……なんだか心地いい。
ふわふわ、ゆらゆら。
流れに身を任せ、何も無いこの空間に揺られていた。私……どうなったんだっけ。
眠気の残る頭の中で今まで起きたことを思い出そうとした。確か、琴葉とお父様から暴力を受けて……それで、誰か助けに来てくれた……。
助けに!?
今までの出来事を思い出していると、なにかとんでもないことが起こった気がして、思わず目を開ける。段々と光が差し込み、ゆっくりとまぶたをあげた。
「……こ、こは……?」
見慣れない景色が目に飛び込み、はっと辺りを見渡す。
ここは、私の部屋じゃ、ない……?
私、誰かに助け出されたのは覚えているんだけど……。そのあとのことがよく分からない。不安になり、痛む体を抑えながら布団から起きる。
「……だ、れ?」
顔をゆっくりと横に動かすと、そこには座ったまま眠っている男の人がいた。そのことに驚きながらも声を上げる。
……この方、確か前郵便局で助けてくれた方よね?なんでここに……。
そう思いながらじっと男の人を見ていると、眉をぴくり、と動かして、顔を上げた。
「紗和。起きたのか?」
まだ寝ぼけているのか、ぼうっとしながら私の顔を覗き込む。その距離が近くて、思わず後ずさってしまった。また、私の名前を呼んだ。私は彼のことを知らないのに、彼は私の名前を知っている。なんで……と思いながら怯えてしまった。
「あ、あの……ここは……」
彼は怯える私をじっと見つめていた。その視線に耐えきれず、目を逸らして尋ねた。
私は家から出てどこにいるのだろう。なんでこの方が私を連れ出したのかよく分からない。
お父様やこの方は私の“婚約者”だと言っていたような気がするけど、そんなはずは無い。だって、婚約の話など何一つ聞いたことがない。
ましてや、こんな綺麗な方と婚約するだなんて。信じられなかった。
「ここは華月家だ。紗和。今日からお前は私の花嫁であり、華月千隼の妻になる」
私の質問にたんたんと答える彼は、何を考えているのか分からない。
私が、花嫁……?
私が、妻……?
一体何を仰っているの……?
頭の中が混乱する。
「混乱するのも無理は無いな。あの当主、まだ紗和には話していなかったらしい」
訳の分からない言葉だらけで、固まる私。彼は深いため息をつきながら私と目を合わせるようにして体を向き合わせる。
彼と目が合った瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。美しい黒髪、きめ細かい白い肌、キリッとした目。程よく体に着いた筋肉。
どこをとっても目を疑うほど美しい彼に見つめられて。心臓が跳ね上がらない女性はいないだろう。だからこそ、この事実が信じられなかった。こんなみすぼらしい私なんかとなんで婚約したのか。
「紗和。お前はもう、あの家には戻らなくても良い。私が必ずお前を愛し抜き、生涯守ってみせる」
「あ、あの……ひゃ!」
何を思ったのか、恥ずかしいことを言われ、その後急に抱きしめられた。
強く、だけど壊れ物を扱うかのように優しく。大きな体の温もりに包まれ、なんだか安心してしまった。
……私、抱きしめられてる?
人から抱きしめられるなんていつぶりだろうか。人の温もりを感じるなんて……いつぶりだろう。
まだ何も知らない方なのに、抱きしめられても嫌だという感情はなかった。むしろ安心して、心地よい。
もっと……この方の温もりを感じたい。そう思ってしまった。
「……いきなり悪かった。つい、感情を抑えきれなくて。……泣いてるのか?」
「え……?」
自分のしたことに我に返ったのか、ゆっくりと私から離れていく。そして、謝ると同時に私の顔を見て驚いていた。
“泣いているのか?”
