睿蘭が三人に部屋を用意しようと立ち上がりかけた時、禍珠が仄暗く光った。
「これは……」
机の上に鎮座する禍珠を見つめ、睿琰が顔を顰めた。
「誰かが使用したのでしょう」
煙紅は禍珠を手に取り立ち上がると、その場でゆっくりと回転する。
「……北西を向くと強く光るようだ」
睿蘭は煙紅の手にある禍珠を見ながら言った。
「とにかく、今日は休め。煙紅のその顔色は寒凍魄が理由だけではないだろう」
夏籥が頷く。
「煙紅の主治医は素采閣主だけれど、私はその一番弟子。つまり、今この場で煙紅が従わなければならない医術師は私ってこと」
睿琰の表情が曇る。
「さあ、三人とも。案内するからついてこい」
睿蘭に続いて部屋を後にする三人。
弧を描くように曲がる廊下を進み、三つの扉が見えてきた。
「寧燕の隣の部屋を二つ空けさせた。ゆっくりと過ごすといい。私は一度皇宮へ戻る。他の皇子達への牽制として皇長子という立場はとても有効だからね」
睿蘭の優しい笑顔に促され、三人はそれぞれ部屋へと入って行った。
少しすると、夏籥が「治療するよ」と煙紅の部屋を訪れ、「見舞いに……」と睿琰もやってきた。
「二人はいつから友人なんだ」
夏籥に脈を測られながら煙紅が答える。
「夏籥は従兄弟なんです。父親同士が兄弟で。夏籥とは産まれた時からほとんどの時間を一緒に過ごしています」
「医神と武神の父親とは、想像もできないな」
「お祖父様は……」
煙紅が言葉に詰まる。
「私達のお祖父様は、僥倖と災厄を司る天星神、災異宿曜神なの。とても性格が変わっていて、人間からの祈りには必ず祝福と呪を同じ量与えているらしいよ。天界の神仙からは畏怖の対象になっているんだって。正直に言えば、『まつろわぬ神』ってところ。それで……」
夏籥が煙紅を見る。
「私の父、武神紅霧は、お祖父様の不興を買ってしまい、今は天界に軟禁されているのです」
「な、軟禁だと」
睿琰は身を乗り出して驚愕の表情を浮かべた。
「私の父上が何度紅霧叔父さんの解放を求めても、お祖父様は取り付く島もないって感じで、全く応じてくれないの。それどころか、お祖父様は私達孫には会おうともしないし。本当に変な神」
夏籥は「はい、これ飲んで」と煙紅に薬を渡しながら言った。
「お母上は夫の軟禁について何も言わないのか」
煙紅の肩が強張る。
「寧燕、銀耀江湖の暗黙の了解は何だっけ?」
夏籥が困ったように微笑んだ。
「詮索しないこと……。すまない」
睿琰は身体を引き、頭を下げた。
「大丈夫です。私の母は人間なのですが、出産時に亡くなってしまって。良く知らないのです」
煙紅の胸に痛みが奔る。
正体を明かせないからとはいえ、友人に嘘をついた。
それも、血のつながった従兄弟に。
煙紅の表情からつらさを察した夏籥は、その背をさすった。
「私の母上は医仙で薬術師。才色兼備なのは母上譲りなの」
夏籥は話題の中心を逸らそうと、可憐に微笑んだ。
「夏籥がやけに美しい理由が分かった」
「でしょう? 寧燕はどっちに似ているの?」
「ううん、周りからは私も容姿は母上に似ていると言われている。兄上は……、容姿は父上似で、行動力は母君似だな」
口の中に残る苦い薬の味をお茶で流し込みながら、二人の友人を見つめる煙紅。
煙紅の容姿は、伯父の睿靖から煌珠に似ていると聞いている。
特に目は「妹そのものだ」と、よく悲し気な表情で言われる。
三人は出会ってからあまり話す暇もなかったため、互いのことを色々と語り合った。
「寧燕はどうして睿犀を封じようと決心したの? 皇宮には優秀な術者の伝手くらいあるだろうに」
睿琰はぽつりぽつりと話し始めた。
