草原というものはいかに美しいものであろうか。青々としている姿はまさに美しいのひと言がよく似合うものであった。それだけでなくたくましさも持ち合わせていてまさに生きた自然。里香は草原に腰かけて一度、盛大なため息を自ら浴びた。
「流石に疲れた。重い身体を引き摺るのってすごくきついよ」
「そんなにしんどいのか。ホントごめん」
目の前の少女、楓は一度大きく腰を折って頭を下げる。灰色の髪に埋もれた小さな可愛らしい頭を見つめながら里香は目を大きく見開いた後、下手な笑顔を切り貼りしていた。
「いいの。楓と一緒ってだけでもすんごく嬉しいから」
そうは言うものの彼女の顔に堂々とした疲れが見えていた。
「私さ、この前の戦いで疲れちゃって、楓と戦い以外でずっと一緒にいるの初めてで、とっても嬉しいよ」
この前の戦い、絶対記憶能力を持つ少女とのことを思い出していた。あの気の抜けているようでトゲを感じさせる鋭い瞳に捉えられた景色は、あの嗅覚、小さめの耳に捉えられた香りの波や音の流れ、物に触れたり物越しに伝わる感触や振動は全てその頭によって捕らえられてしまう。見事なまでの五感の収容所。罪なきすべてを罪と名付けて記憶の檻に収めてしまう。そんな彼女の状態を想うだけで記憶するということに対して得体の知れない罪悪感を掴まずにはいられなかった。
それは戦いの後のこと、公園の中での戦いを終えた後のこと。少女はただひたすら謝り涙を大量にこぼし、残されたエネルギーも水分も使い果たそうとしていた。
楓の目は少女の方に向けられていた。それはあまりにも冷たくて深い紫。空の向こうを思わせる暗い瞳と落ち着きの中に怒気を孕ませた声だけで少女に触れる。
「お前の名は」
「真砂絵海です」
里香は絵海の右手を睨み付けて言葉を吐きつける。
「その右手が私に対して酷いことしたんだよね」
顔を上げた絵海に対して里香もまたその茶色の瞳を楓と同じ色の感情で染め上げ出迎えた。
「その頭が私を殺そうって企むんだよね」
ふたつともこの世界から消し去ってしまいたい、証明など一切出来ない殺人事件は二度も同じ人物を殺していた。そこに憎悪のひとつも混ぜない事が出来る程の聖人君子などこの世にいるはずもなかった。
「もう一生私の目の前に現れないで、私たちと同じ空気を吸わないで、この世界から早く立ち去ってよ」
自身がどれほど酷いことを言っているのか理解はしていたものの、それでも言わずにはいられなかった。そこにいるのは人殺し。それも執念深い殺人犯。
それから警察抜きの取り調べ、いわゆる質問攻めが幕を開けた。あくまでもこの世界では殺人未遂がいいところ。仮に警察の世話になる人物がいるのだとすればそれは楓と絵海のふたりで、それはどうしても避けなければならないことだった。
話によれば絵海は時間を巻き戻されることに対して腹を立ててこの犯行に及んだのだという。既に過ごしたはずの時間を否応なしに繰り返すこと、鮮明な記憶を再び辿るその旅は元凶がこの世にいる限り発動する度に繰り返される。同じことを繰り返す、ふたつのリアルタイム、それが許せなかった、ただそれだけの理由で凶器に身を委ねて狂気を振ったのだという。
「つまらないな、戦いの時にも言ったが、何故巻き戻した時間まで覚えてるんだ。その身体は二回目の一周目、次の時間に生きる身体は三回目の一周目、何度繰り返しても一周目なはず」
それについては絵海もまた分からない、そう答えるしかなかった。その完璧な記憶の中に能力の理解などなかったのだから。
「ただし」
そう繋げられ、こう続けられる。
「親も医師も絶対記憶能力としか言わなかったこの能力を、別の名で呼んだ少女がいた」
それはこの世界と同じ姿をした異界と呼ばれし場所。様々な能力や行動、思想思考、ありとあらゆる可能性によって枝分かれした世界、それをこの手の分野の研究者は並行世界と呼んだのだという。
「そんな研究者がラジオを持って私を近所ではおなじみの山に連れてった。そこでどこの放送も拾わないような周波数に設定してた。それがノイズを拾うんだ。その瞬間、知ってるはずの景色が広がる知らない世界に飛ばされたんだよ」
その世界では異能力をも超越した摩訶不思議な術が飛び交っているのだという。そんな世界の中で研究者が探した少女、彼女の話を聞くとどうやら様々な能力者の知識をその頭に眠らせていたようで、絵海の能力についてもひとつの名を付けて知識として頭に置いているのだという。
「その少女、鉄輪月夜と名乗る長い黒髪とわざとらしい身体付きと美貌を持った少女は私の能力をこう呼んだよ。パーフェクトローディングってね」
完璧な読み込み、それは一体どのような意味だったのだろう。測りかねる、分かりかねた。
「そこでの出来事すら全てが鮮明で悔しかったよ、並行世界と呼んだところで、今の運命の流れと違う世界って言っても私の記憶からは逃れられないのだから」
そこで楓は会話を取りやめた。それでもなお続けられた言葉を幕引きにして絵海に背を向けて足を前へと動かして。
「もしも困ったら私の所へ来て。広場のある公園か始まりの川の道から戻って学校方面、家の並ぶ中に一軒だけ真砂家があるから」
楓も里香も、何ひとつ言葉を見せることもないまま、遠ざかって行く足音だけを聞かせて、歩む度に揺れる風のカーテンを微かな残滓にして、その場を去り暗闇の水中へと潜って行った。