そう聞かれて、私は初めて自分が泣いていることに気づいた。無意識のうちに流れ落ちる涙。ここ最近は泣くことを忘れていたというのに。
……なんだろう、この暖かい涙は。
「大丈夫だ。もう紗和は自由なんだ。何も怖がることは無い。ただ、黙って私に愛されてろ」
「あ、あの……」
「ようやく、助け出せたんだ」
泣いている私を見て、心の底から安心したかのように微笑む彼。私の涙を指で拭いながら、見つめ合った。とくとくと心臓が心地よく響く。
まるでこの世界に2人だけのような時間が過ぎていった。
「……2人きりのところ、申し訳ありません。千隼様、皇帝様から呼び出されていますよ」
「きゃあ!!」
しばらくぼうっとしていたら、突然後ろから聞いた事のない声が聞こえ、思わず悲鳴を上げる。全然気配を感じなかった。
恐る恐る後ろを振り向くと、そこには背中まで伸びた茶色い髪の毛を結い上げた男の人がいた。
この人は華月さん?よりも物腰が柔らかく、優しい雰囲気をまとっていた。
「急に声をかけるな。紗和が怯えているだろう」
その人に遠慮なく怒りをぶつける華月さん。
「申し訳ありません。何度かお名前をお呼びしたのですがなかなか返事が返ってこなかったので。中に入らせていただきました」
その怒りの声に物怖じしない男の人は。いったい何者なんだろう。
「……はぁ。悪いな、紗和。こいつは私の側近である風神凪砂。幼なじみで、幼少期からの腐れ縁だ」
「八重桜紗和様……ですね。以後、お見知り置きを」
華月さんはため息をつきながら紹介してくれた。風神さんはとても丁寧な言葉遣いで挨拶をし、深くお辞儀する。呆気に取られながら私も慌ててお辞儀した。
「ど、どうも……」
「申し訳ないが、しばらくここを空ける。紗和、お前はまだ体が完治していないんだ。無理しないで、休んでいてくれ。用事が終わり次第またここに顔を出す」
私がお辞儀したのを見届けると、華月さんは私の頭を撫でながらそう言った。大きな手が私の頭を何度も撫でる。
「わ、わかりました」
なんだか気恥しい……と思いながらも、嬉しく感じ、頷く。華月さんは満足そうに微笑むと、立ち上がって風神さんと一緒に出ていってしまった。
途端に、静まり返る和室。私の部屋よりも何倍も広いこの部屋に取り残されて、少し心細くなった。さっきまではひとりじゃなかったのに。急に1人になると、不安になってしまう。そんな不安を無くそうと、私はまた布団の中に入る。
そして、強く目を瞑った。まだ私があの方の花嫁だなんて信じられないけど。お父様とお義母さま琴葉の顔を見なくて済むなら良かった……なんて思ってしまった。目を瞑りながらウトウトしているといつの間にか眠ってしまっていた。
***
……また、夢の中?
真っ暗な空間に、ひとり取り残された私。辺りを見渡すも、そこにはひかりも何も無い真っ暗な空間が広がっていた。
前にもこんな夢を見たことがある。また同じような夢を見ているのだろうか。そう思いながら視線だけを動かす。体を動かそうとしても、やっぱりどこも動かなくて。体は固まったままだった。
……誰か、誰か、いないの?
この前みたいに、声をかけてくれる人……いないの?
そう心の中で呼びかけながら必死で知らない人を探した。また、あの優しい声の主が助けてくれるかもしれない。そんな期待を抱いて、祈るばかりだった。
『紗和。もう大丈夫だ』
祈りながら助けてくれる人を待っていると。
……あの、優しい声が聞こえた。今回は夢の中じゃなくて、外から聞こえたような気がしてはっと上を見る。その瞬間、左手を強く握られた感覚が来た。どこか感じたことのある温もりと優しい手。私は、夢から早く覚めたくて。目を覚ませと祈った。
「……わ。紗和……紗和!!」
「え……」
祈っていたら、いつの間にか目が覚め、華月さんの顔が目の前に迫っていた。
驚いて飛び起きると、窓から光が差し込んでいて、部屋はとても明るかった。
「大丈夫か。かなりうなされていたぞ。昨日は私が出ていったあと眠っていたから起こしに来たんだ。部屋に入ったらうなされていて驚いた」
「あ、えっと……今って、朝ですか?」
心配してくれている華月さんをよそに、私は全く関係の無い質問をしてしまっていた。ここに来てから戸惑うことばかりで、状況を理解するのに時間がかかっていた。
昨日は眠ってしまって、そこから朝まで起きなかったってこと……?
「そうだ。おはよう、紗和」
「お、おはようございます」
そんな私の質問にも笑顔で答える華月さん。おはようと言われて、反射的に返してしまった。どうやら本当に次の日の朝らしい。
長いようで短い夢を見ていた気がする。夢の中で手を握ってくれた人はいったい誰なんだろう。と、現実逃避をするかのように、また考えを別の方向へと向ける。自然と目線が下にいき、自分の手を見る。
「どうかしたか?」
自分の手を見て、固まる私。
そんな私を不思議に思った華月さんが尋ねた。だけど私はかける言葉もない。
だって、私の手の上には……。
「な、なんで手を、握っているのですか……」
私の手の上には、華月さんの大きな手が乗っていたから。
夢の中で引っ張ってくれたのは華月さんだったの……?
