「素采閣主! 輝露様!」
禪寓閣の診療室へ、文字通り窓から飛び込んだ二人は、意識の無い煙紅を診療台へ寝かせた。
烏から布へ戻った玄絹が煙紅の身体を包む。
「全く騒がしい……、おい、これはどういうことだ」
診療室へ入ってきた素采と睿靖の目に映ったのは、赤い氷煙を吐き続ける煙紅の姿だった。
「夏籥、話しなさい」
睿靖が見つめる。
「煙紅が二つ目の黄泉戸喫を自身の身体に封じたのです」
「そんな!」
睿靖が煙紅の身体に触れ、青ざめた。
「素采」
親友のすがるような目に、素采はすぐに診療台の側に立った。
「夏籥、寝られないぞ」
「わかっています」
夏籥は手早く準備を始めた。
身体を動かさなければ、不安で押しつぶされそうだからだ。
睿琰に向かって焦燥が浮かぶような顔は出来ない。
例え、治療の成功確率が低くても。
「私と夏籥以外、外に出てくれ。少しでも気が散れば、煙紅を助けられなくなる」
睿靖は「睿琰」と声をかけ、その肩を抱くように部屋を後にした。
近くにある素采の書斎に入り、二人は腰を下ろす。
「叔父上、煙紅は……」
悲痛な顔をした甥に、睿靖は優しく答える。
「私はこの天下で素采よりも優れた医術師を見たことがありません。信じましょう」
ただ願うことしかできない自分を恨むように、睿琰は拳を握りしめた。
睿靖はひどく落ち込む睿琰を見つめ、茶を淹れる。
「煙紅は幼いころから心優しい子でした」
過去に思いを馳せるように話し始めた睿靖を、睿琰が顔を上げて見つめる。
「特に、あの封印の力に目覚めてからは、それを良いことに使おうと、夏籥と競うように案を出し合っていました」
小さな煙紅が笑う可愛い姿が頭に浮かび、睿琰は小さく微笑んだ。
睿靖は睿琰の表情を見て、甥達が望むそれぞれの未来に互いの姿があることを感じ取った。
それならば、睿琰は真実と向き合った方が良い。
万が一煙紅が助からないまま他人から事実を聞かされれば、睿琰はきっと心が壊れてしまう。
これが残酷な優しさなのかと自嘲しつつ、睿靖は話し始める。
「煙紅が何故あんなにも強力な封印の力を持っているか、考えたことはありますか」
睿琰は質問の意図がわからず、「いいえ」と答えた。
「きっと煙紅は私が秘密を教えたと知ればいい顔をしないでしょうが、睿琰は知っておくべきです。彼が誰の息子なのか」
睿琰は、煙紅の父親が武神紅霧で祖父が災異宿曜神だということは聞いたことがあったが、今考えてみれば母親のことは知らないと気付いた。
何かが自分の中で繋がりたがっていることを感じ、鼓動が激しくなる。
「煙紅の封印の力は、彼の母親から受け継いだもの。私の大切な、妹から」
睿琰は目眩がした。
自身の腕を見て、血管に流れている血を感じる。
いっそう速くなった鼓動は、心を苦しめていく。
言葉が出ない。
その時、診療室から強い光が漏れ出した。
立ち上がろうとする睿琰を制止し、睿靖は「大丈夫。二人に任せましょう」と微笑んだ。
睿琰は呼吸を整え、胸に手を当てながら、叔父に問うた。
「本当なのですか、叔父上。煙紅は……、煙紅は、煌珠叔母上の息子なのですか!」
睿琰の目から涙が流れた。
「そうです。十七年前、私が禮犀廟から連れ帰りました」
睿靖の哀しい笑みは、過去に取り残された思いを映しているようだった。
「『私に万が一のことが起こった時は、子供を連れて逃げてほしい』と、煌珠から託されていたのです。そんなことにはならないようにと願っていたのに」
睿琰は涙を拭い、睿靖を見つめる。
「煙紅は知っているのですか」
「すべて知っています。自身の母親のことも、睿琰のことも」
「だからあの時、煙紅は私を救ってくれたのですか。家族だから……」
「それは関係ありません。でも、今は違うでしょうね」
睿靖は優しく微笑むと、窓から見える空を見上げた。
「家族でなくとも、大切な友のために同じ決断をしたはずです」
睿琰は頷き、流れそうになる涙を抑えた。
それから数時間。
夏籥と素采の治療が続いている。
そこへ、慌てた様子で書生が速足で歩いてきた。
「輝露様」
