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第9話「婚約者」

《千隼side》


 ……紗和が、目の前から突然いなくなった。


 その事実を受け入れるのにどれだけ時間がかかったか分からない。


 「……様。千隼様!しっかりしてください!」


 ぼんやりと紗和のことを考えていると、凪砂に名前を呼ばれた。ハッとして意識を取り戻すと自分はいつの間にか書斎にいて、椅子に座っている。


 ……いつの間に書斎に来ていたのだろう。


 無意識に体を動かしていたせいかここまで来た記憶が一切ない。


 「なぁ、紗和は本当に連れ去られたのか?」


 現実を受け止めきれなくて。凪砂に縋るように聞いた。凪砂はそんな私を見て申し訳なさそうに眉を顰める。


 「……はい。私の不注意で、居なくなりました。申し訳ございません」


 気の抜けた声で謝る凪砂は、今にも消えてしまいそうなほど小さく見えた。こんな会話をしても紗和は戻って来ないとわかっているのに。


 頭の整理が追いつかなくて。


 気づいたら凪砂の胸ぐらを掴んでいた。


 「なんでお前は琴葉に詰め寄られていた!いつものお前だったらすぐに避けて追い払っていただろう!?なのに、何故だ!」


 凪砂が全て悪いわけじゃない。紗和を守りきれなかった自分の責任もある。


 でも……止まらなかった。


 大事な、大切な紗和が自分の傍にいないなんて。現実から、逃げ出したくなった。


 「申し訳ありません。ですが、自分にもよくわかなかったのです。言い訳するつもりはありませんが……やたら琴葉がしつこくて」


 当時の状況を思い出しているのか悔しそうな表情をする凪砂。


 凪砂は琴葉のような自分勝手な女は嫌いなはず。


 この前だって速攻八重桜家に送り返していた。そんな凪砂が琴葉に負けるとは到底思えなくて。私は冷静さを取り戻せずにいた。


 こんなことになるなら紗和と出かけなければ良かった。


 私が無闇に外に連れ出そうとしたから紗和は……。


 「とにかく。紗和はすぐに連れ戻す。式を飛ばして紗和の状況を突き止める。そのことを皆に伝えろ」


 「かしこまりました」


 私は何とか怒りを抑え、深呼吸して凪砂に指示を出す。今できることは紗和を探し出し、状況を知ること。


 仕事が疎かにならないようになるべく平静を装いながら紗和を追跡することにした。凪砂は私の指示を受けるとすぐに部屋から出ていき、皆に知らせに行く。


 私はそっと呼吸を整えて椅子に座り、紗和の写真を見た。


 それと同時にあの日見た“途切れた赤い糸”を思い出した。


 嫌な予感は的中してしまった。


 こんな形で紗和が攫われてしまうなんて。


 「紗和。迎えに行くから」


 そう言葉にし、心に誓う。


 どんなことがあっても紗和は絶対取り戻す。八重桜家の思い通りになんてさせない。写真を閉じ、机の引き出しにしまい込んだ。


 ***


 「おい。まだ紗和の足取りは掴めないのか?」


 数日後。


 いつもの書斎で凪砂に詰め寄る。紗和の居場所は十中八九八重桜家なのだろうが、紗和の目撃や何をしているのかさっぱり分からなかった。


 だいたい予想はつくが、紗和の姿が未だに見えていない。式をどれだけ飛ばしても、異能を使って紗和の姿を見ようとしても何も成果をあげられていなかった。


 ……おかしい。おかしい。


 いくら八重桜家の中にいて外に出られなくても、ここまで足取りが掴めないものなのだろうか。


 「申し訳ございません。今、異能者総出で紗和様のことを探ろうとしているのですが……一向に報告がないのです」


 凪砂も表情を暗くして、心底疲れきったような雰囲気を出していた。異能を持っているとはいえ、毎日使えば疲れるのも当然。


