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凍霧含紅
智郷めぐる
異世界ファンタジー戦記
2024年10月30日
公開日
25,482文字
連載中
 凍霧含紅(とうむがんこう)

 仙界と人間界の境にある銀耀江湖《ぎんようこうこ》において、最も歴史ある禪寓閣《ぜんぐうかく》では、多くの若者が修行を積み、持って生まれた力を磨いている。
 その中の一人、武神の息子である煙紅《イェンホン》は、十年前にある少年を救うために、特異で恐ろしい呪《のろい》を自身に封じた。
 呪による病《やまい》は煙紅の身体を蝕み、命を削っていく。
 そのため、多くの霊力を身体の維持に使わなくてはならず、武神の息子でありながら虚弱体質になってしまった。
 そんな煙紅を支えるのは医神の息子、夏籥《シァイャォ》。
 可憐な笑みと容赦のない医術で有無を言わせず治療を施す夏籥は、親友である煙紅の病を治せないことを気にしつつ、彼が無茶をしないよう何かにつけて行動を共にしている。
 そんなある日、鬼霊獣《きれいじゅう》の一団に襲われている青年達を救った二人。
 彼らは銀耀江湖に属する、人間だけで構成された一家の者達だった。
 夏籥が怪我を治療している中で、若者の一人が煙紅の口から漏れ出る氷煙《ひょうえん》を見て言った。
「十年前、禪寓閣で私を救ってくれた……」
 煙紅は青年の顔を見て、動揺した。
 目の前にいるのは、十年前煙紅が救った金霞《きんか》国の皇太子である、簫《シァォ》 睿琰《ルイイェン》だったのだ。
 睿琰は十八年前に蘇った怨霊を封印するために銀耀江湖で修業を積んでいると言う。
 怨霊のせいで出現し続ける鬼霊獣による被害も食い止めなければならない。
 煙紅と夏籥は協力を申し出た。
 なぜなら怨霊の封印は、煙紅にとって亡き母の仕事を引き継ぎやり遂げることに他ならないからだ。
 三人は共に行動を始める。
 天下に平和を取り戻し、大切な人々を守るために。

第一集:白、赤、青

 桃の花咲く穏やかな春の日。

 鳥たちが舞う先にあるのは、滝が流れる岩肌に聳え立つ荘厳な楼閣。

 そんな静謐な雰囲気が漂う禪寓閣ぜんぐうかくの薬房に、二人の青年の声が響く。

 年の頃は少年期と青年期の過渡期、十七歳といったところ。

煙紅イェンホン、またその深緑色の深衣しんいで出掛けたの? 他に持っていないの?」

「いいの。気に入っているの。夏籥シァイャォだっていつも同じ水色の校服こうふくじゃない」

 煙紅イェンホンに言い返された夏籥シァイャォは、その可憐な顔で不服を表現しながら言う。

「あたりまえでしょ? 私はここの医仙いせんなんだから。それに、お出かけ用の深衣しんいは可愛い色味のをいっぱい持っているんだから」

「はいはい、そうだね」

 煙紅イェンホンは端正な顔立ちで呆れたたように微笑んだ。

 刹那、夏籥シァイャォの顔が曇る。

「……またやったんだね。氷煙ひょうえんが濃い」

 夏籥シァイャォは親友の口から漏れ出る季節外れの白い息を見て顔を顰めた。

 身体にも倦怠感が伺える。

「大丈夫だよ。少しだけだから」

 首元に巻き付いている黒い布が、体調不良の煙紅イェンホンの身体を包み、まるで守っているよう。

「あのさぁ、何度言ったらわかってくれるの?」

 夏籥シァイャォの責めるような眼差しが、煙紅イェンホンの苦笑いに突き刺さる。

 治療のために、と、腕を掴まれたため、逃れられない。

「だ、だって、私なら助けられるし、それに……」

「何」

夏籥シァイャォが治してくれるでしょう?」

 夏籥シァイャォはわざとらしく大きなため息をつきながら「頼られるのは嬉しいけれど、親友が傷ついて帰ってくるのは喜べないんだよ」と言い、煙紅イェンホンの腕に咲くやまいの花を消していった。