睿靖は書簡を受け取ると、押されている印を見て一瞬顔を顰めた。
「叔父上、どうなさったのですか」
「これは兄上からの文。緊急事態以外では送ってこないものです」
睿靖の元へ届いたのは、睿瓏からの密書だった。
印を割り、紐を解いて中の文に目を通す。
睿靖の顔色が変わった。
「睿蘭が……、誘拐された……?」
睿琰が急いで覗き込む。
中にはこう続いていた。
――誘拐犯が悠王府に残していた脅迫文にはこう書かれていた。『皇太子が持っている三つの宝玉と共に、四つ目の宝玉を探し出して持ってこい。さもなければ、皇長子は死ぬことになる』
睿琰の手が震える。
――『最後の一つは鬼魄界の王のもとにある。時間はないぞ』と。睿靖、力を貸してくれ。
「兄上を取り返さなければ」
立ち上がり部屋を出て行こうとする睿琰を止めようと、睿靖が立ちはだかった。
「そんな危ないところへ行かせるわけにはいきません」
珍しく声を荒立てている睿靖の元へ、治療を終えた素采と夏籥がやってきた。
睿琰はすぐさま夏籥の肩を掴む。
「煙紅は⁉」
泣きたくなるほどの不安を押し込めながら、夏籥は睿琰を安心させるべく、声色を作った。
動揺を悟られないように。
「一命はとりとめたってところ。目覚めるかは、煙紅に残された霊力次第」
夏籥は気丈にふるまった。
嘘は言っていない。
でも、煙紅に残っている霊力は、僅か。
「そうか……」
安堵していいのかわからないほど混乱している睿琰は、三人に「私は兄上を助けに行ってまいります」と言って立ち去ろうとした。
「待ちなさい、睿琰」
睿靖の切羽詰まった声に、今度は夏籥が睿琰の肩を掴んだ。
「寧燕、どうしたの? 話して」
睿靖は素采と夏籥に睿瓏から届いた密書を見せた。
「行かなければ、兄上が……」
睿琰の言葉を聞くまでもなく止めようとする睿靖を、素采が遮った。
「言葉で止めたって無駄だ。わかるだろ、輝露」
それでも引き下がらない睿靖に、夏籥が向き合った。
「輝露様、ご安心ください。私が寧燕を守りますから」
夏籥のとんでもない発言に、睿靖は言葉に詰まりながらも懸命に説得しようと試みた。
「鬼魄界の王がどれほどの力を持っているのか、少し考えればわかるでしょう。たった二人でどう立ち回るというのです。そんな危険な場所へ行くなんて、許可できません」
叔父の真剣な眼差しをまっすぐ見つめ返しながら、睿琰は覚悟を決めた声で言う。
「許可は求めていません。叔父上、素采閣主、煙紅を頼みます」
睿琰は夏籥に「行こう」と声をかけ、二人は窓から飛び出していった。
その背を見つめる睿靖の肩に、素采が触れる。
「寧燕はお前の幼いころにそっくりだな。頑固で、でもまっすぐで、家族思いで、愛情深い」
素采に言われ、睿靖は溜息をついた。
「だから心配なのですよ」
空が橙に染まり始めた。
「ほら、若者に任されたんだから、二人で仲良く煙紅の看病をしよう」
睿靖は誰にも届かない溜息をつき、素采と共に診療室へ向かった。
一方その頃、睿琰と夏籥はいつものように空を飛びながら鬼魄界へ通じる扉を探していた。
「ねぇ、寧燕」
「なんだ」
「煙紅のこと、一目見て行かなくてよかったの?」
夏籥の問いに、睿琰は言葉に詰まった。
「見ていればわかるよ。だって、私は二人の親友だもの」
緊急事態にはそぐわないほどの穏やかな風が、二人を包む。
「もし……」
睿琰は少し俯きながら答える。
「もし、一目見てしまったら、その場から動けなくなってしまうと思ったのだ」
夏籥は親友の言葉にうなずき、優しく微笑んだ。
「煙紅なら大丈夫だよ。だって武神の子で、護国巫姫の子だもの。それに、私達っていう帰ってくる理由があるでしょう?」
睿琰の瞼に、煙紅の笑顔が浮かぶ。
「ああ……、その通りだな」
世話の焼ける親友だなぁ、と、夏籥は笑ってみせた。
「そういえば、あの密書だけど……。最後の禍珠は鬼魄界の王のもとにあるって書いてあったよね。王って言っても、誰のことなんだろう」
「あいつに聞けたら……」
「あいつって?」
「春陽伯だ」
