チハヤだ。黒い燕尾服に身を包んだチハヤが、間違いなく私の目の前にいる。
「チハヤ……お前っ!! ──遅いよ……」
「ええ。村長の依頼の品がなかなか見つからなかったもので。それに、サラ様の居場所を特定するのも大変でした」
チハヤは、私の顔にそっと手を触れた。
「声は聞こえていました。応答できずにすみません。一度ギルドへ向かい、それから飛んできたものですから。……しかし、このケガ……」
チハヤの柔らかな手がエルサさんが巻いてくれた頭の包帯に触れる。ズキッという痛みが、また響いた。
チハヤの漆黒の瞳はいつになく真剣で。どこか怒りを帯びているようにも見えた。……気のせいかもしれないけど。
「申し訳ありません。すぐに駆けつけられなかったがために、ケガを負わせることになってしまうとは。ケガを負わせたのは──今、グレースを人質に取っているあの男ですね」
はっ! そうだ、ボーっとしてる場合じゃない!!
「チハヤ! グレースもそうだけど、エルサさんが大変なんだ!! なんか輩に襲われててぇえええええええ!?」
なんかしらないけど、エルサさんが目にも止まらぬ速さで下品な笑い方をしていた太っちょ男を翻弄している……!!
「急になにが!? もしかして、覚醒した!?」
エルサさんに剣を渡したおっちゃんも才能を認めてたみたいだし、エルサさんもまんざらでもなかったし、やっぱり毎日人の髪を切ってるから、剣との相性がめちゃくちゃよかったとか!?
「いえ、身体能力強化の魔法をかけました。いわゆるバフですね」
「バフってなんだよ!? パフなら知ってるけど」
化粧品だ。
「あぁ~まあ、本来の力をさらにパワーアップさせる魔法ですね。少々、強すぎたようですが。あの輩はエルサさんで十分でしょう。私は、残りの2人をやります。特にサラ様に傷をつけた者は許すわけにはいかない」
そう聞きようによってはカッコいいセリフを吐くと、チハヤは飛んだ。文字通り
「……ってちょっと!!!!」
チハヤはいい! 強いのは昨日の戦いでわかったから!! それより、エルサさんが心配なんですけど!!!
視線を目の前のエルサさんに戻せば、相変わらずの超スピードで相手を混乱させている。
「くっ! 急に動きが速くなったと思えば!! このアマ!!!」
元々荒っぽい口調がさらに荒くなり、焦っていることは私でも手に取るようにわかる。だって、ぶんぶん振り回している棍棒が全くかすりもしないんだもん。
とはいえ、エルサさんも攻撃できていない。よくよく目をかっぴらいてよく見れば、ただただ相手の周りを走り回っているだけで剣で攻撃することはできないようだ。
やっぱり、優しすぎるから!! こんな典型的なクズみたいな輩にも剣を振り下ろせないのかもしれない。
「くそっ!! ちょこまかと!! こうなったら!!!」
太っちょ男がぎろりと私の方を見た。……あっ、まずいこれは! まずはお前から的な──。
「まずはお前からだ!!」
やっぱりー!! そのまんまじゃねえか!!!!
突っ込んでる場合じゃあない!! 逃げないとっ!!!
「! サラちゃんには攻撃させない!!」
太っちょ男の後ろでエルサさんの足が止まった。がら空きの隙ありだらけの背中に向かって、エルサさんは思いっきり剣を振り下ろす。
「いけーー!!!!! エルサ!!!!」
えぇ!? 突然の声にびっくりして上空を見上げれば、クリスさんが崖の上から飛び降りてきた。その掛け声に合わせるように、エルサさんは目を瞑りながらも剣を振った。
ドッ!! ドガ、ドドドドド、ドーン!!
「……はっ?」
と言わざるを得ない。男は、体が斬られたとかそういうレベルの話ではなくて、岩壁に突き飛ばされて激突していた。ちょうど、クリスさんが降りてきた崖の壁だ。
『少々強すぎたようですが』とか言ってなかったかあいつ! そんな、少々どころじゃねぇだろ!!
