春にしては気温が高く、雨の降る中、見目麗しい青年を先頭に、五人の男性が深い森の中を駆けていた。
その後ろには総勢三十体の鬼霊獣。
獰猛な動物の死体に鬼魄が憑りつき、僅かな知性を持った怪物だ。
多勢に無勢。
「寧燕様、このままでは追いつかれてしまいます」
男達の身体には複数の傷があり、血の臭いが漂う。
「わかっている。しかし、我々に残っている霊力は僅か……。戦闘になれば生き残れまい。私は誰も失うつもりはない」
こんな時、兄上ならばどうするだろう、と、寧燕と呼ばれた青年は考えた。
目じりに引かれた紅が焦りで流れる汗で滲んでいる。
刹那、深緑の閃光が奔った。
「ちょっとぉ、先に行かないでよ!」
「助けなきゃ!」
男達と鬼霊獣の間に入ったのは、二人の青年。
「夏籥、援護任せたよ」
「煙紅は私のこと便利で丈夫な……、いや、違う。美しく雅な素晴らしい盾だと思っているでしょう。まったく」
夏籥は男達に重陽華盾の結界を張り、剛仙弓を構えて守りの体勢に入った。
煙紅は空から紅熊ノ剣を取り出すと、鬼霊獣の群れへと向かって行く。
寒凍魄の呪が身体を蝕んでいるため、長い時間は戦えない。
しかし、煙紅は武神の子供。
短期決戦は得意中の得意だ。
次々と鬼霊獣の頭を斬り落としていく。
小隊のほとんどを倒したその時、人間の血の臭いに誘われたのか、大型の鬼霊獣が迫ってきた。
煙紅は立ち向かうも鬼霊獣の爪は鋭く、剣で受けるだけで腕が痺れる。
「私がいないと駄目だね、煙紅は」
夏籥の放った矢が鬼霊獣の額を撃ち抜く。
煙紅は、ふらつきながらも尚もこちらを捕食しようと近付いてくる鬼霊獣の真上に跳び上がり、そのまま体重をかけて首を斬り落とした。
「ふう、硬かった。ありがとう、夏籥」
「お安い御用だよ」
夏籥は可憐な微笑みを返すと、振り向き、結界を解いた。
「私は医仙です。皆さんの治療をしても?」
「あ、ああ。仲間から頼む」
男達は夏籥に促されるままその場に座り、大人しく手当てを受けることに。
男達から寧燕と呼ばれている青年は、剣を持ち周囲を警戒している煙紅を見つめた。
口から出ている白い息は、催花雨が降り注ぐ春には似合わない。
「確か、名前は煙紅……。まさか……」
青年の中に眠る記憶が頭を掠める。
幼い頃、兄に運ばれたどり着いた先で、朦朧とする意識の中、あたたかな手が自分の手を握ったことを覚えている。
真夏なのに寒くてたまらなかった身体は、その直後、熱を取り戻した。
そして横を見ると、白い息を吐きながら苦しむ少年がいて、こちらに向かって「助かってよかった……」と力なく微笑んでいる。
青年は立ち上がると、煙紅へ近付いて行った。
「お前は……」
煙紅が振り向く。
青年の目に映ったその美しい瞳は、あの時の少年と同じ。
「十年前、禪寓閣で私を救ってくれた……」
煙紅は青年を見て咳き込んだ。
「す、すまない。驚かせてしまったな」
夏籥の視線を感じた煙紅は、「大丈夫」と口を動かした。
「でも、そうだろう? 確か……、煙紅だったな」
煙紅はどう答えればいいか悩み、正直に話すことにした。
「おっしゃる通りです。では、あなたは簫 睿琰殿下なのですね」
煙紅は動揺を表に出さないよう、深呼吸をした。
会わなくて済むのなら、それが一番良いと願っていた相手が目の前にいる。
そんな煙紅の気持ちとは裏腹に、互いの姿を見えづらくしていた雨が止んだ。
「ああ、そうだ。銀耀江湖では聶 寧燕と名乗っている」
「何故銀耀江湖に?」
煙紅の問いに、睿琰は少し考えてから言う。
「颯嵐という名に心当たりは?」
煙紅は頷いた。
「聶 颯嵐は、銀耀江湖で小規模ながら精鋭の武人を率いている琉星羽林の宗主ですよね」
「そうだ。彼には別の顔がある。琉星羽林の宗主は私の兄、皇長子の睿蘭なのだ」
煙紅も、そのすぐ後ろで男達を治療している夏籥も、言葉を失うほど驚愕した。
「兄上は幼き頃より睿靖叔父上に憧れていらしてな。皇長子という身分を隠し、銀耀江湖で自分の勢力を築いていらっしゃるのだ。今では私もその勢力を形作る一武人として仲間に入れていただいている」
誇らしげに語る睿琰の姿に、煙紅は一つの疑問が浮かんだ。
「た、確か、睿琰殿下は……」
「ああ。一昨年、皇太子に冊封された。それでも、辞めるつもりはない」