「いつもありがとう」

 煙紅イェンホンの言葉に、夏籥シァイャォは目を伏せながら「はいはい」と呟いた。

 そこへ、水色の深衣しんいがよく似合っている美しく雅な男性が現れた。

「お、またやまいをもらって帰ってきたのか」

素采スーツァイ閣主かくしゅ! そうですよ。今回も鬼魄きはく界由来のやまいです。もう、煙紅イェンホンに何とか言ってやってください」

「無駄だろうなぁ。輝露フゥイロウが言っても無理なのだから」

 素采スーツァイが腕を組みながら二人の青年を眺めていると、同じ水色の深衣しんいを纏った端正な顔立ちの清楚な男性がやってきた。

「呼びましたか」

輝露フゥイロウ、お前の甥がまた大病を持って帰ってきたぞ」

 輝露フゥイロウは溜息をつくと、煙紅イェンホンに困ったような笑みを向けた。

夏籥シァイャォの医術の腕は私も信じています。ですが、いくら医仙いせんとはいえ、万能ではないのですよ。わかっていますか、煙紅イェンホン

 夏籥シァイャォは治療を続けながら激しく頷いている。

「わかっています、睿靖ルイジン伯父上」

 煙紅イェンホンは心配そうにこちらを見つめる大事な人達を見渡し、頷いた。

「そもそも、その力はこういうことに使うものではないからな」

 素采スーツァイ煙紅イェンホンの腕に咲くやまいの花を見ながら言った。

 煙紅イェンホンは自身の腕から消えていく花々を見つめ、白い息を吐く。

 煙紅イェンホンやまいを持ち帰った力は、亡き母から煙紅イェンホンが受け継いだ特別なもの。

 それは強力な封印の力。

 その力は武神である父親から受け継いだ膨大な霊力と結びつき、自由自在に操ることが出来る。

 煙紅イェンホンは封印の力を使い、重病人からやまいを吸い出し、それを自分の腕に封印しているのだ。

 従兄弟であり親友の医仙いせん夏籥シァイャォが治してくれる前提で。

「それもそうだし、煙紅イェンホンは忘れているんですよ。自分が病人だってこと」

 夏籥シァイャォが哀しそうな目で煙紅イェンホンを見つめる。

「十年前、寒凍魄かんとうはくのろいなんて引き受けるから……」

「自分で決めたことだから」

 煙紅イェンホンは微笑む。

 夏籥シァイャォは、親友の腕から手を放した。

「今回もらってきたやまいは消えたよ。でも、一番治したいやまいを治してあげられない私の気持ち、少しはわかってよね」

 煙紅イェンホンは親友の今にも泣きそうな笑みに、胸が痛んだ。

 十年前、煙紅イェンホンは一人の少年を救った。

 仙界と人間界の境にある禪寓閣ぜんぐうかくには、夏籥シァイャォのように修業中の医仙いせんや医術師、薬術やくじゅつ師が大勢在籍している。

 その日、高貴な身分の少年は僅かな希望を携え、「弟を救ってください」と門をたたいた。

 凶悪なのろいに侵された瀕死の少年。

 口から吐く息は白く、身体は氷のように冷たい。

 のろいはあまりに頑強で、解くことは出来なかった。

 霊力も何もない人間では、あと数時間で命を落とす。

 そこで、煙紅イェンホンは自ら名乗り出たのだ。

 「私なら、救える」と。

 煙紅イェンホンは少年と手をつなぎ、寒凍魄かんとうはくのろいを自分へ移すと、それをそのまま体内に封印した。

 咳が出る。

 血が混じるも、すぐに凍り、赤い氷煙ひょうえんとなる。

 頭も痛い。それも、破裂しそうなほど。

 肺には息を吸うたびに針を飲み込んだような激痛が奔る。