「ああ、そうか。鬼魄界の王から爵位をもらったって言っていたものね。見つけたら話すついでに再起不能になるまで殴ってやりたいな」
その時だった。
眼下から声が聞こえた。
「こっちですよー。私をお呼びですかぁ?」
睿琰を背負った夏籥は急降下し、春陽の頭部を蹴り飛ばしてから着地した。
睿琰は夏籥から降り、転がる春陽を見下ろすように立った。
「お二人とも高貴な割には野蛮ですね。ふう、間一髪でした。不老不死と言えど、それは寿命では死なないだけで、怪我や病に罹れば普通に死んじゃうんですよ。まったく」
ああ、左腕が骨折してしまいました、と、春陽は大袈裟に嘆いて見せた。
ぶつぶつと文句を言いながら立ち上がった春陽に、夏籥は拳を振り上げる。
それを睿琰が手で制止し、「どうしてここに」と言った。
「商売ですよ」
「相手は」
「あなた方です。……おや? あの病弱な青年はどうしたのです? 死んだのですか」
睿琰が春陽の襟をつかみ、強く木に押し付けた。
「黙れ。聞かれたことだけに答えろ」
睿琰の激しい剣幕に、春陽は嬉しそうに微笑んだ。
「わかりました。皇太子殿下」
気持ちの悪い笑みを浮かべる春陽に、夏籥が聞く。
「なんで私達と商売が出来ると思ったの?」
「だって三つ禍珠を手に入れたでしょう? そうすると、きっと四つ目が欲しくなるのではないかと思いまして」
睿琰と夏籥は顔を見合わせると、二人で春陽を睨んだ。
「なぜ三つ集まったと知っている」
「私の依頼主が教えてくれたのです」
「依頼主は誰だ」
「守秘義務で言えませんし、殺されても言いません」
聞くだけ時間の無駄だと悟った睿琰は、本題に入った。
「四つ目の禍珠はどの王のもとにある」
春陽は木に押し付けられたまま懐から算盤を出すと、指で弾いた。
「お代はこちらです」
睿琰は髪に刺している簪を引き抜くと、それを春陽に渡した。
「おお、皇太子殿下は太っ腹ですね」
春陽は簪を袖にしまうと、懐から地図を出して言う。
「最後の禍珠を持っているのは、鬼魄界の溶岩窟を統べる王、炭華様です」
「どんな王だ」
「人間にはとても好意的ですよ」
春陽は笑みを浮かべて言った。
「食料として、ね」
睿琰は春陽から手を離すと、「失せろ」と言い、睨みつける。
「良いお取引でしたね。ではまた」
春陽は黒い布を広げると、それに巻かれるようにして姿を消した。
「寧燕、覚悟は良い?」
王の人間に対する態度を春陽から聞き、夏籥は睿琰をまっすぐ見つめた。
「当然だ。向こうが敵意むき出しで来るのならありがたい。気兼ねなく首を斬り落とせるからな」
二人は再び空へと飛び立つと、地図に示された場所へ向かって飛行を始めた。
目指す場所は西にある廃鉱山。
三百年ほど前に大きな事故があり、その後は誰も寄り付かなくなった山。
鉱山夫は常に死と隣り合わせの環境で働いている。
雇い主が趕屍匠を雇ってくれれば、死後僵尸として操られ、地元まで送り届けてもらえるが、全員がそうしてもらえるわけではない。
事故で両足を失ったり、見分けがつかないほど破損してしまったりした遺体は自走が出来ないため、僵尸として操ることは出来ないのだ。
それに、鉱山で働いていたのは何も地元民だけではない。
そこはかつて罪人の流刑地でもあった。
救われなかった命はやがて土地や人々の怨念を吸い上げ、悪霊や悪鬼、鬼霊獣となる。
鬼魄界との扉が開いていてもおかしくはない。
ほとんど休むことなく丸一日飛び続け、やっと廃鉱山へたどり着いた二人。
「夏籥、大丈夫か」
「うん。私体力には自信あるからね」
夏籥はおもむろに空から何かを取り出した。
「寧燕はこれをつけて」
夏籥が睿琰に渡したのは、一枚の面だった。
「これは……、変面で使う面か」
「そう。劇では喜怒哀楽を面の違いで表現するでしょう? でもこれは違う。面で種族を誤魔化せる呪具なの。呪具って言っても、別に心身に害はないから安心してね」
「わかった。ちなみにこれは何の種族なんだ? 鱗のような模様が入っているが」
「龍神族だよ。彼らは……、まあ、色々伝統があって、よく面を使う種族なの。だから鬼魄界に入っても人間だと露見しにくいと思う」
