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2-27.平和なトレーニング風景

 俺も腕に力を込めれば、傾きが反対側に向かっていく。そして、樋口の腕を完全に地面につけた。


「わかったでしょう? 単純な腕力なら、あなたの方が上」


 樋口は立ち上がりながら言う。


「男性っていうのは、それだけで強いものなの。あなたがもう少し手足と体幹を鍛えてれば、わたしには投げ飛ばせなかった。さらに鍛えれば、わたしより強くなる」

「そうなのか」


 それを示すために負けてみせるなんて。

 たぶんこの人なりの、誠意なんだと思う。


「まず柔軟。それからランニングよ。コースはここ。とりあえず十周して」


 タブレットに表示された地図を見る。長いな。これを十周か。


「ねえ樋口さん。わたしも?」

「あなたは三周くらいで様子を見ましょう。高校生の男の子と同じ運動量は、さすがに小学生には無理よ」

「はーい。ラフィオ、一緒に行こ!」

「いや。僕は運動は遠慮するというか」

「ラフィオをモフりながら走ると楽しいの!」

「あああああ! そんなことだろうと思ったよ!」

「あはは! 楽しい!」

「おい! やめろ! まず柔軟からって言ってただろ! おい! おーい!」


 つむぎはラフィオを掴んで、あっという間に走り去ってしまった。


「あの子は、瞬発力を鍛えるべきかもしれないわね。ほら、あなたも早く柔軟終わらせて走りなさい!」

「はいはい……」


 屈伸をしていた俺は、樋口に言われるまま走り出した。


「ペースを考えて。始めから飛ばすと後が辛いわよ」

「え? 併走してくれるのか?」

「当たり前でしょ。指示だけ出して偉そうに待ってるなんて、ありえないわ」


 いい人に思えてきた。



「つ、疲れた……」


 体育の授業は真面目に受けてるけれど、部活に入っているわけでもなく日常的に運動しているわけでもない俺には、きつい運動だった。


「お疲れ様。はちみつレモンソーダ作ったけど、飲む? 疲れが早く回復するよ」

「飲む……ありがとう。……作った?」


 遥から手渡された透明なプラスチックのコップには、輪切りのレモンが入っている。

 売ってるものではなく、遥の手作りなのはわかった。


「悠馬が走ってる間に、スーパーで材料買ってきて作ったの」

「そうか。ひとりで行ったのか?」

「ううん。お姉さんと」

「電話で叩き起こされました……」


 見れば、愛奈が河原に座り込んでいた。


「悠馬も、なんで日曜日に運動なんかするかな。知ってる? 日曜日って、怠惰を貪る日なのよ? 聖書にもそう書いてある」

「書いてないだろ、さすがに」

「悠馬ー。眠い。膝枕」

「おい」


 運動したわけじゃないのに疲れてる様子の愛奈は、座ってる俺に擦り寄ると脚に頭を預ける。


「ちょっ!? お姉さんなにやってるんですか!?」

「なんか、体がだるいのよねー。なんでかしら。あとお姉さんじゃないです」

「だるいのは、昨日も深酒してたからだろ」


 流れのままに愛奈の枕になりながら、わかりきった答えを言ってやる。


「なるほどー。遥ちゃん、二日酔いに効くドリンクはないの?」

「ありません。てか、知ってるはずないでしょう」

「えー。でも疲労回復のはちみつレモンは知ってたじゃん」

「陸上部だったので! 陸上部では飲酒なんかしないので! 高校生なので!」

「ふふっ。さっきの遥ちゃんの様子、悠馬にも見せてあげたかったなー。陸上部伝統のはちみつレモンを悠馬に飲ませるって、ニコニコ笑いながらスーパー行ってたの」

「お姉さん? 車椅子で轢きますよ? 脛を」

「ひいぃっ!? 痛そうだからやめて!」


 愛奈は悲鳴と共に飛び起きて俺の後ろに隠れた。

 車椅子の使い方として、それはどうかと思うけどな。


「それより悠馬。走る時、足を地面に垂直に、気持ちつま先からつけて蹴り出すことを意識すればいいよ」

「え?」

「走り出しをちょっと見たけど、かかとから地面を踏んでたから。あれだと脚に余計な負荷がかかって、痛める原因になる。走ってる時にブレーキがかかってるみたいなものだし、余計に疲れたりもするよ」

「あー。意識する。でもどうやれば?」

「正しいフォームを教えてあげる。そうすれば練習効率も上がるでしょ? 戦い方は教えられなくても、基礎体力の上げ方なら教えられるから」

「おおう。助かる。陸上部すごいな」

「遥ちゃん、露骨に話題逸しするの良くないと思うわよ。ねえ悠馬、さっきスーパーで、遥ちゃんが笑顔でね」

「お姉さんは、少し静かにしてもらえますか?」

「ひえー。遥ちゃん怖い!」

「楽しそうね、あなたたち」


 樋口がこっちに歩いてくる。俺と同じ運動をして、俺と同じように多少は息が上がってるようだった。


 よし。俺はこいつに、そんなに負けてない。いずれは勝てる。


 俺より疲れてない理由はたぶん、遥が言っていた疲れにくいフォームで走ってるとかだろうな。あとは普段の運動量の差とか。


 そんな樋口の後ろに、つむぎとラフィオがついてきていた。

 つむぎはラフィオと一緒に、猫を抱いていた。首輪がないから、野良猫かな。


「その猫、どうしたんだ?」

「捕まえてきました!」

「こいつ、野良猫とか犬の散歩を見かけると、すぐにコースから外れようとするから大変だったぞ」


 つむぎの腕の中で、ラフィオはぐったりした様子で話している。

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