もう四年も前のこと。愛奈は大学を卒業する直前だった。
実家暮らしで優雅な社会人生活を送れると考えていた彼女は、一転して一家の大黒柱になった。
「それ以来、家事担当は俺だ。姉ちゃんはこの手のこと、壊滅的にできないから」
「悠馬も得意じゃなさそうだけどね」
ラフィオが家の様子を見る。事実、俺も几帳面な人間じゃない。
「まあな。姉ちゃんは生活費を稼ぐ担当だ。あと学費も」
「学費?」
両親の遺産と生命保険で、当面の生活費と俺の高校卒業までの学費はなんとか工面できた。けど、俺の大学の学費はそれでは足らない。そこから後の生活費も。
「姉ちゃんは俺の生活費と学費を稼ぐために働いてるんだ。あんな性格だから働くのには向いてないのに、無理して」
仕事に行きたくないと毎朝言ってるし、有給もガンガン使ってる。けど、働くのをやめる選択肢はなかった。
少なくとも、俺が大学を出るまでは。
「俺の学費なら奨学金なんかの選択肢もあるけど、姉ちゃんは自分で稼ぐって言っていた」
「奨学金。たしか、一種の借金だったよね? 悠馬に負わせたくないからかい?」
「いや、将来の俺の収入が減るのを危惧してなのは確かだけど、ちょっと意味合いは違う」
「というと?」
「俺が大学卒業して働けるようになったら、姉ちゃんは仕事を辞めて俺に養われるつもりだ」
「……は?」
ラフィオは愛奈のこと、苦しみながらも弟のために働いている聖人とでも思ったのか。
確かにその面はあるけど、将来の自分のためがメインだ。
「そのために、俺にいい大学に入って高級取りになれってずっと言っている。そして、永遠に俺の扶養に入るつもりだ。その時に奨学金の返済で手取りが減るのはもったいないと」
俺は今、高校二年に進級したところ。大学が四年と考えれば、あと六年の辛抱らしい。
「本気で、そんなこと言っているのか?」
「普段の言動が冗談なみたいな女だけど、本気で言ってる」
「そ、そうか。もしかして、僕に家事をやれと言ったのも」
「俺がその分、勉強できるように。料理を覚えろって言ったのは、食生活の改善もあると思う」
ついでに言えば俺がピンチの時に魔法少女になったのも、将来の収入を守るためだろうし。
「思ったより身勝手な。いや、本人たちが納得してるならいいのだけどね。……してるのかい?」
「さあ。あんなのでもたったひとりの家族だから。俺のために働いてるのは事実だし、将来の実利が理由の全部じゃないのはわかってる」
「そうか。こんな家族のあり方も、世の中にはあるんだね」
「そういうことだ。変な家族って思うか?」
「ひとつの形として、ありだと思う。変なのは愛奈の性格だけだ」
「確かに」
今日出会った、面倒ごとを持ち込んできた生意気な生物と、俺は少しの間笑いあった。
「じゃあ僕は、命令どおり家事をしてあげよう。まずは食器洗いからかな」
「ああ。任せた。あと、ラフィオの寝床だけど」
「用意してくれるのかい?」
「ああ。兄貴の部屋を作ってくれ。後で案内する。ちょっと埃臭いかもしれないけれど、我慢してくれ。気になったら掃除してくれ。物を捨てない限りは、模様替えしてもいい」
「ありがとう。じゃあ、洗い物をしてくるよ」
少年の姿になったラフィオに洗い物は任せて、俺は部屋に戻ろうかな。
リビングを出て、自室に続く廊下に出たところ、愛奈と鉢合わせした。風呂上がりなのだろうか、バスタオルを体に巻いただけの姿で、うっすらと肌が上気している。
「色々、楽しいおしゃべりしてたみたいね」
「家の事情とか説明した」
「そんなに詳しく話さなくてもいいのに」
どこから聞いてたのかな。
俺がそれを尋ねようとした前に、愛奈はスマホの画面を見せた。
今日の件を報じたニュース記事。当事者が見た以上に目新しい情報はないと思ったけど、そうじゃなかった。
速報。正体不明の生物による負傷者のうち、ふたりの死亡が確認。そんな見出しが目に入った。
そうか。倒れていた内のふたりを、救えなかったか。愛奈が変身する前。俺たちがフィアイーターを認識する前に負傷した人間だ。ことさら気に病むことはない。そう言おうとした。
言う前に、愛奈が俺をそっと抱きしめた。シャンプーの香りが鼻孔をくすぐった。
「大丈夫。悠馬の世界は、お姉ちゃんが守るから」
「……」
胸はなくとも、柔らかな女の体。俺より小さく細い体。
魔法少女に変身できる以外は、なんて頼りない存在だろう。
それでも、俺のために毎日頑張ってる。たったひとりの家族のために。
「悠馬はなにも心配しないで。お姉ちゃんは強いから」
「うん。ありがとう、姉ちゃん」
わかってる。愛奈が私欲のためだけに俺を養ったり、魔法少女になったんじゃない。
俺たちは、姉弟だ。
双里家に、今日も朝が来た。
ラフィオに、食事の準備や掃除洗濯といった家事については追々学んでもらうとして、まずは双里家の朝で最も重要な仕事を命じた。
すなわち、愛奈を起こす仕事だ。
「わかった。行ってこよう」
俺の母から受け継いだフライパンとお玉を持ったラフィオが愛奈の部屋に向かっていく。しばらくして。
「ぎゃあああああ!?」
あの悲鳴、キッチンまで響いてたんだな。
一、二分ほどして、ラフィオだけ戻ってきた。
「愛奈が言うには、魔法少女に変身したら電車より早く走れるじゃん。電車待ちの必要もないし、もうしばらく寝ても遅刻しないおやすみ! だとさ」
「それでラフィオはいいのか。魔法少女の力を私用で使うって」
「そんなに良くはないけど、少しくらいなら。協力してもらってる申し訳なさもあるし」
意外に律儀だ。