周囲から、いたずらな風に髪やドレスを乱された令嬢たちの小さな悲鳴が上がる。
私も思わず小さく声を零し、慌てて、前髪が乱れないように抑えようとした。すると、上げた手からハンカチがはらりと抜けていった。
風が私の宝物を攫っていくと気付くも、時すでに遅かった。
強い風が、再び吹き抜けた。
「あっ! お母様の……」
「何をしているのです。行きますよ」
「で、でも……!」
「あのような
だから捨てたのに。そう小声で、だけど憎々しそうに吐き捨てた継母の眉間には、深いシワが刻まれている。
赤く塗られた爪が光り、私の手首を掴んだ。
まるで重たい荷物を引っ張るように、乱雑に引き寄せられ、私のつま先が地面に突っかかる。
もつれるようにして足を踏み出し、慌てて後ろを振り返った。
「お
赤い薔薇の刺繍があしらわれた白いハンカチは、まるで蝶のように青空に翻る。
手を伸ばしても届きそうになく、私は目の奥が熱くなるのを感じた。
嫌だ。あれは、お母様の大切なハンカチよ。大切な、私の宝物なのに。
どんなに諦めきれずとも、背丈の小さな私は、すぐにハンカチを見失った。
引きずられるように歩きながら唇を噛みしめていると──
「お待ちください」
少し低いけど爽やかな声がかけられた。
継母は、男の声と分かるや否や足を止めた。
「ハンカチを、落としましたよ」
涙を零しそうになるのを堪え、私は顔を上げた。
そこに立っていたのは、魔術師団の正装に身を包んだ綺麗な男の人だった。その筋張った大きな手が、私の
瞬きを繰り返し、おずおずとハンカチを受け取る。
「……ありがとうございます」
「いいえ。今日は風が強いので、お気をつけて」
ずいぶんと背の大きいその人は、にこりとも微笑まず、軽く頭を下げると私のお父様に近づいていった。
ハンカチを握りしめ、私はそっとその人の様子を伺った。
お父様が長を務める第五師団の方かしら。それで、見回りをしていたのかもしれないわ。あるいは、どこかの貴族のご子息で招待客……でも、それなら魔術師団の礼服ではなく、周囲の令息のように着飾ってくるわよね。
周りもそっと伺ってみたけど、魔術師団の方は他にいなさそうだった。
お父様と何か話し始めたその人の髪は、とても美しいプラチナブロンドだ。それをきっちりと一本の三つ編みにして結んでいる。あれを解いたら、さぞ豊かで長いのでしょう。
ふと、彼が長い髪を解いたところを想像した私は、どうしてか、まるでお姫様のようにブラシを当てて髪を梳く姿を想像してしまった。それは絶対にないだろう、おかしな姿だ。
思わず笑いそうになり、慌てて口元にそっとハンカチを押し当てて隠した。
人を見て笑うなんてはしたない。継母に見つかったら、そう言われて叩かれるに決まってる。あの扇子で人混みの中、見えないようにして、背中やおしりを強かに叩かれるのよ。
そんなの絶対に嫌だもの。気付かれないようにしないと。
それにしても、にこりとも笑わない人が、誰かに髪を梳いてもらっているなんて、ちょっと面白い姿よね。
お礼は云うのかしら。あるいは、当たり前のような顔で手入れをしてもらっているのかもしれない。どこかの有力貴族なら、ありうるわ。
あの人も、どこかのご令息なのかしら。
もう一度、その姿を目で追うと、扇子を口元に当てた継母が私の耳元に顔を寄せてきた。
「諦めなさい。無能なお前には縁のない男よ。まぁ、そこらの小娘にも言えることでしょうけど」
継母が何を言っているのか分からなかった。
悪趣味な扇子がパチンと閉じられ、辺りをすっと示すように動かされると、周囲の令嬢たちの視線が彼に向けられていることに、さすがの私も気付いた。
幾人もの令嬢たちが、ひそひそと話しながら彼を見ている。
それに気づいてはいないのだろうか。彼はにこりとも笑わず、着飾った令嬢の誰一人とも視線を合わせなかった。
今思い返せば、ハンカチで口元を隠した私を見た継母は、私が彼の姿にときめきを感じて頬を染めていると勘違いしたのかもしれない。
お父様が、良き伴侶をなんて云ったから、ありうるわ。
でも、当時の私は恋愛をするどころか恋愛小説を読む暇すらなくて、無能と蔑まれて毎日を送っていたんですもの。彼との結婚を思い描くような乙女思考は、微塵もなかったのよね。