睿琰は森の中を見渡しながら、拳を握り締めた。
「先ほど、何故銀耀江湖に、と尋ねたな」
「あ、ええ。はい」
「煙紅も聞いたことくらいはあるだろう。千年前に怨霊となった皇長子、睿犀について」
煙紅の心臓が跳ねた。
夏籥の心配そうな目が背中に刺さる。
「十年前に復活した睿犀は、自身を陥れた者達すべてを憎み、皇宮を標的として復讐を遂げる力をつけつつある。私は皇帝である父上と、怨霊を封印していた最中に命を落とした煌珠叔母上のために、睿犀をこの天下から滅したいのだ」
咳が出る。
それは次第に激しくなり、血が混じる。
赤い氷煙。
「煙紅!」
睿琰が慌てて煙紅の背を撫ぜる。
夏籥が空から何かを取り出しながら駆け寄ってきた。
「煙紅! 落ち着いて深呼吸するんだ。ほら、これを吸って」
渡されたのは薬湯が入った竹筒の水筒。
煙紅はゆっくりと湯気を吸い込み、肺を温めた。
「すまない。私の話のせいで……」
「い、いえ。違うのです……」
まさか睿琰の口から母の名前が出るとは思わず、煙紅の身体は激しい動揺に追い付かなかったのだ。
話を逸らさなければ。
煙紅は話題を変えようと、まだ白い息が出続ける中声を出した。
「殿下は霊力をお持ちなのですね」
「あ、ああ。銀耀江湖で修業を積んでいるからな。人間は本来皆が霊力の源を身体の中にもっていると教えてもらった。それを正しく鍛えれば、誰でも力を得ることが出来る、と」
「その通りです」
「煙紅はあの頃から力を持っていたのか」
他愛のない話をしようと思っていたのに、煙紅はどうやら墓穴を掘ったようだ。
「わ、私は禪寓閣の先代閣主に拾われた身。幼き頃より修練しておりましたので……」
苦し紛れの嘘でも、まったく真実が含まれていないわけではない。
「そう慌てなくてもよい。銀耀江湖では詮索しないのが暗黙の了解。私が間違っていた。すまない」
「いえいえ! そんな、大丈夫です。本当」
一国の皇太子に謝罪され、煙紅は吹き出る汗が氷の粒と成って肌の上を転がり落ちていくのを感じた。
「霊力を得たのは、それがどうしても必要だったからだ」
睿琰はまっすぐと二人を見つめ、懐から一枚の古ぼけた布を取り出した。
「これは睿犀の許嫁だった穆氏の遥か昔の邸宅跡から発見されたもの。二人は何か知っているだろうか」
そこには血文字で書かれた呪の言葉の他に、家宝のことが記されていた。
「禍珠……?」
夏籥は煙紅と睿琰を交互に見ながら小首をかしげた。
「私も知りません」
「そうか……。どうやら、睿犀の許嫁だった女子はこの家宝を使って奴を蘇らせようとしていたようなのだ。自分の命と引き換えに」
煙紅と夏籥は顔を見合わせた。
「どうやってそんなこと……」
「わからぬ。それを確かめるために、この禍珠とやらを探しているのだ。恐ろしい力をもった宝玉ならば、きっと鬼魄界と近しい場所にあるのではないかと思ってな」
「なるほど……」
煙紅が睿琰を見て頷いていると、夏籥が二人を見て言う。
「家宝ならば、この女子が大事に保管しているのかも。例えば、実家の墓地とかに。女子もさすがに亡くなっているでしょうから、抱きしめながら永久の眠りについているかもしれませんね」
可愛らしい少女のような笑み。
「それだ!」
睿琰と煙紅が同時に叫んだ。
「すごいよ、夏籥! 許嫁だった女の人が、いつか誰かが禍珠を見つけて睿犀のために尽力してくれるかも、と思ってもおかしくはないよね」
「まったくもってその通りだ。何故我らはそれに気付けなかったのか……。さすがは禪寓閣の門下生だ」
二人から褒められ、夏籥は得意げに微笑んだ。
「そうと決まれば、私達はここで失礼する。近いうちに禪寓閣へ礼をしに行く」
「あ、ちょっと……」
煙紅が口ごもる。
「どうした? 煙紅」
睿琰が仲間たちの元へ向かいながら聞いた。
夏籥は親友の表情を見て、溜息をついた。
そして代わりに口を開く。
「皆さんのことが心配なので、私達も同行したいのですがよろしいでしょうか、殿下」
煙紅は親友の発言に驚きつつ、笑みを浮かべた。
「うむ……。たしかに、それは有難いが……、いいのか?」
「もちろんです」
煙紅が頷いた。
「では、頼もう。私のことは寧燕と呼んでくれ。皇宮の者に露見すれば連れ戻されてしまう」
「かしこまりました」