 「霊力を使って自分を守るのだ、煙紅イェンホン紅霧ホンウー様の玄絹シュェンジュェンが力を貸してくださる」と、先代閣主かくしゅの声が耳に響く。

 煙紅イェンホンはすぐに霊力を首に巻いた黒い絹と身体中に巡らせ、のろいの効力を抑え込んだ。

 自分が助けた少年を見る。

 顔色が戻り、呼吸も安定しているようだ。

 安心した煙紅イェンホンは、泣きじゃくる親友や動揺している伯父達に見守られながら意識を手放した。

「あの時は心配かけて本当に悪かったと思っているよ。気を付ける。もっと自分を大事にするって約束するから、そんなに悲しそうな顔をしないで」

 煙紅イェンホン夏籥シァイャォの手をとり、微笑んだ。

「まったく。毎回そうやって誤魔化すんだから。いつか殴ってやる」

「手合わせで何度も斬りかかって来ているでしょう」

「あれは剣術の修練だから関係ないもん」

「ああ、そう……」

 二人は顔を見合わせ、笑いあった。

「仲が良いことは素晴らしいことです。では、私は書房に居ますから。出掛ける時は一声かけてくださいね、煙紅イェンホン

「わかりました」

夏籥シァイャォは私と新薬開発の続きだ。その内、お前を実験台にしてやるからな、煙紅イェンホン

「はいはい、どうぞご自由に」

 煙紅イェンホンは三人に作揖さくゆうし、薬房を後にした。

 もらってきたやまいが多すぎたのか、肺の空気がまだ冷たい。

 白い息を切らしながら、屋根まで飛んで行く。

「部屋の中で火鉢を焚くよりも、陽の光を浴びるのが一番。ね、玄絹シュェンジュェン

 煙紅イェンホンは屋根に腰かけ、縁側で昼寝をする猫のように陽射しを堪能した。

 首に巻いている黒い絹、玄絹シュェンジュェンは風に乗ってふわりと揺れ、まるで喜んでいるようだった。


☆★☆★☆


 千年前のこと。

 金霞きんか国には武勇に優れた皇長子こうちょうしがいた。

 挙げた武功は数知れず。

辺境の兵達からも信頼され、皇太子に冊封されることが期待されていた、まさに傑物。

 その立ち居振る舞いは美しく、才色兼備。

 幼馴染で許嫁の女子おなごは見目麗しく、父親が一品軍侯というだけあって、皇長子こうちょうしともとても話が合った。

 太陽の光も、月の光も、星々の光も、そのすべてが皇長子こうちょうしを照らしていた。

 皇帝もそんな息子を心から愛し、信頼していたため、常に目をかけ慈しんだ。

 そして、ついに皇太子へと冊封されることが決まり、儀式の日程も占われていた頃。

 北の国境線で不穏な動きを察知した兵部尚書が皇帝へと奏上した。

 「このままでは、異民族に北の要所である城が落とされてしまいます」と。

 これを皇帝の側で聞いていた皇長子こうちょうしは、「私にお任せください」と言い、父の前に跪いた。

 皇帝は「冊封を控えているのに、危険な戦地に送ることなど出来ぬ」と慌てた様子で言うも、皇長子こうちょうしの決意は固かった。

 「例え私が皇太子に成ったとしても、異民族による侵略行為で傷つき悲しむ民がいては、本末転倒。我々皇族は、民を守ることこそが本来のあるべき姿です、父上」と。

 皇帝は愛する息子の出兵を許可するしかなかった。

 窮地にある北の地において、その士気を上げることが出来るのは、皇長子こうちょうししかいないからだ。

 皇長子こうちょうしは数々の戦場を共に駆けてきた仲間たちに告げた。

 「過酷な戦いとなるだろう。それでも、私はお前たちを信じている。共に金霞きんか国に勝利をもたらそう」と。

 北の国境線へ到着した皇長子こうちょうしは、すでに戦場に身を投じていた国境軍を鼓舞し、十万の兵を率いて戦いに挑んだ。

