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第三集:悲嘆

 たどり着いたびょうには若い男女が多く参拝していた。

 三人も地面へ降り立つと、玄絹シュェンジュェンを外し、さっそく一般人が入場を許されている場所まで入っていく。

「霊力の無い人間にはわからないのだろう。誓いに来る者皆怨念を吸われている」

「わざわざ一途でいることを誓いに来るのは、どちらかがそうでない、または不貞行為があったから、ってことでしょうか」

「世も末だね」

 三人はさらに廟の内部へと進んでいく。

「ああ、あれが石蒜せきさん観音ね」

 二丈約六メートル六十センチほどの金色に輝く観音像が建っている。

 よく手入れが行き届いているようで、塵一つ見当たらない。

「観音様は通常中性的に造られるものだが……」

「明らかに女性的。それに、きっと造型の元になった人物がいる」

 それほどに、細かく造り込まれている。

 今にも話し出しそうなほどに。

 三人は顔を見合わせる。

「それがムー氏の息女か」

「恐らくは」

「じゃぁ、遺体は……」

 石蒜せきさん観音が座している台は柵で囲われており、その後ろには入れないようになっている。

 ただ、廟はまだ奥まで続いているようだ。

「夜中に来るしかないようだな」

「そうですね。僧侶の皆さんに顔を覚えられないうちに出ましょう」

 幸い、観光目的で来ているのだろう人々も多く、男三人で歩いていても怪しくない。

 三人は廟を後にした。

 そして、深夜。

「行くぞ」

 睿琰ルイイェンに続き、門が閉じている廟の壁を上り、中へと入って行った。

 入るとすぐに玄絹シュェンジュェンを被り、廟の奥へと進んでいく。

 すると、観音像の前に一人の女性が立っていた。

 気付かれはしないだろうが、三人は音を立てないよう注意して歩く。

「霊力を持った人間が来るなんて、そうそうないのよ」

 女性と目が合った。

「隠れたって無駄。私は怨霊なの。お三方、霊力の残滓ざんしが丸見えよ」

 煙紅イェンホンは二人に向かって首を振ると、玄絹シュェンジュェンを取り払い、首に巻いた。

「初めまして、ムー姑娘お嬢さん

 振り返った女性は黒髪を肩に垂らさないよう、綺麗に結い上げている。

 可憐な顔立ちだが、しっかりとした身体つきから武人であることがうかがえる。

 薄い紫色の深衣しんいがよく似合う。

リーって呼んでいいわよ。あら? 人間は一人しかいないのね」

 リーの言葉に、睿琰ルイイェンが二人を見た。

夏籥シァイャォ医仙いせんだと聞いていたが……、煙紅イェンホンも人間ではないのか」

「厳密に言えば、そうです。父が武神なので……」

「仲間に秘密を持つのは良くないわよ」

 リーの声が弾む。

「秘密というほどのことではない。銀耀ぎんよう江湖では詮索しないのが暗黙の了解。私達を離間りかんさせようとしても無駄だ」

「残念。友情って、あまり好きじゃないのよね」

 リーは観音像の手の部分まで浮遊すると、その上に座った。

「何をしに来たの?」

 睿琰ルイイェンが一歩前に出て答える。

禍珠かじゅを探しに来たのだ」

「ああ……。駄目よ」

睿犀ルイシーを生き返らせるためか」

 リーの髪がほどけ、逆立った。

「『殿下』をつけなさいよ。彼は皇長子こうちょうしなのよ」

「それは千年前のこと。今はただの怨霊です」

 煙紅イェンホンの言葉に、リーは余計に苛立った。

「私は未来の夫を、くだらない理由で奪われたの」

 リーの目が赤くなっていく。

「彼は皇太子に冊封されることが決まっていた。皇長子こうちょうしとして懸命に国の為を想い、戦地でも朝廷でも戦ってきたからよ。でも、悪意ある文官たちは言ったわ。『所詮は庶出しょしゅつ。嫡子である第三皇子の貴さには敵わない』と」

 彼女は唇を噛み、うつむいた。

「それに、私は一品軍侯の娘。身分は貴いけれど、それでも、第三皇子の妃には敵わない。第三皇子の妃は皇后陛下の兄君である宰相の娘。家柄が違いすぎる」

 リー氏は顔を上げ、拳を握り締めた。

「権力を欲する宰相と、その配下達はこう考えたの。『睿犀ルイシー殿下が皇太子に冊封される前に亡くなれば、東宮の主は嫡子である第三皇子のもの』と」

 視線が宙を浮き、リーの手が震えた。

「初めは名誉の戦死だと思った。でも、指揮官級の精鋭を三千人父が貸していたにもかかわらず、戻ってきたのは怪我で戦線離脱していた十人足らず。そんなのおかしいでしょう? 彼はいくつもの軍功を挙げ、国境軍からの指示も厚い武人なのよ?」