「私には何人か叔母がいる。その中の一人に、煌珠叔母上ほどではないが霊力を持っている叔母がいてな。青鸞叔母上は睿犀が解き放たれてから十年間、金霞国にある鬼魄界と繋がる扉を封印するために尽力してきた。そして、今年の初め、二つ目の扉を閉じることに成功した後、倒れてしまわれたんだ。鬼魄界の空気に触れ過ぎたらしい」
煙紅と夏籥は顔を見合わせた。
「症状は重いの?」
夏籥と目が合った睿琰は、首を振った。
「わからないんだ。皇宮の医官も、皇宮付きのあらゆる術者たちも、お手上げだと言っていた」
「なんだかわからなくとも、私ならばその病を封じることが出来ます」
煙紅が睿琰をまっすぐ見つめて言った。
「駄目だ。そんな危険なこと……」
譲ろうとしない睿琰に、煙紅は口から氷煙を吐いて見せた。
「黄泉戸喫に敵う病も呪も、この天下にはありません」
夏籥の瞳が揺れる。
なぜ親友は己を犠牲にしたがるのか、と、悲しくてたまらないというように。
「私も診てみたい。医仙の力だけで助けられるかもしれないし」
睿琰は友人二人からの提案に思案を巡らせ、頷いた。
「煙紅の中に封じるというのは同意できないが、でも、二人の言うことには一理ある。会えるよう手配しよう」
三人は頷き合い、それぞれの部屋へと戻って身体を休めた。
翌日、昨日入りそびれた湯浴みをし、三人は着替えてから出発した。
琉星羽林の人々の目が届かなくなるところまでは歩くことにした。
いきなり飛んで驚かせたくはない。
「寧燕はお父上のところに戻らなくていいの?」
夏籥は睿琰が金霞国の皇太子であることを思い出した。
「私はまだ十七歳。父上から政務を代行せよとはまだまだ命じられないだろう。だが……、たしかにそうだ。一度戻った方が良いかもしれない。青鸞叔母上にも会いに行かなければならない理由が出来たしな」
「え、十七歳なの? 私達もそうだよ。少し年上かと思ってた」
「そうなのか。二人は医神と武神の息子だから、てっきり私では考え付かないほどの年齢なのかと……」
「寿命は限りなく長いけれど、まだ青年期に入ったばかりだよ」
睿琰はどこか安堵した表情を浮かべている。
「それで言うと、青鸞叔母上は煌珠叔母上と生年月日が同じだ。二人はよく双子のようだと言われていたらしい。ただ、青鸞叔母上は身体が弱くてな。早々に出家してしまわれた」
煙紅は自身の母親のことをほとんど知らない。
双子だと言われていたほど似ているのなら、母の面影を感じることが出来るかもしれない。
胸が高鳴った。
「煌珠叔母上と青鸞叔母上は年長の棠梨叔母上と仲が良くて、よく三人で過ごしていたそうだ。今でも、青鸞叔母上と棠梨叔母上は交流がある」
「みんなお母上は同じなの?」
煙紅は夏籥の発言に動揺した。
基本的に皇帝や太上皇の妃嬪の格は皇子の格に比例するが、娘たちの格は母親の格に比例する。
夏籥にはそんな意図はないだろうが、この質問は「誰が一番尊い長公主なの?」と聞いているのと同義なのだ。
「ああ……」
睿琰も困っている。
ただ、夏籥の純粋な瞳に他意はないとわかっているため、苦笑しながら答えることに。
「煌珠叔母上は嫡子。つまりは、父上と睿靖叔父上と同じで、太上皇陛下と皇太后陛下の娘だ。青鸞叔母上は貴太妃の娘。棠梨叔母上は……、李太嬪の娘だ」
妃の位は高い方から皇后、四妃 (貴妃、淑妃、徳妃、賢妃)、妃、嬪……、と続いていく。
「ふうん。母親が違っても仲良くできるなんて素敵。兄弟姉妹がいっぱいいるってどんな感じなんだろうなぁ」
夏籥は桃色の頬に手を当てて考えている。
「叔母上達のように仲が良ければいいが。なかなかそうもいかないのが現実だ」
睿琰はまるで他人事のように淡々と話し始めた。
皇子や公主の縁談はほとんどの場合皇帝が決める。
当然、寵愛されていない妃嬪の子供には適当な相手が振り当てられることが多い。