「ああ、紗和が唸っていたから思わず握ってしまっていた。……嫌だったか?」
「い、嫌という訳では無いです……」
嫌だったか?と言われてしまい、それはないと全力で首を振る。他の人だったら嫌だと思ってしまうが、華月さんだけは嫌じゃなかった。
昨日もそうだったけど、いきなり抱きしめられてもそんな風には思わなかった。
「そうか。ならいい。そろそろ朝飯できるだろうから、着替えて行こう」
「……え?着替え?」
私の返事に満足したのか、笑いながらそう言った。朝ごはんのことも着替えのことも何も聞いてない。そもそも私は家から荷物を何も持ってきてないのだ。服もこの着物だけ。
華月さんの言っている意味がわからなくて、部屋を見渡した。
「ここの使用人に紗和に似合う服を用意させた。遠慮はいらん。身の回りの世話も頼んであるからな。私は部屋の前で待っているぞ」
「えっ、あ、あの……お待ちください……!」
突然の出来事すぎて追いつかない。私に似合う服?使用人?なんでそんなことになっているの。
私は華月さんを止めようとしたけど間に合わず、部屋から出ていってしまった。それと同時に動きやすい着物を身にまとった女の人が現れ、私の前で座り込む。目をぱちくりさせる私は、じっと見てしまった。
「八重桜紗和様。この度は、華月千隼様との婚約、誠におめでとうございます。私、華月家の使用人として働いている神谷結愛と申します。花嫁様の身の回りのお世話を任されました」
戸惑う私に、頭を下げ続ける神谷……さん。
目の前の出来事が怒涛の如く流れていくのがわかった。説明をされてもいまいち理解出来ない私。
「どうか神谷結愛をよろしくお願いいたします。……では、早速ですが」
「は、はい……」
挨拶を終えると、勢いよく顔を上げる。その勢いに負けそうになるが、そこは堪えて、頷いた。
「こちらのお着物に着替えていただきます。旦那様との最初の食事は、このお着物が良いでしょう」
勢いを保ったまま差し出されたのは細やかな桜が描かれた桃色の着物。今までそんな高価な着物を着たことがない私は、即座に首を振った。
「む、無理です無理です!そんな高価な着物、私なんかが着れません!この今着ている着物で充分ですから!」
思わず断ってしまった。着物を剥ぎ取らされそうな勢いだったので、着ている着物をぎゅっと握る。まさかこんなこと言われるなんて。
私には不似合いすぎる着物だよ!
「それこそいけません!紗和様は千隼様の花嫁様なのです!身だしなみを整えるもの私の役目ですから。さぁ、遠慮なさらず」
着物をずいっと私の方へと押し付ける神谷さん。その勢いに押されながら、私は半ば無理やり着替えさせられたのだった。
***
「なぁ、紗和。まだ怒っているのか?いい加減機嫌を直せ。桜の着物、お前に似合っていて可愛いぞ?」
「……」
あれから数時間後。地獄のような時間が終わり、また華月さんと部屋に戻ってきた。だけど朝ごはんの時から一言も話さない私に、戸惑いを見せる華月さん。
別に怒っている訳では無いが、無理やり着せなくても……と思いながら、自分の着ている着物を見た。桃色の着物は、とても美しく儚い色をしている。
まるで八重桜神社にあった桜の木を描いたかのように美しい。こんな着物、生まれてこの方着たことがなかった。私には勿体なさすぎるくらいのいい着物だった。
「別に怒ってないです。ただ、私には似合わないと……」
自分が着ても着物は映えない。きっと琴葉が着た方が着物も喜ぶだろう。今、考えたくないことを考えてしまうのは、何故だろうか。せっかく華月さんがあの家から連れ出してくれたのに。
心の中はまだまだ正直もので、自分の今の状況を受け入れることは出来ていなかった。
「誰が似合わないと言った。紗和、お前は自分に自信が無さすぎる。この着物はお前のことを思いながら注文した物。紗和以外がこの美しい着物を着てもきっと似合わん。私が選んだのだ。少しくらい自信を持て」
自分のことを下に下に、見ていることを否定された。今まで誰にも言われたことの無いような言葉ばかりで驚いた。
こんな私を受け入れてくれる人がいたのか。