 声が震えている。

「父の様子も日に日におかしくなっていった。だから、私は問いただしたの。本当の事を」

 リーの頬に赤い涙が流れた。

「父は家を守るために誰にも言えなかったのよ。帰還した兵から真実を聞いていたのに……。睿犀ルイシー殿下が謀略によって殺されたことをね!」

 彼女の左胸のあたりに幻覚の血がにじむ。

「私に与えられた彼の遺品は小刀だけ。私はそれで彼の後を追った。彼のいない世で生きていける自信がなかったから」

 リーは自嘲するように声を漏らす。

「いいかしら。彼は千年の時を経て、忌々しい護国巫姫ごこくふきにえに魂を取り戻したの。我が家の家宝である禍珠かじゅがあれば、彼と私のはくを修復できる。つまり、この世に身体が戻ってくるの。そして、立派に復讐をやり遂げ、結婚するのよ」

 リーの台詞が、煙紅イェンホンに突き刺さった。

護国巫姫ごこくふきを……、贄に?」

「その通り。誰が手伝ったのかは知らないけれど、彼の魂を取り戻すために使われたのはあの女の身体。その時にはすでに死んでいたようだけれど、身体に宿る霊力で充分贄に出来たのよ」

 煙紅イェンホンの呼吸が荒くなる。

「どうしてそれを知っている」

 睿琰ルイイェンリーを睨みつけた。

「だって、千年も封じられていた魂を取り戻すにはそれ相応の力が必要になるのよ? だから、誰かが護国巫姫ごこくふきに宿る強力な封印の力を反転したとしか考えられない」

 煙紅イェンホンから出る白い息が濃くなっていく。

 それを見たリーは口元をほころばせながら言う。

「あなた……、黄泉戸喫よもつへぐいのろいかかっているのね。彼と同じだわ」

 睿琰ルイイェンの心臓が跳ねた。

黄泉戸喫よもつへぐい……、だと」

「そうよ。恐らく、食べ物か飲み物に黄泉の食材を混ぜられたのね。生きながらにそののろいに罹るのは珍しいわ。とても苦しいはずよ。よかったわね」

 リーは嬉しそうに微笑んだ。

 睿琰ルイイェンが青ざめた顔で煙紅イェンホンを見る。

 煙紅イェンホンは「その話はあとで。今はこの状況をどうにかしないといけません」と小さな声で言った。

「彼は死後そのちからを得た。だからこそ、偉大な存在でいられるの」

 リーは立ち上がると、三人を見下しながら言った。

「彼の復活を邪魔する奴は消す。今生からも、黄泉からも」

 リー石蒜せきさん観音の額から丸い水晶を取り出した。

「お探しの禍珠かじゅよ。あなた達をはくの材料にしてあげる」

 リー禍珠かじゅを宙に浮かべ、怨念を込めた。

 禍珠かじゅの中に黒いもやが現れ、それが周囲にも広がり始めた。

「さぁ、何からもらおうかしら」

 靄がまっすぐ煙紅イェンホン達に向かって飛んできた。

 睿琰ルイイェンの腕を掠める。

「くっ」

 鈍い声。

 靄が当たった個所の皮膚が擦り切れたように赤く血がにじんでいる。

夏籥シァイャォ

 煙紅イェンホンの声に、夏籥シァイャォはすぐに反応した。

天球円方陣てんきゅうえんほうじん

 球状の結界が夏籥シァイャォ睿琰ルイイェンを包む。

 煙紅イェンホンくうから紅鷹弓こうようきゅうを取り出すと、禍珠かじゅに向かって撃った。

「そんなもの……、きゃあ!」

 矢による突風が靄を散らし、禍珠かじゅにあたって耳障りな高音が響いた。

「な、何なの。何なのよ、その力は!」

 煙紅イェンホンは続けざまに二回矢を放った。

 禍珠かじゅはヒビ一つ入らない。

 しかし、リーの右腕を二か所撃ち抜いた。

「どうして⁉ なぜ私を攻撃できるの⁉」

 何かを思い出したように身体を震わせたリーは、瘴気が漏れる右腕を抑えながら、自身の後ろにある石蒜せきさん観音を見た。

 右腕が貫かれている。

「観音像のどこかにあなたの骨が納められているのでしょう。だからここから離れられない。だって、十年前に大好きな睿犀ルイシー殿下の魂が蘇ったのに、会いに行ってないなんておかしいですもんね?」