産まれた時からある程度の運命は決まっているのだ。
それゆえ、後宮は朝廷よりも遥かに陰湿。
妃嬪たちは寵愛を獲得して成り上がろうとあれこれ暗躍し、子供が巻き込まれて死ぬことになる。
妊娠中は特に危険だ。
お腹の子が男女どちらかわからないため、皇子を産むかもしれないという前提で暗殺や毒薬による強制堕胎の対象になる。
「荒波が通常だと諦めなければ、生きていられない」
「怖いんだねぇ。寧燕と颯嵐兄さんが無事でよかった」
夏籥は屈託のない笑顔で頷いた。
「……純粋だな」
「ありがとう。知ってる」
二人の会話にハラハラしながら煙紅は歩き続けた。
すると、背後から馬の蹄の音が。
「寧燕様!」
睿琰が振り返る。
「どうした」
駆け寄ってきたのは睿蘭の側近で、皇長子軍で将軍を務めている男性だった。
馬から降りると、拱手する。
「寧燕様、輝露様からです」
それは睿靖からの密書だった。
「読んでおく。他にも何かあるか」
「未明、宗主がご実家へと発ちました。では、私はこれで」
男性は馬にまたがると、駆けて戻って行った。
「兄上宛ならわかるが、私に密書……」
睿琰は封蝋を割り、紐を解いて中を見た。
「……そうか。そういうことか」
睿琰の目に怒りが浮かぶ。
「どうしたのですか」
煙紅が聞くと、睿琰は「急ぎたい。向かいながらでもいいか」と言った。
「急ぐなら、飛んで行こう。ほら、背負うよ」
睿琰は素直に夏籥に背負われると、三人は空へと浮かんだ。
「西南の国境に異変があり、急いで行って欲しいとのことだ。そこは兄上が先代藍晶王と平定した土地、藍晶。今は息子の言 浩龍が王爵を継ぎ、新たな藍晶王として国境を守っている。浩龍兄さんは兄上の親友だ」
早朝の空気は冷たく、眠い頭を起してくれる。
嫌な記憶も同様に。
「異変はあいつのせいに違いない。だから叔父上は密書で送ってきたのだ。藍晶は第二皇子である睿松が狙っている土地。陸路貿易の要所なのだ。西側諸国の人々が住まう自治区域、蕃坊もある。証拠不十分で不問になった事案だが、以前睿松は属国の華丹と結託して藍晶に攻め込もうとしたことがある。事前に察知した兄上と浩龍兄さんが対処したが……」
太陽の光が空気を温め始める。
しかし、心は穏やかではない。
「今、浩龍兄さんは金陽にある言王府にいる。その隙を狙ったのか」
睿琰は拳を握りしめた。
「それなら、颯嵐兄さんが行くんじゃないの?」
「兄上には多くの政務がある。皇帝陛下の号令無しに戦地へ赴くことはできない。それも、他の皇子が関わっているかもしれないとあらば、なおさらだ。もちろん、それは私とて同じだが、今の私は寧燕。自由に動ける」
睿琰の拳が震える。
「もし睿松の所業ならば、弟の睿葉と共に天下から抹消してやる」
いつもとは違う睿琰の様子に、煙紅と夏籥は顔を見合わせた。
「そんなに大変な事態なら、もっと急いだ方が良いですよね」
煙紅は玄絹に多くの霊力を纏わせ空へ投げると、それは巨大な烏へと変化していった。
夏籥は烏の真上へ行くと、寧燕をゆっくりと降ろした。
「これなら、全員が全力で飛べます。少し休憩をはさんだとしても、十二時間くらいで着くでしょう」
「煙紅の霊力は……」
「大丈夫ですよ。体調に自信が無かったらそもそも提案しませんから」
三人は速度を上げ、藍晶まで急いだ。
睿琰は休憩することももどかしいようで、用を足す以外では烏から降りなかった。
「街灯り! 結構乾燥している土地なんだね。初めて来た」
空気に交じる砂の気配に、夏籥はどこかはしゃいでいる。
「ここは藍晶の末端の町だ」
「戦火が上がっている様子はないですが……。血のにおいがします。それも、腐りかけている血の……」
三人は煙紅が感じた血のにおいがする方角へと飛んで行った。