「やったー!!!!!!」
でも、エルサさんはうれしそうにピョンピョンと砂浜の上を飛び跳ねている。突き飛ばしたはずの剣には血が一つもついていない。つまりは、あまりの衝撃により、斬ったのではなくやはり突き飛ばしたということなのかもしれないけど。
考察は後だ。
「エルサさん、クリスさん! グレースを助けないと!!」
「うん!」「わかってるって!!」
私たちは急いで先に飛んでいったチハヤの後を追う。しかし、すでにチハヤは敵と交戦中だった。
チハヤはちらりと目だけを動かして、私が来たことを確認する。
「そちらも片付いたようですね。それでは、こちらも──」
「待ってよ。動かないでもらえるかな。この子に傷をつけたくなければ」
船を運んでいた一人は、チハヤの攻撃を受けたのかもう砂浜にダウンしていた。問題は、ずっとグレースを人質に取っているこの優男風の男。
こいつ……チハヤだけじゃなくて、私たちもいるのに全然動揺していない。なんか他の2人と違ってこういうことに手慣れている気がする。町で私に話しかけてきたのもこいつだったし、主犯格はこいつなのか?
「チッ。なんて卑怯な……!!!」
クリスさんが怒りをあらわにしているけど、行動はできないでいる。エルサさんも同様に剣を握って入るけど、動けないでいた。
「そうだよ。卑怯でけっこう。強さなんて関係ない。結局最後は逃げればいいんだ」
うすら笑いを浮かべる男の腕に囚われたままのグレースは、助けを求める目でチハヤを見つめていた。
この状況でなにかできるとしたら、悔しいけどチハヤしかいない。……だけどチハヤ、どうするんだ?
静寂が支配し、さざ波だけが聞こえる砂浜の上をチハヤの足が一歩進んだ。
「おっと、聞いてなかったのかな? 動くなと言ったんだ。それ以上近づいたら、本当にこの子を傷つけることになるよ」
「そうだよ、チハヤ! お前、なにを考えて──」
「手数は無数にあるが、選択肢はいくつかしかない」
低いチハヤの声が、空気を震わせた。
「なにを言っているんだ? 僕は動くなって──」
また一歩チハヤの足が進む。
「チハヤ!!」
「大丈夫です。サラ様。本気であるならばとっくに刺している」
「なっ! 僕が本気じゃないとでも!? わからないのか! ナイフが首元にあるんだ!! あんたがいくら早くても、近づくより前に一瞬で──」
砂を踏む足音が聞こえる。ザッザッザッザッとテンポよくチハヤは男に向かって直進していく。
「傷つけることはできないはずだ。グレースは、君らにとって大事な売り物。傷を負わせればそれだけ商品価値が下がってしまう。もう一度問う。選択肢は多くない。降伏するか、逃げるか、あるいは戦うか」
「……くっ、くそ!!」
男はグレースの背中を押すと、一目散に逃げだした。あれだけ強気に見えた姿が、滑稽にすら思える。
「やはり逃げますか。だが──」
「えっ! チハヤ!?」
目の前からチハヤの姿が消える。瞬きしている間に、漆黒の姿は逃げる男の前に現れた。
「うわぁああああ!!!!!!」
男は、化物でも現れたみたいに絶叫していた。
「空間魔法の応用。そんなに驚くことじゃない。さて。逃げるという選択肢は与えましたが、逃がすわけにはいきません。サラ様に傷を負わせた代償をしっかりと償ってもらわなければ」
チハヤは片手を掲げた。手のひらからなにか禍々しい黒い塊が現れる。恐れをなした男はなにもすることもできずに尻もちをつくだけ。
「チハヤ、待って!!!!」
私の声にチハヤの動きが止まる。黒い塊は消えて、腕がふっと下に垂れる。
「もういいよ、チハヤ。そいつはもう戦えないでしょ」
「……サラ様がそういうのでしたら。しかし、動けないように拘束してギルドにでも──」
ん? なんだ? 波音が急にうるさくなった。海の方を見れば、今まで静かだった海面が嵐が来たみたいに荒れ荒れに荒れている。
「これは……少々めんどうくさいですね」
大きな波が小舟を呑み込んだと思ったら、海面からなにかどでかいものが上がってくる……!!!
「え? ウソでしょ?」
全身に水しぶきがかかって、私の目に映っているのは見たこともないような化物だった。
「サラちゃん! 大変!! これ、モンスターだよ!!!」