 それに、と、煙紅イェンホンは続ける。

禍珠かじゅがあるのにあなたははくを取り戻していない。まだ力が足りないのですね。あなたも、睿犀ルイシー殿下も」

 リーは怒り狂うと、黒い靄を大量に噴出した。

「うるさいうるさいうるさい!」

 靄が次々と放たれる。

 夏籥シァイャォが張っている結界に当たるたび火花が明滅するが、傷一つつかない。

 煙紅イェンホンは靄を避けながら矢を放ち、観音像を通してリーの身体を破壊していく。

「なんなのよ……。ひらひら飛び回って、目障りなのよ!」

 靄が煙紅イェンホンを縛り付けるように囲む。

「死ね」

 煙紅イェンホンを圧縮するように靄が固まった次の瞬間。

 中から何かが弾ける音がした。

 それは白い煙を発し、冷気を纏っている。

 黒い球体を剥がすように床に零れ落ちたのは、黒ずんだ氷だった。

「あなたの怨念など、私が罹患したのろいに比べたら可愛いものです」

 煙紅イェンホンの口から白い息が漏れる。

 先ほどまで持っていた紅鷹弓こうようきゅうはすでに手に無く、代わりに紅龍偃月刀こうりゅうえんげつとうが握られていた。

「そ、そんな……。嘘よ、嘘よ!」

 煙紅イェンホン紅龍偃月刀こうりゅうえんげつとうを構え跳び上がると、リーの横を通り、観音像の首を斬り落とした。

 断末魔がこだまする。

「あんたたちを呪ってやる! 禍珠かじゅは互いに求め合うのよ。それを欲しがる他の奴らに殺されてしまえばいい!」

 最期の高笑いが消えていく。

 観音像の首が落ち、金属特有の轟音が響く。

 切り口から何かが転がり出てきた。

「頭蓋骨、ですね」

 煙紅イェンホンはそれを紅龍偃月刀こうりゅうえんげつとうの穂先で砕いた。

 禍珠かじゅが床に落ち、甲高い音が鳴る。

「おかしい……」

 煙紅イェンホンは砕いた頭蓋骨を見つめながら、そこに何の鎖も無いことに疑問を覚えた。

 通常、地縛霊などの、『土地』や『物』に縛られている霊は、その身体か場、物に鎖がついているはず。

「もしかして、怨毒おんどくなのかも」

 煙紅イェンホンが呟いていると、背後から友人達の声が聞こえてきた。

「お疲れ様、煙紅イェンホン

「ありがとう、夏籥シァイャォ

 結界から二人が出て来る。

「難しい顔してどうしたの?」

「今戦っていたムー リーは、怨霊じゃなかったみたい」

「どういうことなんだ」

 睿琰ルイイェンが砕けた頭蓋骨を眺めながら問いかけた。

「頭蓋骨と怨霊を繋ぐ鎖が見えなかったんです。だから、あれは霊体ではなく、怨念の残滓……、怨毒おんどく幻化げんかしたものだったんです」

「それでは、ムー リーの霊魂は……」

「おそらく、もう輪廻の中にいるか、最悪の場合転生しているでしょう」

「そんな! 同じ魂を持った人間が生きているってこと?」

 夏籥シァイャォは口に手を当てて「やだぁ」と顔を顰めた。

「色々聞きたいことはあるが、まずは……」

 三人は床に転がる禍珠かじゅを見つめた。

 睿琰ルイイェンが代表してそれを持ち上げる。

「……禍珠かじゅには『参』と記されているぞ」

「じゃぁ、少なくともあと二つあるってこと?」

 三人は絶句した。

 こんなにも危険なものが他にも存在し、それがどこにあるのかもわからない。

「ひとまず、睿蘭ルイラン殿下へ報告しましょう」

「そうだな。兄上のところへ行こう」

 三人は廟から出ると、玄絹シュェンジュェンを纏って空へと飛びあがった。

 しかし、飛行を始めて三十分ほど経った頃、煙紅イェンホンが赤い氷煙ひょうえんを吐き出した。

煙紅イェンホン! 一度降りなきゃ」

 夏籥シァイャォに背負われている睿琰ルイイェン煙紅イェンホンの腕を掴んだ。

「下は……。樹火鬼じゅかき共の根城がある森だ」

「大丈夫。私の結界があれば守れるから」