 私はまだ大丈夫だが、凪砂はそろそろ限界そうだ。


 「わかった。これだけ探しても足取りが掴めないのはおそらく八重桜当主の仕業だろう。私が何とか話をつけるから、お前は今日は帰って休め」


 「……ですが……」


 あの八重桜当主のことだ。紗和のことは維持でも返さないつもりだろう。縁結びの儀が終わるまで紗和のことを縛り付けて置くつもりだろう。


 ならば、と私はひとつの作戦を決行しようと決めた。


 しばらく凪砂には休んでもらおうと思って休みを与えたのに。凪砂は納得しないと言わんばかりの表情を見せてくる。


 「千隼様が働いているのに私なんかがのうのうと休むことはできません。第一、私は千隼様の付き人です。主を放って置けません」


 ……そうだ。


 凪砂はこんなやつだった。いくら私が休めと言っても頑なに休もうとはしなかった。


 主人に忠実なのはいいことだが時にそれは面倒な反論が返ってくる。


 「いや、お前は休め。お前、気づいてるか?顔色が相当悪い。今倒られても困る。いざという時は式を飛ばすから、1度帰って寝ろ。いいか?これは命令だ」


 ため息をつきながら何とか凪砂を説得しようと試みる。こうなるまで頑張ることはわかっていたのに。私の事情で凪砂を働かさせすぎたな。


 心の中で反省しながら凪砂を睨む。


 「……かしこまりました。千隼様がそこまで仰るなら……。お言葉に甘えて今日は休ませていただきます」


 「そうしろ。今日の分の仕事は明日以降やってもらうからな」


 私の勢いに負けた凪砂は肩を竦め、渋々納得する。


 凪砂も頑固だが私もそこそこ頑固だと思ってしまった。凪砂はそのまま書斎から出るとそのまま自分の部屋へ戻って行った。


 それを知ると、私はひとつ深呼吸して。ある場所へと向かった。こんなことをしても無駄かもしれない。だけど、何もしないよりはマシだ。


 使えるものは使っておきたい。


 そう思いながら私は書斎を出て、歩いていく。


 「千隼です。突然申し訳ございません。少し話がしたいことがあります。今、お時間よろしいでしょうか?」


 私はひとつのドアの前に立ち、ノックする。


 静まり返った廊下に響く私の声。


 しばらくした後、中から返事が聞こえた。


 「入れ」


 「失礼致します」


 こんな真昼間から訪問したことないためダメ元で訪れたけど。意外にもあっさりと入ることを許された。私は頭を下げ、部屋の中へ入る。


 そこには、皇帝様が座って私を見ていた。


 「珍しいな。お前がこんな時間からここにくるなんて」


 私を見るなりそう話す皇帝様。


 そう。


 私は皇帝様のお力を借りれないか話に来たのだ。皇帝様は琴葉のことを押しているので話すら聞いて貰えないと思うが……。


 「申し訳ございません。ですが、今どうしても皇帝様に話を聞いていただきたく、まいりました」


 「……まぁ良い。そこに座りなさい」


 皇帝様の許しが出て、私はその場に正座する。いつ来てもこの空間は緊張する。


 ひとりで皇帝様と向き合うのは久しぶりで。


 変な汗が額から流れ落ちるのを感じた。


 「……して。話しというのは?」


 先に話を切り出したのは皇帝様。


 そのことに驚きながらも私は口を開いた。


 「皇帝様。実は、少し前から私の婚約者……妻の紗和が八重桜の人間に攫われています。今全力で足取りを追っているのですが八重桜当主の徹底ぶりな守りに捜査は滞っています」


 これまでのことを話しながら、また悔しい思いが溢れてくる。皇帝様は私の話を目を伏せて聞いていた。


 その静けさが妙に胸をくすぐり、落ち着かない。


 「そこで、皇帝様のお力を貸していただきたく、本日は参りました。図々しいことを申し上げていることはよくわかっています。ですが……これしか、もう方法は思い浮かばないのです」