そこは山の中腹。
木の陰に隠れながら地面へと降りる。
玄絹は役目を終え、煙紅の首元へと戻っていった。
「あの鎧は藍晶軍の……。な、何を」
藍色の鎧を着た何かが、土を掘り返し、その中に埋葬されていたと思われる遺体を食べていた。
「そんな……、嘘だ……」
「まだ藍晶の兵と決まったわけではありません。屍喰獣が、襲った兵の甲冑を奪って身に着けているのかも……」
微かな囁きで話していた三人。
藍色の甲冑を着た者に月の光が当たる。
「煙紅……、あれ、人間だよ……」
唸り声。
口からは遺体から喰いちぎったと思われる手がだらりと下がっている。
夏籥は相手を観察するために少しずつ近付いて行く。
「……死んでいるわけじゃない。何が原因かはわからないけれど、ひどく錯乱しているんだと思う。呪か、病か、それとも両方か。あの人は被害者だよ」
医仙としての夏籥の目が光る。
濃い橙の光はその強さを増し、怒りで瞳孔が開く。
「何にせよ、許せない」
一歩ずつ、また一歩ずつと近づいて行く。
相手がこちらに気付き、眼球がぐるりと回って視線が合う。
その目が見ているのは、睿琰だけ。
「私達が人間じゃないとわかるみたいだ」
夏籥は煙紅と睿琰に向かって頷く。
煙紅が走り出した。
相手は遺体の腕を吐き出しながら睿琰に向かって立ち上がる。
煙紅は素早く相手の背後に回ると、相手の両腕を後ろに拘束し、膝を蹴って地面に跪かせた。
夏籥はその隙にいくつかの経穴を突き、意識を奪う。
「寧燕、それ以上近付かない方が良い」
睿琰は一瞬足を止めたが、怯まず進んでいった。
「……脱がすぞ」
背にある、でたらめな順番で結ばれた頑丈な革ひもを剣で斬り、鎧を引きはがした。
「この鎧は藍晶軍のものだが、こいつはちがう。胸元の刺青は華丹国の族証。琉星羽林にも華丹人の仲間がいる。私が見間違えるはずがない」
睿琰の目が鋭くなる。
「奪ったのか……。倒した藍晶軍の者から」
「ということは、今現在どこかで軍事衝突が行われているということですね」
二人の会話をよそに、夏籥は意識を失い倒れている華丹人を診る。
爛れた皮膚。濁った眼球。気絶しているのに尋常ではない速さの脈。
全身の毛は固く、皮膚を貫くほどの強度がある。
見た目に反して筋肉には柔軟性があり、しなやか。
骨格はなんらかの影響で戦闘に特化したものに変化しているようだ。
ただ、ひどく死臭がする。
「二人とも、急ごう。被害者が増えちゃうよ」
三人は華丹人がここまで歩いてきた道をたどり始めた。
月灯りで影が出来るのを避けながら山の中を進む。
土よりも砂が増える。
木々が減り、砂漠地帯である月華瀚海へ出た。
「ここは金霞国藍晶と華丹の間にある砂漠。この先には中立を保つ月華丹人の集落しかないはずだが……」
視線の遥か先。
何かが空へと昇り、発光した。
「……狼煙か!」
三人は顔を見合わせると、煙紅が玄絹を大鷲に変え、全員を乗せて空へと飛びあがった。
「二人とも、掴まって」
漆黒だが月の光を透過する大鷲が狼煙が上がった方へと急速に近づいて行く。
「ああ、そんな……」
夏籥が眼下の惨劇に絶句した。
「月華丹人の集落が襲われている。守っているのはおそらく救難信号に応じた藍晶軍だ」
「何故藍晶軍が救援に?」
「華丹の民と月華丹の民は源流こそ同じだが、信仰している神が違うのだ。それで度々諍いが起こっている。藍晶軍は華丹国において弾圧の対象となっている月華丹人の保護活動もしていると聞いている」
煙紅は睿琰の言葉を聞き、急いで大鷲を降下させた。
「あそこに降りてくれ! 浩龍兄さんの副将がいる」
簡易的な天幕の前に三人は降り立った。
近くにいる兵達が一斉に武器を向ける。
「私だ。礼は免じる」
