歩は強く願う。あたりまえの、唯一の願いを言えば、夕羅が着物の袖口を口元にあてがいくすくす笑う。
「帰れないのに」
緋葉は鋭い目付きで夕羅を睨んだ。
「夕羅」
「だってそうでしょう? 緋葉が調べて、確信できる事実を手に入れたというのに」
「……ちょっと席を外してくれ」
「いいわ、緋葉がわたしから離れていかないのなら」
「……」
緋葉の唇に口づけをする。元から何もなかったように、夕羅の姿は目の前から消えた。甘い執着を残して。――悪夢から覚めても。まだこの、悪い夢は続いている。
「……お前、名前は?」
「歩」
「歩か――いい名前だな」
「……あ、ありがとう」
“帰れないのに”
そう言った夕羅の言葉が、頭の中から離れなかった。
あれはどういう意味なのだろう…………?