なんでこんな私のことを……見つけてくれたんですか。
なんで……。
「紗和は私の運命の人。そう教えてくれたのはお前自身なのだからな。花嫁として、自信を持って欲しい」
初めて聞いた華月さんの、私への思い。昨日この家に来たばかりなのにそんなことを思ってくれていたなんて。
「は、い。……ありがとう、ございます」
自分のことを高く評価してはいけない。ずっとそう思って生きてきた。八重桜家にいた頃はそれが当たり前だったから。なんでも琴葉が一番優先。
自分のことは家族よりも後回し。そう教えられてきた。
「さて。準備も整ったことだ。少し街へ出かけないか?」
「街……ですか?」
「そうだ。今後の生活で、紗和に必要なものを買いに行こう。そのまま家から出てきてしまっただろう?紗和の思うように生活して欲しいからな」
華月さんを見ていると、街へ出かけようと提案された。突然の事で、聞き返してしまったが楽しそうに話す華月さん。街へ出かけるなんて久しぶりだ。
一緒に行こうと言ってくれたことは嬉しかった。
だけど……。
「申し訳ありません。私、そのお買い物には行けないです」
頭を下げて断った。華月さんと一緒に出かけられたらどんなに楽しいだろう。どんなに、幸せだろう。そう思うけど、お金は持っていなかった。
さすがに華月さんに出してもらう訳にはいかない。昨日今日きた私に、そんなことをさせる訳にはいかなかった。
荷物は家から取ってくればいいだけの事。あの家に帰るのには少し億劫だが、変な貸し借りをしてはいけない。いくら婚約で、華月家の花嫁と言われていても、そこまで心は開けなかった。
「……何故だ」
「なぜ、と言われましても……」
頭を下げて断るが、そんな私を見て華月さんは不機嫌そうに尋ねる。
そこまで怒ることだろうか……。
不安になりながらも顔を上げる。だが、お金が無くて買い物には行けません、と言いづらい。
名家の娘でありながらお金を持っていないなんて言ったらどうなるか。もちろん華月さんは受け入れてくれると思うが、これ以上迷惑をかけるわけには行かない。
「……」
「なんだ。なぜ何も言わない。言いたいことがあるなら言ってみろ」
言葉を濁し、黙りこくっていると、華月さんは私に顔を寄せる。正直怖かった。
自分のことを話すのは。今までは誰かの言いなりになりながら動いてきた私。自分の意見を言うなど言語道断だった。
だからこそ、自分のことを話すのは怖い。否定されたらどうしよう。この家から追い出されたらどうしよう。常にそんなことを考えていた。
「え、えと……お金、を持っていないのです。自分のものは、家から取ってきます。なので……お買い物には行かなくても、大丈夫です」
震える声でそう言った。こんな風に自分のことを話せる日が来るとは思わなかった。家族の前だといつも言葉を飲み込んで。我慢してきた。
人の提案を断るなんてしなかった。お金がないから、という事情はあったけど、話すことが出来てほっとした。
「なんだ。そんなことか。お金の心配ならいらん。紗和は私の花嫁だ。遠慮することない。……ほら、日が暮れる前に行くぞ」
お金の事情を話したのに、まるでこのことをわかっていたかのような反応をする。
私は一瞬驚いたけど、何かを話す前に華月さんは部屋を出ていこうとした。
本当ならここで待っていたいという気持ちもあったけど、無視する訳にもいかず、慌てて後ろを追いかけた。
「行ってらっしゃいませ」
家を出る前に、神谷さんがお見送りしてくれた。流れに身を任せ、私は華月さんの後ろをついていく。
小さく会釈した後、風神さんの運転する車で街へと出かけた。
***
「わぁ……!」
久しぶりに来た街の賑やかさに思わず声が漏れ出てしまった。今日向かった街はいつも私が行っているところとは別の街。
帝都に近い場所で、とても人で賑わっていた。いつも行く町とは全然違う。
道行く人はみんな流行り物の洋服や着物を着ていたり、髪飾りや髪型をしたりと流行を楽しんでいるようだった。
「ここは皇帝様の住む場所に一番近い街だ。見ての通り西洋の文化を取り入れ、みな洒落たものを着ているだろう?」
