《紗和side》
腕の中で、琴葉が泣いている。
小さな背中を震わせ、声を上げて泣いていた。
まるで今まで溜め込んでいたものを吐き出すかのような、そんな勢いで泣いている。そんな琴葉を落ち着かせようと何度も何度も私は背中を撫でた。
本当は琴葉も怖かったはず。父親から暴力を受け、期待しないと突き放された琴葉。
何があってこうなっているのか分からないけどきっと縁結びの儀についてのことだろう。琴葉は先程まで出かけていた。
その時に何かがあって、お父様が怒ったのだろう。
琴葉のことだ。
私絡みで何かしたのだろう。
「……ごめんなさい。もう大丈夫」
しばらく背中を撫でていると琴葉は私の腕の中から離れていく。そっと呟き、顔を上げた琴葉は。
目が赤く腫れ上がっていて、見ているだけで心が傷んだ。
「本当に大丈夫?今、治癒能力で怪我を治すからね」
お父様に殴られたせいで身体のあちこちに青あざがあった。真新しい青あざはとても痛々しい。
力の強いお父様は力加減を変えることなく殴り、蹴る。自分の容姿に気を配る琴葉にとってこの痣は見たくもないだろう。
私はそっと手をかざし、琴葉の身体に当てる。
念を込めるとぱあっと明るい光が琴葉の身体を包み込んだ。
「……なんで、お義姉様は私のことを助けたの?」
怪我の処置が終わる頃。
琴葉がぼそっと聞いてきた。
突然の質問に思わず顔を上げる。そんな質問をされるなんて思ってなかったから言葉に詰まった。
「なんでだろうね。身体が勝手に動いてたんだ。琴葉が危険な目にあってるって。気づいたら、琴葉を助けていた」
琴葉を助けた理由何て分からない。
あれだけ怖くて、憎くて仕方なかった義理の妹の琴葉。このまま放っておこうかとも思ったけど。
そんなことはできなくて。
琴葉の姿が過去の自分と重なって見えた。
「私、今まで酷いことしてたんだよ?お義姉様に……」
言いながらまたポロポロと涙を零す琴葉。いつもはしっかりしているのに、この時ばかりはなんだか小さい子供のように見えて。
愛おしく思えた。
確かに琴葉には酷いことを散々されてきた。でも、それはもう過去のこと。琴葉は私の大事な家族ということは変わらないから。
「……嫌いだよ。琴葉のこと、今でも許せないことがたくさんあるよ。でも。それはもうすぎたこと。琴葉は私にとって大事な妹なんだから。琴葉が私を嫌いでも、その事実は変わらないよ」
琴葉のことはまだ好きにはなれない。でも、家族だということは変わらない。そのことを伝えたくて、目を合わせる。
「ごめんなさい。ごめんなさい……ありがとう、お義姉様」
泣きながら何度も謝る琴葉。
まさか琴葉が謝ってくれる日が来るなんて思わなくて。驚いたけど嬉しくて。私はまた琴葉を優しく抱きしめた。
***
「……帰ってきた」
私は久しぶりに見るこの光景に、息を呑んだ。
琴葉やお義母さまの許可を得て、数十日振りに華月家に帰ってきたのだ。
久しぶりに旦那様に会える。
そう思っただけで心が興奮し、昨日の夜はあまり眠れなかった。寝不足で少し頭がぼーっとするけどそんなこと気にならないくらい私の心は満たされていた。
華月家の玄関前で立ち止まり、そっと深呼吸する。
今すぐにでも旦那様に会いたいけど気持ちを落ち着かせないと迷惑をかけてしまうと思い、立ち止まった。深呼吸し、いざ玄関を開けようとすると。
ーガチャ。
私が開けようとしたタイミングでドアが開いた。そのことに驚きつつも、私はそっとドアの隙間から顔を出す。
「……紗和様。おかえりなさいませ」
「風神さん……!お久しぶりです!」
玄関を開けたのは風神さんだった。久しぶりに見る風神さんは、私を見つけるとそっと微笑む。
その事が嬉しくて。