 紗和を取り戻すための強行手段として、私が八重桜に乗り込むことは簡単だろう。


 だがしかし、そこで待ち受けているのは意地でも紗和を返さない八重桜一家。


 助け出せても、紗和を傷つけてしまうかもしれない。


 それだけは絶対に避けたい。


 「……それは、どういう願いかね。お前がそこまで切羽詰まっているのは珍しい。聞くだけ聞いてやるから、言ってみろ」


 頭を下げ続けていると皇帝様の笑う声と共にそう言われた。こんなことお願い出来る身ではないことは重々承知している。


 だけど、皇帝様は“言ってみろ”と言うのだ。


 これからどんな願いを言うのかも分からないというのに。


 「私、私の願いは……。“縁結びの儀”を取りやめて欲しいのです」


 「縁結びの儀の取りやめ?」


 私は顔を上げ、息を吸うと吐き出すように言った。私の言葉に明らかに反応する皇帝様。


 それはそうだろう。


 いくら皇帝様の付き人をしている私の願いでも聞けないことは沢山ある。大事な息子の花嫁を探そうという目的で縁結びの儀を執り行うのだ。


 それは十数年に一度の大きな行事。


 それを取りやめろと……。


 下手したら、自分の首が飛びかねないのだ。


 「はい。縁結びの儀を取りやめていただきたいのです。そうすれば紗和は解放され、自由になります。八重桜家の悪事も暴かれることにもなるでしょう」


 私は慎重に言葉を選んだ。


 まぁ、言葉を選んだところで内容は変わらないのだが。話を終えたところで皇帝様を見た。だけどその瞬間、ゾクッとした寒気が背中を走る。


 「八重桜家の悪事?それが一体なんだというのか。お前、今自分が言ったことわかっているのか?」


 優しい口調とは程遠い話し方をする皇帝様。私を睨み、怒りを抑えるように話していた。


 ……やはり、この提案は不味かったか。


 八重桜家を贔屓にしている皇帝様は、八重桜家がどんな悪事を働いていたかは興味無いらしい。ただ、風の噂と異能の力だけを信じ、八重桜当主に今回の行事を頼んだのだ。


 怒るのも無理は無い。


 だけど、ここで引き下がる訳にはいかない。


 「わかっています。ですが……」


 「お黙りなさい。何が八重桜家の悪事ですか。お前はいつもいつも自分の婚約者の心配ばかりして。愛妻家なのはいいことですが限度というものがあります。今日のところは引き下がりなさい!」


 ものすごい剣幕で怒鳴られた。


 私の口は開かなくなり、何も言えない。また、大事な話を逸らされた。皇帝様の異能は厄介なものだ。


 どれだけ口を開こうとしても固く閉ざされ、ビクともしない。私は、このまま引き下がることしか出来なかった。


 直球すぎた……。


 いくら皇帝様に気に入られてるからって軽率だったな。私は確かに紗和を助けることに頭がいっぱいで、周りが見えていなかった。


 皇帝様の言うことは分からなくもない。


 「結局なんの収穫もなしか……」


 皇帝様の部屋から出た瞬間、口が解放され、話せるようになった。


 自分一人では何も出来ないのだなと心の底から、落ち込んだ。


 凪砂にあれだけのこと言っといて……。


 情けない。


 ***


 「先日は1日お休みいただき、ありがとうございました。無事に復活いたしましたので今日からまた仕事に邁進して参ります」


 翌朝。


 一日休んだ凪砂が仕事に復帰した。


 よく寝たからか、凪砂は元気いっぱいにそう話す。表情も心做しか昨日より良くなっている。


 「一日と言わずもう少し休めばいいのに。まだ事の進展はないぞ?」


 「いえ。一日だけでも十分休みが取れました。なので今日からまた働きます!」


 私の言葉に勢いよく返事をする凪砂。私はそれに押され、業務を任せることにした。


 正直、凪砂が一日休んだだけでも仕事がかなり溜まっていた。毎日どれだけ凪砂に助けられているのだろうか……とその存在を改めて思い知った。


 「……千隼様」


 「なんだ」


 書類の仕事をしていると隣の机で仕事をしていた凪砂に話しかけられる。私は顔をあげないまま返事をする。だけど次の言葉を聞いた瞬間、思い切り顔を上げてしまう。


 「昨日、皇帝様とお話されましたか?」


 「は?」


 凪砂の言葉に一瞬びくり、と体を震わせた。


 ……なぜ凪砂が私が、昨日皇帝様に会ったことを知っている?


