランクが三つほどあるのだという。
そうした言葉を噛み締めながら歩く。来た時には余裕のひとつも無くて気が付かなかったことがある。歩く感覚がまるで異なるということ。曖昧な空の上を歩いているような、地を踏み締めているのかいないのかギリギリで分からせないような感触。あまりにも独特な感触を身体全体で味わいながら車道に佇む安楽椅子から離れていく。飛び交う摩訶不思議なチカラたちが出迎えて、楓の目はそれらのひとつひとつを追っては思考に指を這わせる。
――このチカラの正体も訊けるのだろうか
それにはきっとアクセス権の提示を求められるだろう。車道に居座るあの女はよく出来ていた。作り物とは思えない程の人間らしさあふれていて、顔も知らない男の情熱と愛に充ちた貌が見えてくる。その一方で人らしさの欠片も感じさせない会話が多かったのも事実。
それは果たして楓が求めた彼女の姿勢なのかそれともあの男が設定したものか言いつけたものなのか。
あの様子を目の当たりにしては不安が風船のように膨れ上がるも、その気体はあまりにも重たくて飛び立つ気配もなくただそこに残されるばかり。
――ああいう関りを続けて、劣化しないんだろうか
人との関わりや気持ちのやり取り、そうした温かなものから冷ややかなものから感情ひとつ宿らないものまで、様々なものが人を変えてしまう。いかに月夜の再現とは言えどもそれは所詮父の思う娘の姿。人々によって成長を遂げて変わり果てた彼女を受け入れるものだろうか。生き返りを望まない娘を娘ではないと言い張ってくることが推測される人物という時点で受け入れの幅などたかが知れていた。もしかしたらと裏に希望を抱えて正反対の言葉をかけるという領域を超えていた。
あらたな仮定が生まれてくるのを脳が観測した。その男が自分は甘くないと思っている甘い人間だとしたら、娘の変化を受け入れることすら出来ない弱い人間だとしたら。
そう思うだけで鳥肌が立っては蠢くような心地で全身を駆け巡る。そこまで考えなしで恐ろしい人間だとしたら、そうした人物が大きな権力を持っていたとしたら。
「あまりにも危険なことだ」
ぽつりと言葉にしたことが消えて行く。晴れ渡る空の中、誰かが一瞬だけ見上げて首を傾げてすぐさま忘れる曖昧な雨のような不確かな感覚を強めることも出来ないまま透き通っては消え入るだけ。足音さえも透けて溶けて、足元さえ消え始める。幽霊とはこのような見た目をしているものだろうか。どちらかと言えばけしきと一体になっているような想いを持ってこの変化を受け入れる。
「里香、待ってて、すぐ帰る」
意識は微睡みに包まれ、夢も現も世界も景色も情報も、何もかもがぼやけ始めて見失い始める。水に混ぜられて渦を描きながら何もかもが不明瞭。思考さえもが失われてしまいそうな心地の中、言葉に表しようもない感覚の体験の中で楓はただ、里香のことだけを想い続けていた。
☆
眼を開く。強い光が射し込む山の中に現れた草原で、青空と緑の層に見惚れている里香の姿から目が離せないでいた。
――無事だったんだ
「無事だったんだ」
想ったことと同じことが言葉にされる。楓はずっと閉ざしたままだった口を驚愕の感情によってこじ開けられた。
「よかった。楓急に倒れるんだもの、はあ怖かった」
アクセス権が何ひとつ認められなかったが為に弾かれてしまった。それは本当だったのだろう。
「里香」
月夜の話していたことを追憶の浅瀬に引き上げて、慌ててひっこめた。
「なあに」
「なんでもない、名前が呼びたかっただけ」
里香は頬を包みながら熱を身体中に見いだして、更に熱く蕩ける心地に身を浸しながら楓を見つめ続けていた。