思わず抱きつきそうになった。数十日しかたっていないのに、離れていた時間が長く感じて。
今にも涙が溢れそうになった。
「紗和様。旦那様がお待ちしておりますよ」
懐かしいこの光景に涙をこらえていると、風神さんがそう促した。旦那様は玄関にはいないみたいで、風神さんが案内してくれた。
家の中を歩いている時も使用人の人達が“おかえりなさい”と言ってくれて。
旦那様の家はこんなにも暖かかったなと思い出した。風神さんについて行くと旦那様がいつも仕事をしている書斎にたどり着いた。
風神さんは少し後ろに引いて私に先を譲る。そっと深呼吸して、私はドアをノックした。
「入れ」
するとすぐに中から返事があった。風神さんと目を合わせ、無意識に頷く。
その直後。
私はようやく書斎のドアを開けた。
「……旦那様!ただいま戻りました!」
ドアを開けると書斎の机の前に旦那様が立っていた。
その姿に興奮し、早口に挨拶する。
旦那様と会いたいと思っていたけど、会えなかったこの数十日間。
私にとっては地獄のような時間だった。だけどこうして今、旦那様と顔を合わせ再会することができて。もう、私は我慢の限界だった。
「おかえりなさい、紗和」
「旦那様……!申し訳、ありませんでした。旦那様から離れてしまって……」
堪えていた涙が一気に溢れ出す。
そんな私を優しく旦那様は抱きしめた。旦那様の大きな腕の中は。
とても暖かくて、最高の居心地だった。
ああ、やっと帰ってきた。
旦那様の傍に、帰ってこれたのだ。
「紗和が気にすることない。悪いのは全部八重桜家だ。それに、少しでも油断した私も悪かった。だから、お互い様だ」
子供のように泣きじゃくる私をなだめながらそう話す旦那様。この瞬間をどれだけ待ちわびていたのか。
旦那様に教えたいけど言葉が上手く出てこない。
ただ、旦那様はそんな私を優しく抱きしめる。こんなにも幸せな時間があっていいのだろうか。
これ以上にないくらい、私は幸せ者だ。
「……そろそろ泣き止まないか?紗和」
どれくらい泣いただろうか。
数分後、旦那様がそう言った。でも泣いても泣いても涙は止まらない。私もどうやって涙を止めたらいいか分からなかった。
「もう、少し……待ってください……」
泣き顔をあまり見られたくなくて顔を下に向けた。だけどそれはすぐに無駄になってしまった。
旦那様に顔をあげさせられたから。目の前に映る旦那様はとても美しい。
涙が止まりそうになったけどまだ流れていた。
「……これならどうだ?涙、止まるか?」
顔を上げ、旦那様を見つめているとだんだんと近づく顔。次の瞬間、ふとくちびるに柔らかいものが当たった。
「……だ、んな、さま?ん……」
くちびるに当たったものが旦那様のくちびるだったと理解するのにそう時間はかからなかった。
甘いリップ音が部屋に響き、次から次へとくちびるが降ってくる。
口付けをされているんだ……と途中で理解して。
旦那様を止めようとしても止められなくて。
もっと、もっと……と欲しがっている自分もいた。
甘い空間が書斎の中に広がり、私の涙はあっという間に止まった。
「……済まない。婚約が終わるまで我慢しようと思っていたんだが、気持ちが抑えきれなかった。はぁ。紗和がやっと、帰ってきた。やっと紗和を独り占めできる……」
旦那様は申し訳なさそうに話しているが表情はとても嬉しそうだった。そんな旦那様の顔を見れて私も幸せ。
「旦那様なら、私は嫌な気持ちになったりしません。とても嬉しいです」
目に残っていた涙を拭いながら精一杯の自分の気持ちを伝えた。相手が旦那様だったらどんな事でも受け入れられる。
だって……旦那様は、私のことを信じて待っててくださった方だから。
「ありがとう、紗和。愛してる」