 睿琰ルイイェン夏籥シァイャォの言葉にうなずき、三人はゆっくりと地上へ降りていった。

天球円方陣てんきゅうえんほうじん重陽華盾ちょうようかしゅん

 夏籥シァイャォは二重に結界を張り、煙紅イェンホンを寝かせた。

「だ、大丈夫だよ。さっき霊力を使いすぎただけだから」

「何度も言うけれど、体調に自信があって本当に大丈夫な人は吐血なんてしないんだよ」

「もっともだ」

 夏籥シァイャォ睿琰ルイイェンの哀し気な瞳。

 そんな目で見つめられてしまったら、煙紅イェンホンも無茶を言う気にはなれなかった。

「わかった。少し休ませてもら……」

 睿琰ルイイェンが二人の口元に手を翳した。

 小声で言う。

「見られている」

 その何かは、土を身体に塗りたくり、臭気を隠しているつもりだろうが、血の臭いが漂っている。

 多くは動物だが、わずかに混じるのは人間の血液のにおい。

樹火鬼じゅかきの巣に入ったか」

 睿琰ルイイェンの緊張が高まる。

 三人が警戒を強めると、低く、たどたどしいがしっかりとした声が聞こえてきた。

「誰だ、棲み処に、入り込んで、きたのは」

 三人は驚いた。

 薄暗い中、目を凝らす。

 体躯の大きな武将にも見えなくはないが、それは確かに人間ではなかった。

 ゆう樹火鬼じゅかきが人間の言葉を話している。

「我らは旅の者。傷ついた仲間を休ませ、ここを通り過ぎたいだけだ。戦う意思はない」

 睿琰ルイイェンが二人とゆう樹火鬼じゅかきの間に入り、言った。

「……人間と、人間ではない、者がいる」

「なぜ人間ではないと?」

 三人の鼓動が早くなる。

「……美味そうな匂いがしないから、二人は人間じゃない。人間なのは、お前、だけ」

 指をさされた睿琰ルイイェンは、剣に手をかけた。

「その通り。私は人間だ」

「では、食材にする」

「私は黙ってお前の食事になるつもりはない」 

 睨み合う。

「人間は鹿を殺す。熊を殺す。兎や豚、牛を殺し、食料にする。俺と同じ。だが、俺達は人間とは違って、必要なものを、必要な時に、必要な分だけしか、とっていないぞ」

「人間とは違って、とは?」

「人間は食べもしないのに、人間を襲う。人間は食べもしないのに、人間を殺す。それはおかしいことだ。間違っている」

 小型の五体のゆう樹火鬼じゅかきが木々の裏から姿を現した。

 月の光が彼らを照らす。

「それは……」

 三人は言葉を失くし、彼らの姿を見た。

 ゆう樹火鬼じゅかき達が身に着けている古ぼけた甲冑には、金霞きんか国の紋章がついている。

「俺達は、遥か昔、何百年も前、戦っていた。人間に調教されて、戦動物いくさどうぶつとして」

 数多の裂傷に皮膚の爛れ。

 それらは動物同士の争いではつくはずもない、戦争の傷。

「用済みになり、山に捨てられたところに、樹火鬼じゅかきの鬼火が、身体に入って来た。だから、人間の言葉わかる。そして、人間のおかしさも、知っている」

 ゆう樹火鬼じゅかきは恐怖と悲しさと怒りが混ざった瞳で月を見上げた。

「人間は、欲を満たすためだけに、殺す。それは、腹が空いたとかじゃなくて、殺意と優越感、支配欲、加虐心。俺が入っていた檻の隣には、捕まった人間が、たくさん押し込まれた檻があった。毎日請われた。特に、女たちから、『その爪で、殺してくれ』と。あれは、とても恐ろしかった」

 睿琰ルイイェンはいくつも浮かんでは消えていく言葉と怒りを飲み込んだ。

 人間について弁明する言葉は、すべて綺麗ごとに過ぎない。

「人間は、恐ろしい生き物だ。でも、食べれば美味い」

 ゆう樹火鬼じゅかきは自身の手のひらに視線を落とし、首を振った。

「俺は、女たちから、『岩流イェンリィゥ』と呼ばれていた。空に輝く星の名前だという。その名を呼ばれるたびに、恐怖は身体を駆け抜けていった。『岩流イェンリィゥ、殺しておくれ』『岩流イェンリィゥ、お願い。死なせて』と」

