目の前に広がる自然、そこには果たしてどのような怪奇現象が眠っているのだろう、全くもって想像もつかせない。並行世界とはいったいそのような存在なのだろう。全くもって理解できない、そんな世界の話。
「もし並行世界っていう話がホントなら向こうの世界には『私たち』もいるかも知れないんだよね」
「そうかもな」
ただのひと言で、ぶっきらぼうな声で返事を締める楓。くまが深く刻まれて目立つ紫色の瞳の中に宿る感情があまりにも冷たくて、見ている里香の方からすれば不安を調理する立派な材料だった。
「なんでそんなに不機嫌なの」
「何でもない」
それが嘘だということくらいは里香にも分かっていた。それ以上に迷いなき影がどこか恐ろしくすらあった。
「里香」
突然呼ばれた名前、その響きにはすぐに程ほどけてしまいそうな優しさがちょうちょ結びで留められていた。
「もしも並行世界の私たちがいたとして、敵だったとしたら……容赦なく攻撃出来るか」
里香ははっとした。自分や大切な人、里香や楓だけでなくて親やクラスメイト、そうした人間がいた時、そうした人物が敵として立ちはだかってきた時、相手にすることなど出来ようものか。
「絵海の話によれば遠い並行世界だろうから大丈夫とは思うが」
希望的観測は実をつけた。葉を揺らして音を奏でて、美しい心情にこだわる。いつでも簡単で美しいカタチであって欲しい。それこそが里香の想い。
「大丈夫……だよね」
祈りを風船に変えて空に飛ばす。薄だいだいのそれは空想という名の青空をゆっくりと舞い始めて漂い続けていた。
「いくぞ」
楓のひと言から始まる異界への移動。茶色で味気ない鞄に手を突っ込み這うように動かすこと5秒半、その手を抜き取った。手に握られた小型ラジオを見つめ、チューニングを始めた。周波数を上げていく。一瞬だけ聞こえた男の明るい声に渋い声による朗読の破片。この日本で起こる出来事を淡々と伝える放送。そうしたものを超えて、無音へと至った。
「ここから慎重にだな」
ゆっくりと上がる周波数、指の動き、プラスチックの歯車の回転ひとつで行なわれる調整、やがて沈黙は打ち破られた。
突然鳴り響いた音、それは此の世の如何なる物質を扱っても出せる気がしない、神秘性も美しさも、醜さも有機も無機も感じさせない不思議な音色。
「これか、始まる」
「楓、ちょっといいかな」
告げられる言葉と返事を待つことなく握りしめられる手。柔らかな感触がこの上なく心地よく、楓の心を緩め、表情に柔らかな光を差しこむ楓だけの太陽となった。
「これで向こうでも一緒だよ」
知らないことも不安も一緒に分かち合うこと。里香の優しそうな顔からは強さを感じられなくて、移動中にその手がほどけてしまいそうで不安の波を起こして心の崖に打ち付けて砕いてしまいそうになるものの、その情は里香と結ばれた手で覆い隠してみせる。
ラジオから流れる音は自然と脳に流れ入ってふたりの意識を離さない。全ての興味関心意識も感情も何もかもが得体の知れない音の手に包まれていた。
何も見えない、何も聞こえない、香りも手の感触も、何もかも忘れ去ってしまったような錯覚さえ置いてけぼりで謎の音だけが心にへばりついていた。
それからここまでどれだけの時間が経過しただろう、どのような動きを取っていたのだろう。楓が目を開いたそこは木とコンクリートが混ざり合い互いに補強し合ってそこに立ち続ける家が並んだ風景。レンガとも石ともつかない灰色のザラザラとした壁には苔の緑がこびりついていて、いつも通りの風景なのだと思い知らされた。
手の感触が訴える。ラジオが存在をその硬さで告げる。もう片方の手には柔らかな感触の残滓だけが、温もりを感じさせるひんやりとした心地がその手に残されているだけ。
――ここにいないのか
辺りを見渡すものの、あの愛らしい姿は何処にもなかった。そう、香りのひとつさえもそこにはない。
「里香……里香! いないのか」
呼んでも叫んでも、伝えようとしてもどこにも見当たらない、それが現実で、変えることなど出来ないもの。
楓は辺りを見渡しながらその足を動かし始めた。とにかくここから動く、さもなければ何も始まらない。大きな目で睨みつける風景はその目に曖昧な形でしか残らない。見つめるということに、この世界、異界を味わうということに真剣になど成れない。それよりも大切な人を探すことが大切なのだから。