 私はまだ何も話していないはずだ。


 「風の噂でそういう話を耳にしました。なんでも、千隼様が“縁結びの儀の取りやめ”を申し出たとか」


 淡々と話す凪砂だが言葉の節々から若干怒りの感情が見える。おそらく凪砂のいない間に大事な話をしたことに怒っているのだろう。


 もうそんな話の噂が流れているのか。


 皇帝様の部屋に向かうまで十分気をつけていたんだが……。


 噂が回るのが早かった。


 「済まない。縁結びの儀を取りやめることが出来れば紗和を安全に取り戻せると思ってな。勝手なことをして悪かった」


 凪砂は人一倍仕事に責任を持つ奴だ。私がこんな勝手なことをして怒らないのも無理はない。


 「本当ですよ。今回は追い返されただけで済みましたが……。今後、このような自分勝手なことはなさらないようにお願いします」


 あまりにも真剣に見つめられ、言葉を失う。


 そうだ。皇帝様がいったいどういう御方なのかと今改めて思い知る。こんなことがもう一度でもあればおそらく私の首は飛ぶだろう。


 そこまで私の権力は強くない。


 「わかった」


 自分の行動の甘さに情けなくなり、そうつぶやくのが精一杯だった。凪砂に迷惑はかけられない。


 これは自分だけの問題では無いのだ。


 それ以上、凪砂と話すことはなく、仕事を黙々とこなすばかりだった。 


 書類の仕事が半分以上片付いた頃。部屋から出て行った凪砂が、私を呼んだ。


 「千隼様。皇帝様がお呼びです」


 「……今行く」


 皇帝様の呼び出しに思わず体を強ばらせるがすぐに返事をした。昨日の今日で皇帝様から呼び出されるとは。


 余程昨日の提案が良くなかったのだろうか。


 いよいよ私の首が飛ぶのか……?


 最近嫌なことばかり想像してしまう。自分の変な妄想と共に皇帝様の部屋へと向かった。凪砂は呼ばれていないらしく、書斎で待機すると言っていた。


 部屋の前にたどり着き、ドアをノックする。


 「参りました。千隼です」


 「入れ」


 すぐに返事があり、私は中へと足を進めた。正直今皇帝様にはお会いしたくなかった。いったい何を言われるのか。何をされるのか。


 自分の自業自得だとは思うが、怖いものは怖い。


 「済まないな。仕事中に呼び出して」


 「いえ。ちょうど仕事が片付く頃でしたので問題ありません」


 こんなことはしょっちゅうある。仕事中に声をかけられても皇帝様から呼び出されては行くしか私には選択肢は無いのだ。


 それなのに何を今更……と思ってしまう。


 「そうか。じゃあ早速本題に入ろう。お前、先日私に言ったお願いのことは覚えているな?」


 「……はい。縁結びの儀を取りやめにして欲しいと申し上げました」


 いきなり本題に入り、ビクッとするがまっすぐ皇帝様を見て、自分の言葉で話す。こんな話をするなんて、なにかあったのだろうか。


 もしかして私の願いが叶うとか……?


 「そうだな。そこでだ。私もお前の言い分が気になって八重桜家のことを徹底的に調べさせてもらった。お前がここまで訴えるということは余程のことがない限り、話さないだろう」