 「知っているか?」と岩流イェンリィゥ睿琰ルイイェンに尋ねた。

「人間は、共通の敵が好きだ。感情無く、攻撃しても、許されると、思うのだろう」

 岩流イェンリィゥは首についている大きな傷を見せてきた。

「ある日、偶然、夜に俺の檻が開いた。女たちは、檻の隙間に首を押し付け、『引き裂いて!』と懇願した。だから、そうした」

 その時、ちょうど見回りに来ていた兵士が入ってきて、岩流イェンリィゥは捕えられてしまったという。

「次の日には首を斬られ、この山に捨てられた。首を斬られる前に、たくさん刺されたり切られたりした。それも、隣の檻に入っていた人間たちに。俺は抵抗しなかった」

 岩流イェンリィゥを無力化した褒美に、隣の檻に入っていた人間たちは兵士たちからの扱いがよくなったらしい。

「俺は山に捨てられたおかげで、二度目の命を得た。今度は俺が仲間を護る。人間を共通の敵にして」

 岩流イェンリィゥの心は一度粉々になったのだろう。

 煙紅イェンホンは霧がかかったような意識の中で、やまいを封印しても救えなかった人々のことを思い出した。

 手から零れ落ちていく希望と期待。

 絶望が脳を支配する、あの冷たくて灼熱の感覚。

 溢れ出してくる涙が滑稽で、悲しむ自分が許せない、焦燥に襲われる瞬間。

 「どうして私はこんなにも役立たずなのだろう」と、両親の偉大さと自分の矮小さを比べて苦しむ感情。

 助けられる力があるのに、何故間に合わなかったのか、と、自分を責める。

 抜け出せない。逃げ出せない。見上げれば晴れ渡る空が羨ましくて恨めしくて辛い奈落の底。

 それを無理やり奮い立たせているから、求める姿しか見えなくなる。

 悲嘆に縋り、思い描く航路との相違点にまた苦しむ。

「あなたの言いたいことはわかります。でも、それを許すわけにはいかないんです」

 煙紅イェンホンは身体を起し、立ち上がる。

 口からは赤い氷煙ひょうえんが漏れている。

 岩流イェンリィゥは、煙紅イェンホンが纏う殺意を孕んだ悲しい雰囲気を感じ取り、落胆した。

「なぜ我々は人間と同じように生きられない?」

 悲哀を含んだ強い瞳。仲間を護りたいのだろう。

 だが、同情にほだされるわけにはいかない。

「あなたがたまたま人間に近い倫理観を身に着けているとして、それには何の力もありません」

「どうしてだ」

「殺意には、殺意しか返ってこないからです」

 煙紅イェンホンが結界から外に出た。

煙紅イェンホン! そんな身体じゃ……」

 夏籥シァイャォの叫びを、睿琰ルイイェンが遮った。

「結界を解いてくれ。彼らをここまで追い詰めてしまったのは私の祖先達。終わらせるには、私が戦わなければならない。でも、一人では無理だ。力を貸してくれないか」

 煙紅イェンホンが頷く。

「……仕方ないなぁ!」

 夏籥シァイャォは結界を解き、剛仙弓ごうせんきゅうを構えた。

「行くぞ」

 睿琰ルイイェンの合図とともに、煙紅イェンホン紅熊ノ剣こうゆうのつるぎを手にして前へ飛び出し、岩流イェンリィゥの顔を斬りつけた。

 低いうめき声が響く。

 後方へ宙返りすると、着地した勢いを使って再び岩流イェンリィゥの懐へと飛び込んだ。

 流石にまずいと察知したのか、岩流イェンリィゥは必死の抵抗で煙紅イェンホンの剣を右手の爪で弾いたが、その時、指が二本宙を舞った。

 あふれ出す血は腕を伝い、地面を濡らしていく。

 煙紅イェンホン岩流イェンリィゥの出血を確認すると、紅熊ノ剣こうゆうのつるぎの切っ先を握り、血を纏わせた。

 刃に赤い氷の結晶が現れる。

 岩流イェンリィゥが跳躍し、足の爪で切り裂こうと落下してきた。

 煙紅イェンホンはそれを左に避けると、落ちてきた岩流イェンリィゥの右腕を、凍った血の刃で縦に斬り裂いた。

 鈍い音を立てながら滴る大量の血液。

 岩流イェンリィゥから流れ出るはずの血液は内側へ向けて結晶化していき、終いには体内が凍り付き始めた。

「まだ、まだ戦え……、ぐっ」