 それはとてつもない悪戦であった。

 異民族を三人葬ったと思えば、皇長子こうちょうしの軍では一人命を落とす。

 このままでは、例え勝ったとしても多くの仲間を失うことになる。

 そうすれば、北の国境線は不安定なまま冬を越すことに。

 皇長子こうちょうしは兵士たちに言った。

 「火攻めを行うのだ!」と。

 敵の本陣に向かい、皇長子こうちょうしを先頭とした少数の騎馬隊が駆け抜け、油を蒔いた。

 そこへ、一斉に火矢を放つ。

 それは風に乗って敵軍に広がり、戦場は阿鼻叫喚となった。

 何時間経っただろうか。

 大量の焼死体が転がる惨状の中、皇長子こうちょうしは敵将の首を掲げて戻ってきた。

 歓声が上がる。

 しかし、それもつかの間、疲弊しきった皇長子こうちょうし達目掛けて火矢が飛んできた。

 雨のように降り注ぐ火矢が油壷に引火する。

 「何者だ!」と皇長子こうちょうしが叫び、火矢の軌道の先を睨みつけると、それは自分と同じ旗を掲げた金霞きんか国の軍だった。

 「ど、どうして……」という皇長子こうちょうしの声は燃え盛る炎の音に消え、彼の命もまた、その憎悪の業火に焼かれて命を落とした。

 半日後、援軍として向かったという兵からの報告が入る。

 「激戦の末、異民族を退けたものの、すでに皇長子こうちょうしは亡くなっていた」と。

 皇帝は皇長子こうちょうしの死と、戦場の悲惨さを聞き、胸を押さえて倒れ込んだ。

 体調が不安定となった皇帝は、自身の命と国の行く末を案じ、皇后に言われるがまま嫡子である第三皇子を皇太子に冊封した。

 それは皇后の兄である宰相がずっと願っていた結末だった。

 「異民族の族長には慰霊の品を送っておけ。協力への礼金もな」と、宰相は侍従に指示した。

 その後、皇太子には宰相の娘が嫁ぎ、血筋が持つ権力が盤石なものとなった宰相は、皇帝が崩御した後、ますますその地位を固め、権勢を振るっていった。

 皇太子が皇帝に即位して三年後、それは突如として現れた。

 始めは官僚達の家。

 台所や燭台、灯篭につける火がすべて青くなったのだ。

 その後、それは民へも広がり、最後には皇宮の火も全てが青くなった。

 最初の青い火が観測されてから一月後、官僚が次々と死んでいった。

 死因はそれぞれ異なり、焼死、病死、中毒死、窒息死、など。

 遺体の周囲に火の気は無く、ただ一様に身体の一部が炭化していた。

 流行病にも似たその現象は、民を脅かし、やがて皇宮、後宮までをも飲み込んでいった。

 「こ、これは皇長子こうちょうし……、睿犀ルイシー殿下の祟りだ!」と、怯えた宰相はすぐにびょうを建設させた。

 廟はその名前が決まる前から何人もの巫女が送り込まれ、睿犀ルイシーの怨念を鎮めるために昼夜問わず祈祷が続けられた。

 その甲斐あってか、廟が建立されてから二十年後、青い火は金霞きんか国から消えていた。

 しかし、その間に失った巫女の命は数百にのぼり、皇宮は非難を浴びることに。

 宰相は怒りと恐怖で心を病み、数十冊もの邪術の本を読み漁った。

 そして、その中に恐ろしくも金霞きんか国皇宮を救う術を見つけ出した。

 「陛下、公主も含めた陛下の皇統にある女子おなごを九十九人、生贄に捧げるのです。上手く事が運べば、百人目に護国巫姫ごこくふきと呼ばれる強大な霊力を有した女子おなごが産まれて来るそうです。そうすれば、睿犀ルイシー殿下の怨念はその者だけで抑えることが出来ましょう」と、奏上した。