睿琰が一歩前へ出た。
「皇太子殿下!」
兵達は武器を納め、拱手した。
兵達の声を聞きつけた将軍や指揮官が天幕から出てくる。
「久しいな」
「こ、皇太子殿下!」
跪こうとするのを制し、睿琰は戦況を尋ねた。
「属国華丹の兵が月華丹人の自治区へ侵攻してきたと一報が入り、急ぎ五千を率いて救援に来ると、狂人と化した華丹兵たちが集落を蹂躙していたのです。戦況はあまりいいとは言えません。相手の数は三千ですが、いくら攻撃を重ねても、首を斬り落とさない限り華丹の兵が倒れぬのです」
それに、と、指揮官が話を繋ぐ。
「奴らは戦死した仲間や藍晶軍の兵、墓の中の遺体を喰い散らかし飢えを満たしているため、兵糧が無くとも動ける状態です」
「藍晶王府から援軍が二万こちらへ向かっていますが、砂地では騎馬が役に立ちません。白兵戦ともなれば、兵の体力は想定以上に消耗します。それなのに、敵は疲れ知らずの狂人化した兵……。住民を保護するだけで精一杯なのが現状です」
睿琰は友人二人に向き合い、言う。
「二人とも、華丹の民が狂人化した原因を探ってくれないか。私はここで藍晶軍と共に戦う」
「弓兵を千私につけろ」と言い、睿琰は強弓を受け取って高台へと向かった。
「あなた方は……」
将軍達の視線が集まる。
「皇太子殿下の新しい護衛と医術師の者です。我々は殿下の命に従い、華丹の狂人兵達が生まれ出でる場所を探し、原因となっているものを探してまいります」
二人は拱手し、空へと飛びあがった。
「な! そ、空を……」
藍晶軍の者達の驚愕の声が聞こえた。
「煙紅、氷煙に血が混じってる」
「大丈夫。すぐにおさまるから」
夏籥はどうせ止めても無駄であろう親友の横顔に、そっと溜息をついた。
戦場を通り過ぎ、低空を飛ぶこと数分。
砂岩の洞窟から低い地を這うような叫び声が聞こえてきた。
「怪しいね」
「行こう」
洞窟の入口にそっと降り立った二人は、音を立てないよう奥へ進んでいく。
叫び声はだんだんと鮮明になっていき、それとは別に男達の声が聞こえてきた。
「おやおや。元気だこと」
「春陽伯、もうこのくらいで……」
「私とあなた達の利害は一致しているはず。代金を頂かずに奉仕しているのですから、もう少し私の実験に協力していただきますよ」
「で、ですが」
声に近付いて行く。
火の揺らめきの中に見えたのは、黒い深衣を身に纏った恰幅の良い男と、深衣に似た華丹国伝統装束の中でも官僚が着る官服を身に着けた男が三人。
中央にある寝台には屈強な男が寝かせられている。
奥にある檻のような場所にはまだ何かが閉じ込められており、全て気絶している様子。
恰幅のいい男が寝台に横たわる男に向かい、言う。
「ほら、お行きなさい。金霞国の兵を喰い散らかすのですよ」
先ほど地鳴りのような叫び声をあげていたのは華丹の兵だったようだ。
男は跳び起きると、獣のように駆け、煙紅達には目もくれず洞窟から出て行った。
「次はあちらですね」
檻に視線が向く。
「春陽伯、本当にやるのですか……? 我が国の兵たちを金霞国の兵もろとも食料に……」
「証拠を残したくないのでしょう? それならば、此度の戦闘に参加した全員を、狂化した鬼霊獣達に食べさせるのが一番です」
夏籥の瞳が橙に光る。
それと同時に、煙紅の瞳も発光した。
血のように紅く、氷のように冷たく。
「やめてよ!」
飛び出した夏籥は、檻に重陽華盾の結界を張り、その前に立った。
「なんです、君……、君達は」
煙紅は手に紅熊ノ剣を持ち、男達と入口の間に立ちはだかった。
「その力、おそらくは銀耀江湖の者で間違いないでしょうが……、お二人は人間ではなさそうですね」
春陽の言葉に、華丹の三人は肩を震わせた。
「に、人間じゃない、とは」