私を車から下ろしながら、話す華月さん。西洋の文化は、噂程度には聞いていた。
お洒落に敏感な琴葉やお義母さまも目を輝かせながら話していたり、本を見ていたのを思い出す。ふたりが夢中になるのもなんだかわかる気がした。
「千隼様。では後ほどお迎えに上がります。楽しんでくださいませ」
車からおり、街を眺めていると風神さんがそうお辞儀をしながら言った。相変わらず丁寧な言葉遣い。私も吊られるようにしてお辞儀をした。
「悪いな。帰る頃にはお前に式を飛ばして連絡する」
「承知しました」
風神さんは車に乗りこみ、街から出ていく。その後ろを見送りながら、華月さんと2人きりになった。
「……さて。どこから見て回るか。何か欲しいものや必要なものはあるか?お金のことなら遠慮はいらんぞ」
車が見えなくなった頃。
そう聞いてきた華月さんはどこか楽しそうで。申し訳ない気持ちはいつの間にか少し薄れていた。
「ま、まだよく分からなくて……。少し街を見てからでもいいですか?華月様」
ただ、自分の欲しいものはまだよく分からない。少し街を見てから、と華月さんに提案していた。回っていたら、少しは欲しいと思えるものがあるかもしれない。
「わかった。……紗和。華月様と、呼ばないでくれ。花嫁からそう呼ばれるとよそよそしくなる」
私の言葉に頷いたあと、顔を近づけながら話す。なんて呼んだらいいかわからなくて華月様と呼んでしまった。
……確かに、花嫁だというのにこの呼び方は……と思った。
でも、他になんと呼べば良いのだろう。確か下の名前は千隼……と言っていた。風神さんが呼んでいたことを思い出した。
「で、ではなんとお呼びすればよろしいでしょうか」
いきなり殿方の下の名前を呼ぶのは気恥しい。そういう体制のない私にとっては名前を呼ぶことすら難しいと思ってしまう。
「千隼……ではだめだろうか」
少し考える仕草をした後、首を傾げながら私を見る。その仕草がなんだか可愛くて、不覚にも心臓が大きく跳ね上がる。
「い、いきなり名前を呼ぶのは……なんだか気恥しいです」
その気持ちを誤魔化すように少し視線を逸らして言った。やはり名前で呼ばれたいのか。
一瞬躊躇ったが、これでは自分の身が持たないと思い、断ってしまった。呼び方を決めるだけでこんなにも戸惑うものなのか。
でも……こんな時間も悪くはなかった。幸せだと感じる時間でもあった。
「じゃあなんと呼ぶのだ。これから同じ苗字になるんだ。名前以外、どうやって紗和から呼ばれるんだ?」
名前呼びを断ったあと、やや不機嫌そうに尋ねる。これは困った……と悩んだ後、こう提案する。
「では、旦那様……はいかがでしょう。これなら、私も呼びやすいです。名前呼びは……もう少ししてからでもいいですか?」
「紗和がそうしたいならいい。でもいずれは名前で呼んでもらうぞ」
私の提案を渋々だが了承してくれた。そのことにほっとしながら私は頷く。
「わかりました。……旦那様」
「じゃあ行こう。早くしないと日が暮れるからな」
私が旦那様、と呼ぶと嬉しそうに手を伸ばし、気づいたら右手が握られていた。大きな手に包まれた私の手は、すっぽりと収まっている。
「だ、旦那様!?こ、これは……」
いきなり握られるなんて思わなくて。反射的に旦那様の顔を見る。
「ん?これくらい、いいだろう?なんだ、恥ずかしいのか?」
「……旦那様、楽しんでますね?」
戸惑う私を見ながらくすくすと笑う旦那様。そのことに気づいた私はじろっと睨む。街中でこんなことをしたことはないのに。
旦那様はなんの躊躇いもなく私の手を握ったまま街中を歩き出した。道行く人は美しい旦那様を見ながら通り過ぎる。ここでも注目を浴びている旦那様は、いったい何者なんだろう。
男の人も女の人も旦那様に見とれていた。隣を歩くのが少し肩身が狭い。自分だってまだこの方の花嫁だなんて信じられない。本当に私なんかが隣を歩いていてもいいのだろうか。
そう思いながら歩いていると、ふと握られた右手に力がこもる。まるで自分に自信をもて、と言わんばかり。
その力強さに、私はとても嬉しくなって。その優しい手を握り返したのだった。