バスの中で、その音は唐突に響いた。
それはまさに青春の儚さを具現化したような音だった。ひどく軽妙で、しかしどこか哀しみを漂わせる音。修学旅行のバスは悠々とした速度で日光東照宮へと向かっており、学校を出発してからすでに数時間が経過していた。おやつも尽き、話題も尽き、皆が退屈と眠気の狭間に漂っていたその瞬間、「ぷぅ」と一発鳴り響いたのだ。
「おい。おまえがしたんちゃうんか?」
前の席に座っていた鹿島が背もたれ越しに、私を鋭く睨みつけてきた。
あのシャーロック・ホームズもかくや、と思わせるほどの鋭い眼光。
私は思わず目をそらしながら、「なにがじゃ」と小さく反論した。
「屁や!おまえがしたんちゃうんか!」
「あほか!鳴った場所が全然違うやろ」
私は憤りを抑えつつ答えたが、その時点で私の無実を証明するのは既に至難の業であった。
どうする。修学旅行のバスでの粗相は、今後十年の不名誉につながる。
頭をひねっていると、「思うんやけど」と声があがった。
声を上げたのは、クラス随一の慧眼を持つ男、田村だった。彼は座席から半分身を乗り出し、「なんや、花村の方から聞こえた気がするで」と、のんびりとした調子で言った。
その言葉がきっかけとなり、バス内の空気は再び一変した。まるで、ミサイルの照準が一点に集中したかのように、無数の視線が一斉に後方座席へと注がれる。集中砲火を浴びた花村さんの顔が赤く染まるのがはっきりと見て取れた。彼女は女子バレー部に咲く一輪の花。クラスのマドンナというわけではないが、ひそかに思いを寄せている男子は少なくない。そんな彼女に不名誉な疑いがかけられたことに、誰もが複雑な表情を浮かべている。
「まさか、花村さんが……?」
クラスがざわつく中、その緊迫感を一気に打ち砕くように、低く冷静な声が響いた。
「早合点すんなや」
その声の主は、クラスきっての秀才である池井戸だった。彼は細縁のメガネをくいとあげて、落ち着き払った様子で話し始めた。
「鹿島はバードウォッチングが趣味やから耳は誰よりもいい。その鹿島が違う言うんじゃから、田村の意見は信頼度が低い」
一瞬の沈黙の後、クラスのあちこちから「たしかに、田村は眼こそ鋭いが、それ以外はてんでダメだ」「いやでも、俺もあっちから聞こえたと思うで」と賛否が入り交じる声が上がる。
池井戸は眉間に皺を寄せながら、「もうええわ、おまえらはほんまに。そもそも花村さんを疑う時点で根本的な誤りがあるんや」と言い放った。
「なんや?言うてみぃ」
鹿島が問い返すと、池井戸は真面目な顔をしたまま続けた。
「女子は、おならをせぇへん」
池井戸の言葉は、あまりにも青臭さに、全員が鼻つまんだ。
決して笑わないようにしたわけではない。
「おいなんや、みんなだまり腐って」
池井戸が不満げに言うと、女子バレー部の豪傑である村吉がそっと口を開いた。
「女子も、屁ぇするで」
その一言に池井戸は「へ?」と口から放屁した。
池井戸の顔は、まさにサンタクロースの真実を知った子供たちが受ける表情そのものだった。
「村吉、嘘はいかん。いかんで」
「嘘ちゃうわ。池井戸、あんたの母ちゃんは屁ぇせんのか?」
「……っ! 聞きとうない、そんなこと……っ!」
彼の心の中で築き上げられた砂糖菓子がごとき純粋なロジックが、今まさに音を立てて崩れ去った瞬間であった。それはまるで青春の敗北を目の当たりにするかのようであった。
池井戸の敗北を目の当たりにし、車内に再びざわめきが起こる。
「そや、全員、朝なにくうたか言ってこうや。それで、芋食ってるやつが犯人じゃ」
「おお!天才じゃ!」
「あほか!そんな横暴許されるか!」
「みんな、犯人捜しはやめてぇ!」
空気は時化に時化、新米教師の観月ちゃんが泣きだしそうになった時、前方の席に座っていたサッカー部主将、山崎が突然手を挙げ、声を張り上げた。
「わいがこいたんや!すまん、全部俺のせいや!」
全員が「え?」と呟き、再びどよめきが広がった。誰もが疑問に思っただろう――なぜ音の出所とは正反対にいる山崎が自分の犯行だと名乗り出るのか。
「おまえ、一番遠いやろ」と鹿島が冷ややかに指摘すると、山崎はニヤリと笑った。
「俺のケツは性能がええんじゃ。このくらいの距離ならどこでも音鳴らせる」