「せっかくだから友達になりません?」
夏籥の言葉に、煙紅のみならず琉星羽林の者達も目を丸くした。
「それは嬉しい申し出だ。皇太子になると簡単に人を信じるわけにもいかず、友人をつくれなくてな……。煙紅、夏籥、今日から友人としてよろしく頼む」
「うん。仲良くしようね、寧燕」
煙紅は時々親友の行動力と度胸が恐ろしくなる。
「に、寧燕様」
「違うぞ、煙紅。友人なのだから敬称をつけるな」
「……寧燕」
「それでいい」
睿琰は、煙紅から見れば従兄弟にあたる。
皇帝とその弟である睿靖が、煌珠の秘密を守り続けている限り、その息子である煙紅の存在が明かされることはない。
そのため、睿琰に正体を伝えられるはずもなく、嘘をつき続けることになる。
煙紅は玄絹に触れ、心に切なさが積もった。
「では早速向かおう。……人数が多いと目立つな。お前たちは戻り、兄上に伝えてくれ」
睿琰は琉星羽林の仲間達にそう告げ、友人となった三人で行くことにした。
「穆氏は墓地ではなく、廟をもっている。なんでも、石蒜観音を祀っているらしい」
「石蒜観音? 初めて聞きました」
「私も良くは知らないのだが、公主達が言うところによると、『恋愛成就を願うのではなく、すでに恋仲にある二人が互いに一途であり続けることを誓いに行く』らしい」
「なんと言いますか……。恋愛とは難儀なものなのですね」
「私は素敵だと思うけれど」
夏籥は隣を歩く睿琰に「ね?」と同意を求めた
三人は会話をしつつ、目立たないよう森の中を進む。
「寧燕はいつも紅を引いているの?」
夏籥は睿琰の目元を見つめながら聞いた。
「琉星羽林の一員として動いているときだけ引いている。兄上に教えていただいたのだ。少し顔に手を加えるだけで、皇族だと気付かれにくくなる、と」
「へえ。可愛いね。とっても似合っているよ」
煙紅は親友の言動に動悸を感じながら先頭を歩いた。
(夏籥の度胸には恐れ入るよ……)
後ろを歩く二人は、端から見れば仲の良さそうなただの見目麗しい青年。
だが、片方は金霞国の皇太子で、もう一人は医神の息子。
友人達を振り返り溜息をついている煙紅も、武神の息子であり、亡き母は護国巫姫。
そんな不思議な三人組でも、これから行こうとしている場所へ入ることは容易ではない。
睿犀の許嫁の生家、穆氏は一品軍侯の爵位をもっており、現在も軍功を重ね、邸宅をさらに広い土地へと移しその地位と権力を保っている。
もし睿琰が身分を明かし皇太子だと告げたとしても、説明できる理由が無いのに侯爵の家や廟の立ち入り禁止区域に押し入ることは出来ない。
「寧燕、廟についたらどうなさるおつもりなのですか」
煙紅は前方を警戒しながら睿琰に尋ねた。
「忍び込むほかあるまい」
「煙紅の玄絹を使えば簡単じゃない?」
夏籥が微笑む。
「玄絹とは?」
睿琰の問いに、煙紅は首元からそれを外しながら答えた。
「これが玄絹です。産まれた時に、父と母からもらったもので、私の霊力に反応して様々な効力を発揮してくれるのです。例えば……」
煙紅は玄絹を頭からかぶり、二人の背後に回った。
「……煙紅? どこへ行った」
「ここです」
布をとり、姿を現した。
「なんと……。姿を消せるのか」
「これは姿を消しているのではなく、目立たなくしているのです。私をその辺に落ちている小石と同じ程度の存在感にしている、と言った方がわかりやすいでしょうか」
「なるほど……」
睿琰は玄絹に触れ、とても興味深そうに眺めている。
「だから飛んで行こう、二人とも」
夏籥が「その方が早いでしょう?」と、さも当然のことのように言った。
「でも、寧燕は……」
「霊力が芽生えているとはいえ、さすがに空は飛べないぞ」
「大丈夫。私達が飛べるから。ね、煙紅」
そう言うと、夏籥は睿琰の前面に回り込み、その身体を背負った。
「お、おい」
「煙紅は強いけれど身体はひ弱なの。だから私が背負うね」
夏籥は地面を蹴り、ふわりと浮かんだ。
「ほら、はやく」
煙紅は「わかったわかった」と浮かび上がり、自分達に玄絹を被せた。
「歩くと六時間以上かかるけれど、飛べば四十分ちょいで着くよ」
「そ、そうか。では、よろしく頼む」
三人は橙色になり始めた空を進む。
雨が洗った空気がとても清々しい。
煙紅の口から洩れる白い息が、雲のように流れていった。