 突如、岩流イェンリィゥは胸を押さえ、息も絶え絶えに苦しみだした。

「あっ、はぁっ、お、お前、な、何をした!」

「氷が血流にのって届いたんですね。心臓に」

 岩流イェンリィゥは目を白黒させ、その場に倒れた。

 彼の命も、思いも、野望も、すべて消え去った。

 残りの五体は睿琰ルイイェン夏籥シァイャォが華麗に片づけてくれたようだ。

「気を付けろ。まだあと一体気配がする」

 睿琰ルイイェンの言葉に、二人は警戒を強めた。

 その時だった。

 岩流イェンリィゥよりも少し小さなゆう樹火鬼じゅかきが現れたのは。

「……父の遺体は返していただきます」

 子供にしては大きい。

 青年期だろうか。

 先ほどのゆう樹火鬼じゅかき達よりもずっと人間に近い容姿をしている。

「父親を殺されて、我々に復讐しないのか」

 睿琰ルイイェンが聞いた。

「父とその側近を亡き者としたあなた達に、私が敵うとでも?」

 ゆう樹火鬼じゅかき岩流イェンリィゥの遺体に近づきながら、睿琰ルイイェンを睨みつけた。

「あえて出てこなかったんですね」

 煙紅イェンホンは胸を上下させるほど苦し気に呼吸をしながら尋ねた。

「ええ。父の死は無駄にはしません」

 話し方に淀みがない。人間の言葉を話しなれているのだろうか。

「言葉が流暢ですね」

「人間は食べる以外にも使い道があるでしょう?」

 捕えているのだろうか。それならば、見逃すわけにはいかない、と、煙紅イェンホンは構えた。

「あなたが想像しているようなことはしていません。習いに行っているのです。目の不自由なご婦人の元へ」

 三人はぞっとした。

 今目の前にいる樹火鬼じゅかきには、人間を騙すほどの知性があるようだ。

「名前を窺っても?」

「私の名は星幽シンヨウ。指名手配したところで無駄ですよ。今日中にここからはいなくなりますから」

 自信に満ちた笑顔が、恐怖をあおる。

「一つ聞きたいのですが」

 星幽シンヨウ岩流イェンリィゥの遺体を担ぎながら、ふっと笑った。

「何故その人間を差し出さなかったのです? そうすれば、人間ではないお二人は怪我を負うことなくここから出ることが出来ましたし、私の父も死なずに済んだ。綺麗に終われたでしょうに」

 空気が張りつめる。

 星幽シンヨウは普通の樹火鬼じゅかきとはどこか違う。

 瘴気ではなく、わずかながら霊力を保有しているのがわかる。

 武器を構えようとする二人を制し、煙紅イェンホンは一歩前に出て答える。

「綺麗な終わり方なんて、そうそうないんです。だからこの世には、傷つけあう道具や言葉があるのでしょう」

 力なく微笑む煙紅イェンホンの姿に、星幽シンヨウは冷笑した。

「では、私もその道具や言葉を身に着けて来ますね。今はまだ人間の時代。それを終わらせる力を持った甘露子かんろしは、私が先に見つけます。またご縁がありましたら、どこかで」

 星幽シンヨウの背がどんどん遠くなっていく。

「『甘露子かんろし』ってなんのこと?」

 夏籥シァイャォ煙紅イェンホンの身体を支えながら言った。

「わからない。『人間の時代』というのも『それを終わらせる力』というのも、さっぱりだ」

 睿琰ルイイェン星幽シンヨウが消えていった方角を睨みつけながら呟いた。

琉星りゅうせい羽林うりん宗主の元へ急ぎましょう。ここは悲しすぎます」

 煙紅イェンホンの身体からどんどん力が抜けていく。

 二人は頷いた。

 三人は玄絹シュェンジュェンを纏い、空へ。

 月灯りが眩しく、煙紅イェンホンの心を突き刺した。

 地上が見えなくなる。

 三人の目には、進むべき方角と互いのことしか映らない。

 だから気付けなかった。

 森の奥、一人の女性が隠れていることに。

 右腕をだらりと下げ、首から流れる血を左手で押さえている。

「やっと始まるのね……」

 女性が背負っている剣が小刻みに揺れる。

 まるで何かを食べているように。


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