そんな私に驚きながらも愛してると言ってくださった。その言葉が心の奥に染み渡って。この方と婚約できて幸せだなと思った。
***
「紗和。八重桜であったこと、少し話してくれないか?」
華月家に帰ってきてから数日後。
旦那様に呼ばれ、書斎に入るなりそう聞かれた。あれから色々ありようやく事が落ち着いた頃だった。
皇帝様に顔を出したり、使用人の人達に顔を出したりと挨拶回りに時間が取られ、旦那様とゆっくり話す機会がなかなか無くて。
ようやく旦那様とゆっくり話せるようになったと思った時、旦那様に呼ばれたのだ。
「八重桜……ですか?」
「そうだ。あの八重桜当主や琴葉、義理の母親をどう説得してここに帰ってこれたんだ?話したくないと思うが、少しばかり聞いておきたいと思ってな」
お茶を入れ、机に置くと旦那様が真面目な表情で話し始める。向かいあわせのソファに座り話を聞いた。
正直、どこまで話していいか分からなかったけど、旦那様に隠すことはないと思ったので包み隠さず、起こった出来事を旦那様に全て話した。
私の誘拐は琴葉の計画だったこと、お父様とお義母さまからの扱い、そして八重桜家が壊れかけていること。
そのせいで琴葉が暴力にあっていたことも全て話した。話しすぎたかなと思ったけど後悔はない。
私が話している間、旦那様は色んな表情をしていた。怒ったような表情や眉を潜めて悔しそうな表情をしたり。
見ていて少し面白かったけど笑うことはしなかった。だって、私何かのために一生懸命になっている旦那様はとてもかっこよくて、嬉しかったから。
琴葉のことは心残りだけど本当に旦那様の元へ帰って来れて良かったと思えた。
「そうか。よく頑張ったな、紗和。すぐに迎えに行けなくて申し訳なかった」
全てを話し終えたあと。旦那様は頭を下げて謝った。
その言葉に私は頭を強く振る。
「そんな……。頭をあげてください。旦那様が必死になっていたこと、風神さんと皇帝様から聞いてますから。私も油断していたので……」
実は私が居なくなったあとのことを風神さんと皇帝様からひっそりと教えて貰っていた。
私の事を守れなかったと後悔し、皇帝様にまで話をしたと言っていた。
そのことを聞いてとても胸が熱くなり、また旦那様の好きなところを見つけてしまったと思ったのだ。
そのことを話すと旦那様はみるみるうちに顔を赤くし、俯いてしまう。
「凪砂のやつ……!次あったら覚えてろ」
そのことに思わずクスッとしてしまったが何やら物騒な言葉が聞こえてきて。話さない方が良かったかな、と思った。
「まぁ、とりあえず紗和が無事で良かった。それと、もうひとつ。縁結びの儀の八重桜への取りやめは聞いているか?」
「……なんとなくですが、聞いています」
私の反応を見て、ため息を着いたあと話を変えた。縁結びの儀について旦那様から聞かれたので頷く。
実は八重桜家の舞の依頼が中止になったと琴葉とお義母さまから話しは聞いていた。お父様にも聞いてみたけど口を聞いてくれなくてダメだった。
原因は琴葉にあると話してくれたのは本人だった。
琴葉がお父様に殴られていたあの日に皇帝様と旦那様に街で会ったという。
それに気の迷いで話しかけてしまい、皇帝様の逆鱗に触れてしまったのだとか。琴葉は申し訳ないと謝っていたが正気を失っていて。
今にも消えてしまいそうなほど小さくなっていた。
「その通りに話が今進んでいるんだが。その縁結びの儀での舞を異能持ちである紗和に頼みたいと皇帝様から話があった」
「……私、ですか?」
旦那様の言葉に目を見開き、驚く私。
確かに今までは異能を使って八重桜神社のために舞を踊り、お義母さまに稽古をつけて貰っていた。
だけどそんな大きな舞台で踊ったことはもちろんなく。