「まあ何にせよ、我々では敵いません。鬼霊獣の檻も抑えられてしまいましたし」
煙紅は一歩ずつ近づいて行く。
「何故こんなことを? 金霞国は執拗に貴国を押さえつけてはいないはず」
「は、はは、おめでたい、じ、人外の坊ちゃんめ。お、おお、お前たちの国が一枚岩でないことは、ぞ、属国の者ならば誰でも知り得るところ。小国である華丹が単独で、武勇に優れる藍晶王の縄張りを、お、侵せたとでも?」
華丹の男達の嘲笑に、二人は睿琰が言っていたことを思い出していた。
――証拠不十分で不問になった事案だが、以前睿松は属国の華丹と結託して藍晶に攻め込もうとしたことがある。事前に察知した兄上と浩龍兄さんが対処したが……。
「睿松殿下の差し金ですか?」
華丹人達の顔色が青く変わっていく。
「目的は月華丹人の蹂躙ではなく、藍晶軍に打撃を与えることなんですね」
煙紅の息が白く、冷たくなっていく。
「なんと! 黄泉戸喫の呪持ちでしたか。お会いできて光栄です」
春陽はまるで危機感がないようだ。
微笑んでいる。
「自己紹介がまだでしたね。私は春陽 朔と申します。鬼魄界の王に伯の爵位を賜り、こうして鬼魄界と人間界を繋ぐ商人をしております。ですので、私の商売の邪魔をしないで頂きたいのですが」
「兵士たちに罹患させたのは何? 呪? それとも、毒?」
夏籥が橙色に光る眼で春陽を睨みつけた。
「それならお答えできますよ。毒です。これは鬼魄界の毒なので、まあ、呪と同義でしょうね」
「そんな……」
夏籥の瞳が絶望に明滅する。
「あなたは医仙なのですか。あらあら。ではわかるでしょう? 狂人化した状態で一口でも人間の肉を喰らえば、もう元には戻せない、と。つまり、治せないってことですね」
夏籥の目はあの時と同じ悲しみを含んでいる。
煙紅の寒凍魄が不治の呪だと知った時と、同じ痛み。
「雇い主からの依頼をこなさなくてはならないので、そろそろお引き取り頂いてもよろしいでしょうか」
「もうおかしなことはさせない」
煙紅が剣を構えた。
「ううん、困りましたね……。では、ちょっとご相談なのですが」
春陽が一歩前へ出た。
「あなた方は銀耀江湖の者。ここで華丹人の高官を何人斬ろうが煮ようが焼こうが自由です。でも、どうでしょう? お二人が親しくしていらっしゃるあの方にとっては不利になるのでは?」
煙紅と夏籥は目を合わせた後、すぐに春陽に視線を移した。
「何のことでしょう」
「よく考えればわかるでしょう? 華丹国高官の雇い主と、私の雇い主は別の人物ですよ。入ってくる情報も別々なのです」
空気が張りつめた。
春陽は楽しそうに笑みを浮かべながら話し続ける。
「雇い主達の襲いたい相手も陥れたい理由も違いますが、利害が一致したので、我々はこうして手を組んでいるのです」
煙紅は氷煙を吐き出し、春陽を睨みつけた。
「あなたの雇い主はどんな依頼を?」
春陽は全く退こうとしない煙紅を見て困ったように微笑むと、懐から何かを取り出した。
「雇い主も、対象も、理由も守秘義務があるのでお答えできません。でも、ここで殺されるつもりもありませんので、あなた方の御友人が欲しがっている物を差し上げます」
それは春陽の手の中で昏く輝いた。
「これは若い頃、脱走兵だった私が山の中をさまよっていた時に鬼魄界へ迷い込み、そこの賭場で自身の寿命を賭けて勝った賞品としてもらったもの。なんでも、魂を身体につなぎとめる力があるようです。だから私は長生きが出来ているのですかね。今はもう不老不死の薬を持っておりますので、これは必要なくなりました。なので、どうぞ」
春陽は勿体つけたように深呼吸をすると、柔和な笑みを浮かべてそれを煙紅に投げた。
「では、さようなら」
いつの間に移動していたのか、春陽は洞窟の入口へ向かって走って行ってしまった。