睿琰が受け取った面を身に着けると、それは肌に吸い込まれるように消え、顔と一体化した。
準備を終えた二人は瘴気の濃い方へと歩いていく。
眼前が歪んで見えるような、不快な感覚。
少しずつ周囲の温度が上がっているようだ。
背に汗が伝う。
「……あった。扉を隠すつもりがないみたいだね」
「威嚇か蛮勇か。何者にも負けない自信があるのだろう」
夏籥が先に入り、睿琰が後に続く。
「……うわあ」
黒い岩肌に煌々と照り付ける溶岩の滝。
空という概念がないのか、上空と呼べる場所にもはるか遠く岩肌が見える。
流れ続ける溶岩の灯りと石造りの灯篭のおかげで周囲の光量に問題はなさそうだ。
「……金陽に似ている」
「本当?」
「ああ。規模は小さいようだが、目の前の道も、その奥に見える城の一角も、既視感がある」
睿琰は初めて来た鬼魄界の街を迷うことなく進んで行く。
一番大きな通りに並ぶ家屋や大店のほとんどが鋼鉄で組まれており、軽やかさとは縁がない見た目をしている。
活気は十分にあるようだが、闊歩するのは魑魅魍魎悪鬼羅刹の類。
よく目を凝らして見てみると、屋台で売られている料理には人体の一部が。
春陽の言っていた通り、ここではよく人間を食べているようだ。
「彼らはあえて生活様式を似せているのか」
「どうだろう。鬼魄界に来るのは初めてだからわからないけれど、聞いていた話によれば、王が人間に近い存在だったりすると、こういうこともあるみたい。ただ……、ここは少し特殊な気がする」
「あまりに金陽に似すぎている。皇宮、というか、城までの道のりもほとんど同じだ」
不穏な空気を感じ取りながら街中を歩いていると、水音のようなものが聞こえてきた。
「こんなところに水が?」
鉄製の桶を運んでいる鬼が三人、液体が揺れる音を立てながら通り過ぎていった。
「……いや、あれは違う。寧燕は知らない方が良いかも」
「教えてくれ。あいつらが運んでいるのは何なんだ」
夏籥は今にも鬼に詰め寄りそうな睿琰を抑えながら言う。
「においからして、血液とか体液の類だと思う。人間の」
「奴らは水の代わりにそれを飲んでいるというのか」
睿琰は拳を握りしめながら声を怒りに震わせた。
「違うと思う。水はあるんじゃないかな。冷たいかはわからないけれど。あの血液は……、たぶん、お酒として飲むんだと思うよ。微かに酒精の香りもしたから」
「血が酒に……?」
「本で読んだことがあるんだけど、人間に大量にお酒を飲ませて血中の酒精濃度を上げ、その血をお酒として飲む鬼がいるんだって」
「そんな……。では、あの血液は……」
「生き血じゃないかな。血液を採られた人は生きながらにお酒の材料にされているんだと思う」
睿琰は拳を解き、口元を覆った。
「言っておくけれど、助けには行けないよ」
「何故だ」
夏籥の切り捨てるような言い方に、睿琰は瞬間的な怒りと共に困惑した。
「私、覚悟はあるかって聞いたよね。それは寧燕が襲われる可能性とは別に、人間がどう扱われているか知っても無暗に行動を起こさずにいられるか、っていう意味でもあるんだよ」
「だが、見過ごすわけにはいかない」
夏籥は正義感と焦燥、憤怒に燃える親友に対し、あえて諭すように言う。
「私だって彼らのしていることは許せない。でも、ここは鬼魄界なんだよ? 金霞国じゃない。それに、人間界でもない。私達の法律や倫理観は通用しない場所なの」
精神的な打撃が大きかったのだろう。
睿琰は再び拳を握りしめている。
指の間から血がしたたるほど。
「行こう、寧燕。颯嵐兄さんのために」
「……そうだな。すまない、夏籥」
夏籥は苦悩する睿琰の姿に、胸が痛んだ。
普通に生きていれば気付かずにいられたものを、彼は知ってしまったのだ。
二人は再び睿琰を先頭に、王がいるであろう城までの道を進んで行く。
その足取りは重い。
二人が通り過ぎた後、有翼種の小鬼が道に現れ、香しいにおいを嗅ぎつけた。
地面に落ちている数滴の赤い液体。
興味本位で舐めた小鬼は、その持ち主の種族に気付いてすぐに城へと飛び立った。
自らの王に知らせるために。