どうしようかと頭を悩ませた。
「これは私の責任もあるんだが……琴葉の異能がないことを皇帝様に話して、縁結びの儀を取りやめてもらおうと話をしていたんだ。最初は取り合ってくれなかったが、琴葉の悪事を皇帝様が調べていてな。話が進んでまとまったというわけだ」
旦那様から流れを聞いてなんとなく理解した。皇帝様はきっと昔の八重桜家の事を信じてお願いしていたのだろう。だけど状況は一変。
琴葉自ら皇帝様に歯向かうような行動を起こし、今の八重桜家では任せられないと思ったのだろう。旦那様の力もあり、その縁結びの儀に私が出ることになった。
……そのせいでお父様は私に妙に優しくなったのか。
いつもなら私のことなんてどうでも良くて見向きもしなかったのに。琴葉よりも私の事を気にかけるようになったのだ。
「そう、なんですね。ですが……私にそんな大きな役目が務まるか……。縁結びの儀っていつ頃にあるのでしょう?」
今の八重桜家を見ていると私に断る権利なんてなさそうだけど。心の中は不安でいっぱいで。どうしようかと考えた。
「縁結びの儀はあとひと月後。ちょうど皇帝様のご子息が15になる誕生日に行う。そこに、花嫁候補を呼び、縁結びの儀を執り行い、その後は園遊会を開くと仰っていた」
「ひと月後……」
おそらくまだ周りには知られていない情報なのだろう。縁結びの儀がひと月後なんて。
少し早い気がするが、かなり前から準備は進められていたのだろう。八重桜家に話が来たのもだいぶ前だったから。
これからの未来を託す皇帝様の息子に失敗は許されない。その圧力も、八重桜家に向けられていた。その一夜限りの舞でこの国の将来が決まると言っても過言では無いから。
「どうする?紗和が嫌だと言うなら別の物に頼もう。八重桜家程ではないが他にも縁結び家系の異能者はいるはずだからな」
旦那様は決して私の嫌がることはしない。だからこうしていつも選択肢を与えてくれる。これからの事は自分で決めろ。
まるでそう言ってくれてるみたいで。
だけど今回は迷うことはなかった。私の力を信じてみたい。今までの形跡をなかったことにしたくない。
旦那様の……期待に応えられるようにしたい。
「……やります!やらせてください!私、自分の力を信じてみたいんです……!」
顔を上げ、旦那様の提案に頷いた。正直怖いという気持ちはある。
でも私の事を信じてくれていた旦那様。自分の事を信じたいと思わせてくれた。
「そうか!ありがとう、紗和。紗和ならそう言ってくれると信じていたよ」
私の返事に嬉しそうにする旦那様。この先どうなるか分からないけど。挑戦してみよう。
……これからの八重桜家のためにも。
「どうなるか分かりませんが、旦那様の期待に応えられるように頑張ります!」
「紗和なら大丈夫。……よし。そうと決まれば早速皇帝様に報告に行ってくる。紗和は部屋で休むといい」
私を安心させるように立ち上がると私を抱きしめ、書斎を出ていく旦那様。その後、ドキドキと心臓は落ち着かなくて。
こうして自分で物事を決めるのは初めてかもしれない。自分にもこんな決断力があるなんて。
そう思いながら自分の部屋へ戻ろうと私も立ち上がる。その瞬間、ふと琴葉の顔が浮かんだ。
琴葉……大丈夫だろうか。皇帝様から手紙が届いて依頼、お父様は荒れ狂っていた。
琴葉には手を挙げるし、お義母さまとも喧嘩をしているところは何度も目撃した。八重桜家が壊れていくのを目の当たりにしていたにも関わらず、私はそこから逃げ出してきたのだ。
……小さく震える琴葉を置いて。
その罪悪感を抱えながらの今回の決断。
本当に私でいいのだろうか……。
そんな不安が私を包み込むようにして、まとわりつく。悶々としながらそれからの日々を過ごしていた。