 皇帝は弱々しい声で「だが、その次の治世、さらに先の治世が脅かされるのならば、意味がないではないか」と呟く。

 宰相は目を見開き、「護国巫姫ごこくふきは皇帝と対を成す存在として、今後も生まれ続けるそうですよ」と耳打ちした。

 「では、これから生まれて来るであろう護国巫姫ごこくふきは朕の姉妹ではなく……」という皇帝の問いに、宰相は平伏しながら答えた。

 「巫女が産まれ次第、親王のうちどなたかを皇太子に冊封し、時を見て即位していただくしかございませぬ」と。

 皇帝は青ざめた顔で頷くと、すぐに自身の皇統の女子おなごを皇宮へ集めさせた。

 そして新月で互いの顔すら見えない夜の内に、金霞きんか国南方の緋灯ひとう山にある、星神を祀っている緋天廟ひてんびょうへと連れて行った。

 道士が「災異宿曜神さいいすくようしんよ。我らの願いを掬い上げ給え」と唱えると、赤く光る星が地上へと落下し、人の姿と成った。

 「私は災厄と僥倖ぎょうこうを司る星神。それを知ってここへ来たのか。生贄を捧げ、特別な子供を得ようと……。なんと愚かな」と、深紅の深衣しんいを身に纏った男性が言った。

 「これしか方法はないのです」と、同行した宰相が縋る。

 「そのごうを九十九人の乙女を代償に、たった一人の少女に背負わせようとするとは」と、災異宿曜神さいいすくようしんは嘲笑した。

 「どう思われようとも、こうするしかないのです」と平伏する男達。

 「……いいだろう。護国巫姫ごこくふきの誕生は私からの祝福である。永い時を経て、いつかそれがのろいだということに気付く賢い乙女が産まれてこよう。そうなれば、この契約も終わり、金霞きんか国は再び青き炎の餌食となるだろう」と言うと、災異宿曜神さいいすくようしんは九十九人の乙女から命を吸い取った。

 「十か月後の未明に産まれてくる女子おなご護国巫姫ごこくふきの力を持っている」と告げ、「せいぜい生きながらえるのだな。愚かな種族よ」と嗤うと、災異宿曜神さいいすくようしんは天へと戻って行った。

