「……悪魔の森、ですか?」
さすがのチハヤもその存在は知らないらしい。村に住む人は誰も積極的に口にしようとしないから、知らなくてもしょうがないけど、チハヤが知らないことを自分が知っているという優越感がちょっぴりあった。
「悪魔の森はね。村長の家から山道をまっすぐ登っていったところにある深い森のこと」
「深い森ですか。ただそれだけなら、なにも恐れることはないと思うのですが」
「そんなわけないじゃん。悪魔の森はね、人を狂わす力があるんだよ。だから、立ち入り禁止になってるんだ」
子どもの頃、そこまで行こうとしたこともあったっけ。途中でバレて村長とおじいちゃんに怒られたような気がするけど。
「人を狂わす力……」
チハヤは腕を組むと、考え込むように目を瞑った。魔法とか異世界の知識とかでなにかわかったことがあるのだろうか。やがて開いた瞳は、珍しく輝いているように見えた。
「具体的にどんなことが起こるのですか?」
「え? えっと、それは──」
そう言えば詳しいことは知らない。クリスさんに視線を送ると、代わりに口を開いてくれたけれども。
「知らないんだ、詳しいことは。ただ、昔から近付いてはいけないと言われているくらいで。だから、山奥のことは村のみんなは誰も知らない」
「承知しました。とにかく悪魔の森の問題は置いておいて、クリスさんはそこに猫たちが行ってしまったのではないかと考えている、ということですね」
クリスさんは小さくうなずく。
「自信はないよ。だけど、1日、2日経っているのに行方がわからないということは、村人が寄り付かないところに行ってしまったんじゃないかってね。悪魔の森まで行かなくても普段は誰も山に行ったりしないから」
「あの悪魔の森にマシュマロちゃんが……!? 考えただけでもどうにかなりそう……!!」
3匹もの猫がいなくなったのに手掛かりはまるでない。猫たちだってずっと村で暮らしてきたわけだから、そうそう変なところにはいかないはず。悪魔の森──向かうのは禁忌とされているけど、探してみる価値はあるかも。
それに。チハヤの顔がなんとなく嬉しそうなのが気にかかるんだよなぁ。
「わかりました。とにかく、山の方に行ってみます! クリスさんとシーラさんは待っていてください!」
*
ってわけで私たちは酒場の外へ出たわけだけれども。
「チハヤ」
「はい」
「なにかあるんでしょ? 顔に書いてある」
「さすがですね。サラ様」
チハヤは実に嬉しそうに微笑んでみせた。その手にはいつの間にやら小皿と小さなビンが乗っている。
ビンの中には何やら怪しげな薄茶色の粘性のある物体が入っているけど……。
「チハヤ、まさか……これも魔法?」
「魔法。そうですね。大まかな分類では魔法の一種です。サラ様のイメージしている魔法は、何もないところから不思議な現象を引き起こす類のものだと思いますが、材料と材料を調合して新たな物体を作り出す魔法もあります。先日、金色のカクテルを作ったときに錬金術を紹介しましたが、そのようなものと考えていただければ」
つまり、カクテルを作ったときみたいに新しい物質を作ったってこと?
「それで、何を作ったの?」
「おやつです。私のいた世界ではとても猫たちに人気だった鶏のささみを主な原材料にして、粘り気のある……名前は伏せますが、猫たちの大好物のおやつです」
「なるほど、それをお皿に入れて匂いにつられた猫たちがやってくる──という作戦か」
「その通りです。では、村長さんの家まで向かいましょう」
うん。でも、気になるな、その中身。ってか本当に食べて大丈夫なのだろうか? おやつに引き寄せられるのはいいとしても万が一それを食べた猫たちの体に異変が起こったら……依頼失敗どころか大変なことになる。
「ちょっと待って。いったん、ここで開けてみてよ」
「ここでですか?」
「そう、いったん、いったんね」
「サラ様がそういうのなら、承知しました」
チハヤは地面にしゃがみ込むとビンを開けて、中のなんとも言えない奇妙な物体を小皿へと移した。
途端に香ばしい匂いが漂ってくる。食べてみないことには本当にはわからないけど、まあ、変な食べ物じゃないだろう。
などと思っていたら──。
「ニャー!!!!」
小さな何者かがおやつを奪っていった。しかも皿ごと!
「なっ、誰!?」
「猫ですね」
「猫!?」
確かにニャーって言ってた! そして、逃げ去っていく灰色の後姿は……おい、あいつ見たことあるぞ!!
「野良猫だ! この前、私が自暴自棄になって捕まえようとした猫!!」
「ああ、あれは滑稽でした。私の声が猫から出ていると勘違いされて。しかも、その様子を見ていたエルサさんが誤解して変な同情まで受けていましたよね」
「恥ずかしいことを全部言うな! おい! あいつ追いかけなくていいのか!?」
「追いかけないとまずいですね。あのおやつ、作るのが何気に非常に難しくて。材料はもう手元にありませんし」
「だったら悠長にしてないで! 行こう!」
走り出そうとした私を、今度はのんびりとした声が引き止めた。
「だめでしょ~サラちゃん~また猫をいじめてる~」
あのときと同じように、美容室から出てきたエルサさんがそこにいた。違うのは、ぷく~っと柔らかそうなほっぺを膨らませていること。
……リス?