「これは……、禍珠だ! 『壱』って書いてある」
「え、なんで? どうしてくれたの? は?」
二人が困惑している隙に、華丹の高官達が逃げ出そうとしたので、夏籥が経穴を突いて気絶させた。
「戦場に戻ろう。こうなったら戦うしかない」
「治せないならせめて、楽に逝かせてあげるしかないものね……」
二人は適当な砂岩の柱に高官達を縛り付けてから外へ出ると、戦場へ向けて飛び立った。
月華丹人の集落にはまだ援軍が到着しておらず、悪戦を繰り広げていた。
「殿下!」
二人は睿琰の元へ降り立った。
「ここでは寧燕と呼ばない方がいいでしょ?」
「その通り。原因はわかったか」
夏籥が狂人化のことや黒幕、華丹の高官を捕縛してあることなどを話した。
そして、治せないということも。
「そうか……。では、二人は天幕で……」
「戦います」
「煙紅の援護は私がするから、安心して」
二人の言葉に、睿琰は胸が熱くなった。
それでも、皇太子として言わなくてはならないことがある。
「これは銀耀江湖の者が関わるべきことではない。国家間の争いであり……」
「友達が困っているからっていう理由じゃ駄目ですか」
睿琰は驚くと同時に身体から緊張の強張りが溶けていくのを感じた。
「それならば、力を借りたい。煙紅、夏籥」
三人は頷き合うと、それぞれの位置についた。
煙紅は剣をしまい、空から出した紅龍偃月刀を持つと、一番戦闘が激化しているところへ参戦していった。
皇太子の号令で、怪我をした藍晶軍の兵達が下がっていく。
広くなった戦場。
煙紅にとって戦いやすい場となっていく。
「安らかに眠って下さい」
紅龍偃月刀を振り上げ、横に薙ぎ払った。
腕を返し、次々と首を斬り落としていく。
煙紅に襲い掛かろうと死角から跳び出してくる敵の頭が、夏籥が放った矢で弾け飛んで行く。
この悲しい殺戮が終わったのは、二時間後だった。
「お疲れ様です、殿下」
夏籥に支えられながら、煙紅は睿琰の元へ行き、弱々しく微笑んだ
「二人とも、ご苦労だった。あとのことは藍晶軍が処理してくれる」
煙紅の口から赤い氷煙が出続ける。
「これ、受け取ってください」
睿琰は煙紅が取り出した悍ましい宝珠を受け取った。
「……禍珠か。その名の通り、災禍しか招かぬ呪物。どうにかして破壊する方法を探さなければ」
「焦らず頑張りましょう」
「ああ。とにかく、二人は休んでくれ。天幕を用意させた」
「ありがとう、殿下。あ、でも、洞窟に捕えてある華丹の高官三人の他に、気絶している鬼霊獣が牢にいるから処理しなくちゃ」
三人はあとひと踏ん張りと、洞窟へ向かった。
「ここだよ」
洞窟から漏れ出るのは蝋燭の灯りだけではないようだ。
「……血のにおいがする」
三人は急いで中へ入っていく。
「嘘……」
夏籥が高官達に駆け寄るも、彼らは喉を裂かれ息絶えていた。
「おそらく、睿松の手下か、もう一人の依頼主という奴だろう」
睿琰は悔しそうにこぶしを握り締める。
三人はやり切れない思いと共に、藍晶軍の元へと戻って行った。
集落はほぼ壊滅状態。
復興には年単位で時間がかかるだろう。
夏籥からもらった薬でわずかに体調を整えた煙紅は、瓦礫の陰にまだ生存者がいないかと、友人達と探し始めた。
「……誰ですか?」
気配がした。
しかし、そこには何もなく、ただ崩落しかけている壁に自分の影が映っているだけ。
「疲れているのかな……」
煙紅は溜息をつき、再び瓦礫の中を進んでいった。
兵士たちの甲冑が触れ合う音に交じって金属音がこだまする。
戦場だった場所では珍しくもない音。
そのため、誰も気付くことが出来なかった。
建物の陰に立つ女性が持つ剣に、場の怨念が黒い煙と成って吸われていくのを。