 皇帝様の言葉に目を見開く。まさか八重桜家のことを調べるとは思わなかった。あれだけ八重桜家のことを重宝していた皇帝様。


 私が今までどれだけ話してもご自身では調べようとしなかったのに。


 一体、どういうことなのだろう。


 「そして今朝その報告が来た。八重桜家の真実は、琴葉が異能者じゃなく、本当は紗和が異能者なのだろう?」 


 その言葉を聞いてドクっと心臓が大きく脈打つ。皇帝様が本当のことを知った。


 今まで紗和のことを蔑ろにしていたが、真実を知ったらどうなるのだろう。紗和を花嫁として迎えてきた頃から望んでいた未来が今、目の前で起こっている。


 皇帝様に真実を知ってもらえて嬉しいはずなのに。


 心のどこかで何かが引っかかった。


 「そうです。琴葉は異能は受け継がず、紗和が強力な異能の持ち主です。事実はそうだと私は前から話していたじゃないですか」


 ……もう、自分の中で何も分からなくなった。


 皇帝様に紗和を認めて助けてもらいたいのか、この先の待遇について恐れているのか。紗和はもう私の愛する花嫁なのだ。


 混乱する頭の中だったけど、このことだけははっきりと思っていた。


 「……それはすまなかった。八重桜家は昔からの仲でね。あまり大事にしたくなかったんだ。これでも反省はしているのだ。お前から婚約者を奪おうとはしていないから許せ」


 あまりにも感情がむき出しになる私に苦笑いする皇帝様。紗和のこととなるとムキになってしまうのは皇帝様も知っている。


 だからあえて言葉にして話したのだろう。


 「申し訳ありません。つい感情が抑えきれなくなりまして……」


 皇帝様には嘘をついてもしょうがない。私は正直に謝った。


 「よいよい。……まぁ、話はそれてしまったが縁結びの儀については、取りやめるつもりは無い」


 「何故ですか!琴葉は異能がなく、人の縁を結ぶことはできないのですよ!?皇帝様も調査されてわかったことじゃないですか」


 てっきり縁結びの儀は取りやめになるかと思っていたのに予想外の言葉に思わず立ち上がる。皇帝様も琴葉に異能がないことは知ったはずなのに。


 「まぁ落ち着かんか。人の話は最後まで聞きなさい」


 「……はい」


 皇帝様に促され、私は大人しくその場にまた座り込む。


 「縁結びの儀は取りやめないが、中心になる人物を琴葉から紗和へ変更すると先程八重桜家に手紙を送った」


 思いもよらぬ言葉に私は顔を思い切り上げる。


 中心人物を琴葉から紗和へ変更……?


 そんな事があっていいのだろうか。あまりにも突然の提案に言葉を失う。


 「これならお前も文句はないだろう?紗和の評価は上がり、お前も婚約者として名が知られる。八重桜家はちと一悶着ありそうだが、天罰を下すまでだ」


 豪快に笑いながら話す皇帝様。話としては十分ありがたいと思えた。


 これなら紗和を取り返せる。


 そう思えたけど思えたけど、このことを八重桜当主がすぐに理解するとは思えない。きっと紗和よりも琴葉を優先し、皇帝様に縋り付くだろう。


 「ですが……。八重桜当主は、なんて返事をするのでしょうか?」


 「私の命令に反抗しようと思ってるのか?その点は心配ないだろう。いくら頭が馬鹿でも私の言うことを聞かない奴では無い。お前に話すことは以上だ。仕事の続きをしてきて構わん」


 私の心配とは裏腹に皇帝様は自信たっぷりにそう話す。なんだか納得いかないがこれ以上追求して、皇帝様の提案が無くなることだけは避けたかった。


 この日は大人しく引き下がり、書斎に戻る。


 「千隼様。おかえりなさいませ」


 「ただいま」


 書斎にいた凪砂は私を見るなり頭を下げる。皇帝様との話を詳しく聞かれるかと思ったがそれは違った。


 凪砂はあっさりと自分の席へ戻り仕事を再開する。


 その様子に少し驚いた。


 いつもの凪砂だったら根掘り葉掘り事の詳細を聞くはずなのに、今日は何も聞いてこない。


 「……お前、何も聞かないのか?」


 不気味に思った私は思わず聞いてしまう。別に聞いて欲しい訳じゃないがなんか胸の当たりがザワザワして落ち着かなかった。


 「なんのことでしょう?千隼様から話したいことがあるのですか?」


 凪砂はなんの感情を持たず、淡々と聞いてくる。


 ……もしや、なにかを察知しているのか?


 凪砂は人の雰囲気や表情から気持ちを読み取るのが上手い。どれだけ愛想良くしても、態度を変えても心の内を見抜いてしまう。


 それは異能を持っているからという訳ではなく、ただ単に凪砂の得意な技術なのだろう。


 「……いや、今は大丈夫だ」


 「そうですか」


 凪砂に皇帝様から聞いた話をしても良かったのだが、ここは黙っておこうと決めた。


 よく分からないがまだ人に話さない方がいい。心の中で無意識にそう思った。


 凪砂に気づかれないように、そっとため息をつきながらその日は仕事に追われて過ごしたのだった。

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