 十か月後、産まれてきた赤子は真珠のように美しく、そして強い封印の力を持っていた。

 それから千年後。

 災異宿曜神さいいすくようしんが予言した通り、祝福がのろいだということに気付く賢い乙女が産まれてきた。

 その女子おなごは自身に宿る力を疑問に思い、禪寓閣ぜんぐうかくへ修行に出ていた兄を頼り、調べることにした。

 しかし、どの時代の公主も「与えられた力を行使し、務めを果たす」としか記しておらず、何もわからなかった。

 「怨霊を鎮めるだけでは、何の解決にもならないのに」と、煌珠ファンジュ公主は頭を抱えた。

 そんな時、彼女は出会ったのだ。

 千年前の契約を知る、災異宿曜神さいいすくようしんの息子である武神、紅霧ホンウーに。

 二人は互いの運命を調べるうちに心を通わせるようになり、それはやがて愛と成っていった。

 幸せな日々。

 でも、終わりは突然訪れた。

 雨が降っている。

 土の匂いを巻き上げるように打ちつける雫は霧となり、空気と共に風にまとわりつく。

 禮犀廟れいさいびょうから漂う香の煙は重くゆらめき、霖雨の音に溶けて消える。

 まるで、頬を流れ落ちる決意の涙のように。

「我が愛しき妹、煌珠ファンジュよ……。せめて、そなたに芽吹いた命は私が護ろう」

 水色の衣に身を包んだ睿靖ルイジンは、廟内の祭壇の上で泣き叫ぶ、黒い絹に包まれた落胤らくいんをそっと抱き上げると、女官たちに見つからないうちにその場を去った。

 数時間の後、煌珠ファンジュの姉である棠梨タンリー長公主が護国巫姫ごこくふきの変わり果てた姿を見つけ、禮犀廟れいさいびょうは騒然となった。

 その一報はすぐに皇宮に伝わり、睿瓏ルイロンは身体の中で心臓が強く鳴り響くのを感じた。

 妹が自らの手でこの世に別れを告げてしまった悲しみと、皇帝と対となる影巫女かげみこを失った焦燥で。

 金霞きんか国を襲った悲劇は、漆黒の絹のようにのろいとなって遥か彼方の空まで覆い、人々を恐怖と哀惜で満たした。

「陛下! このままでは金霞きんか国のみならず、近隣諸国にまで害が及んでしまいます。早急に、繋ぎとなる巫女を選びませんと……」

 朝廷に集まった文武百官たちは、暗雲に包まれた空を見て怯えた表情を浮かべている。

「わかっておる。九天玄女きゅうてんげんにょびょうから三人、巫女を借り受けよ。今すぐに」

 睿瓏ルイロンは震える手で筆を持ち、錦の巻物を広げて勅旨ちょくしをしたため、左丞相さじょうそうに手渡した。

「かしこまりました。手配いたします」

 左丞相は巻物を桐の箱に入れると、蝋で封をし、睿瓏ルイロンから借り受けた玉印ぎょくいんを押した。

 普段ならばいくつもの段階を踏んで清書を行ってから太監たいかんが持っていくそれを持ち、左丞相は数人の護衛を伴って皇宮を後にする。

 護国巫姫の自害という異常事態。

 それも、清き乙女でいなければならないはずの身体に宿してしまった命を隠し続けて。

煌珠ファンジュ……、本当なのか? 本当に……、本当に妊娠していたのか……?」

 むなしく輝く玉座で呟いた言葉は、幸い、誰の耳にも届かなかった。

 護国巫姫に選ばれるほどの高い霊力を持った巫女は、通常懐妊することはない。

 例え男性と通じてしまったとしても、種が霊力に耐えられず、死滅してしまうからだ。

 睿瓏ルイロンは口を手で覆い、その上を一筋の涙が零れ落ちた。

 それから幾度かの季節を経て七年後、皮肉にも良く晴れた春の日。

 影巫女である護国巫姫の代わりとして禮犀廟れいさいびょうで務めを果たしていた三人の巫女たちの霊力が尽きてしまった。

 新たな巫女を募ったが、護国に値する霊力を持つ者は一向に見つからず、時間は無情にも過ぎ去り、その瞬間が訪れた。

 穏やかだった夏の夕刻。

 涼やかな風が、突如として灼熱に変化した。

「ああ……、なんてこと……」

 禮犀廟れいさいびょうの奥宮が青い炎に包まれ、稲妻のように天を穿うがち、一際大きな炎が四方に広がりながら空を焦がしていった。

 避難した女官たちは嘆き、その場に崩れ落ちて顔を覆う。

金陽きんようを、金霞きんか国を護ってきた結界が崩れていく……」

「誰かが……、誰かが七年前に封印を解いていたのよ! でも、いったいどうやって、何を贄にして……」

「そんなに多くの贄が廟内に運び込まれていたのなら、私たちが気付いていたはずよ!」

「でも、ほら……。あの炎は……」

 青い炎は突風に巻き付くように一か所に集まると、皇宮の上空へと移り、形を表した。

 炎は黒さを増し、紺碧の闇に代わる。

 人型へと変化したそれは、頭に漆黒の角、口には黒い牙とともに蒼焔そうえんを吐き出した。

「封印されること千余年……。ようやく、ようやく憎き皇統を根絶やしにする機会を得た。震えて待つがいい。私の怒りが大地を焦がし、天を引き裂き、その命を奪い砕くのを!」

 この日より、金霞きんか国の首都金陽きんようのみならず、近隣の国々をあらゆる妖魔、幽鬼、悪霊が襲来するようになった。

 人間界と鬼魄きはく界を繋げる門がすべて開いてしまったためだ。

 世界は混沌で満たされ、恒久の平和を願う祈りは砂と消え去った。


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