「ほう、やってみぃ」と鹿島が挑発すると、山崎は周囲の「やめとけ!」という声も意に介さず、腰を浮かせた。そして、満を持して鳴らす――べぶっ。
女子の悲鳴がバスの中に響いた。
その瞬間、全員の視線が山崎に注がれる。
「みっともないで、山崎。なにをきばっとんのか知らんけど、さっきと音がまるっきり違うやないかい」
鹿島は呆れ顔で吐き捨てた。
その言葉に、クラス全員が「たしかに」とうなずいた。
「山崎、おまえ何がしたいんじゃ」と鹿島が突っ込むと、山崎は一歩も引かずに答えた。
「だって、花村の名誉を守りたいんや!」
その言葉にバス内は再び静まり返った。
誰もがその言葉の真意を探ろうとしたが、山崎の目は真剣だった。
「ちょい待てや。花村の名誉とはなんや?」
鹿島が問い詰めると、「それは……」と山崎は口ごもった。
その様子を見た女子バレー部の村吉が、またぼそりと言った。
「花ちゃん、ええ恋人もったやないの」
「え?」
山崎を除く全ての男子生徒から声が漏れた。それは、花村さんがおならをしたという事実よりも、山崎が花村さんと付き合っているという事実に対する驚きだった。
「違う!花村は屁なんてこいてへん。俺じゃ、俺がこいたんじゃ」
「もういいよ、山崎くん」
花村さんが静かに立ち上がった。
そして、深呼吸を一つしてから、毅然とした態度で告げる。
「屁ぇこいたんわ、私です」
バス内が静まり返る中、池井戸が「嘘やろ…」と漏らしたその声は、妙に大きく響いた。
「池井戸、さっきからうるさいわ!」
村吉がめずらしく大声を出す。「屁ぇくらいするわ、女子も!」
その一方で、普段うるさい鹿島は「なんやねん、意味わからんわ」とうわ言のように繰り返していた。「意味わからんわ……山崎…………」
鹿島の呟きにつられて、男子たちのすすり泣く声がバス内に響き渡る。
まるで戦いに敗れた哀れな兵士たちのように、男子たちは静かに涙を流していた。
それでも鹿島だけは、泣くのをこらえているようだった。
バスはサービスエリアに到着した。移動の疲れも相まって、みな口数が少ない。男子生徒たちはぼんやりと無言のまま、休憩所のベンチに腰を下ろし、冷たいアイスクリームを舐めていた。
「おまえら、知ってたか…」
私の隣に座る鹿島がぽつりと言った。
「何をや」と私は尋ねると、鹿島は遠くを見つめたまま続けた。
「女子が……屁ぇこくなんてことを、俺らは今まで知らんかったよな」
「いや、違うやろ」と田村が横から訂正する。「花村さんと山崎が付きおうとることじゃ」
「どっちもしらんかったわ」
池井戸が頭を抱えた。「俺らは義務教育で何を習ってたんじゃろなぁ」
風の音が響いた。私はその中に、ずずっと鼻をすする音を聞いた気がしtあ。
私は、そっと首をまわした。すると、隣に座る彼の頬に涙の筋がはっきりと見受けられた。
そうか。そうだったのか。
鹿島が私を犯人にしようとしたのも、あの子の名誉を守るためだったのだ。
鹿島がまた鼻をすすろうとした瞬間、私は咄嗟に「ぷぅ」と屁をこいた。
音が重なり、消えていった。
一瞬の静寂の後、鹿島が静かに言った。「ええ音じゃ」
「せや。青春の音じゃ」
私は静かに応じた。鹿島の名誉は守られるべきだと思ったのだ。
「くっさい、青春じゃのお」と、池井戸が鼻をつまむ。
「青春なんて、どこかしらくさいやろ」
田村が肩をすくめた。「でも、くさいからこそ忘れられへんのやろな」
誰も頷かなかった。ソフトクリームはもう溶けてしまい、手の中のコーンだけが残っていた。
それをかじりながら、私たちはまた静かになった。
やがてバスは出発し、目的地へと向かって進んでいった。窓の外には次第に広がる青空と、どこまでも続く山々の風景が広がっていた。陽の光がまぶしくて目を細めると、その瞬間、再びぷぅと音が鳴った。
「今度こそおまえやろ!」
鹿島が私を睨みつける。窓から差し込む日差しにその表情は見えないが、私は彼の顔を見つめたまま、もう一度尻に力を込めた。
「お見事や!鹿島!」
バス内に笑い声が響き渡った。鹿島も、池井戸も、田村も、そして花村さんも、皆が一斉に笑った。まるで全てが許されたかのように、笑い声が車内を満たしていく。
哀しい音につられ、全てが笑いに変わるその瞬間、喜びの調べが車内に響いた。