「そういえば、父上は名を改めたそうですね」
「そうなのですか?」
安祥城を巡る戦が始まってから一月が経過していた。
今川勢は信広の活躍により一度兵を引いたが、未だに予断を許さない状況が続いていた。
三河での情勢が安定していない今、時田の身柄が解放されることは無かった。
しかし、ある程度の自由は約束されており、帰蝶の屋敷で普通に働いていた。
「ええ、今は道三と名乗っているそうです。一体どういう意図で……」
「……恐らくですが、土岐頼芸様が関係しているかと」
織田家との交渉の末、美濃に土岐頼芸が戻っていたが、それが美濃の情勢を更に悪化させていた。
尾張との戦は無くなったが、土岐頼芸が美濃国の主の座を取り戻すため、ありとあらゆる手を尽くして斎藤利政改め斎藤道三の地位を奪い返そうとしていた。
「……なにかそういう話を聞いたのですか?」
「……えぇ、小耳に挟んだ程度ですが」
時田は少し考えてから続けた。
「実は、斎藤義龍様が土岐頼芸様のお子ではないか、との噂が流れているのです」
「兄が? どういうことです?」
「……義龍様のお父上は、元々土岐頼芸様の側室。道三様の下へ行った時、既に身籠っていたというのです」
それを聞き、帰蝶は少し考える。
「……成る程、頼芸様は兄上を自分の子として扱い、父と兄とで仲違いさせようとしているのですか……兄上は元々父と仲がよくありませんでしたからね……」
「恐らくはそうでしょう。その噂が事実かどうかは関係なく、動乱を巻き起こせば、義龍様が負けたとしても自分にもチャンス……好機が訪れると考えている」
「ちゃんす? 光はたまに分からない言葉を使いますね」
そこで、帰蝶はとある事に気が付く。
「そう言えば、光は何故そんな話を知っているのですか? 自由に外には出れぬのでは?」
「……そうですね。帰蝶様には知っておいてもらったほうが良いかもしれません」
すると、時田は外に向けて声を掛ける。
「小次郎」
「はい!」
時田が小次郎の名を口にした途端、元気な返事とともに男が現れる。
「何か御用でしょうか! 何でも致しますぞ!」
「ええ、では黙っていて下さい」
「はい!」
「……聞こえなかったの? 黙って」
時田の静かな怒りに満ちた声で、小次郎は黙って頷く。
しかし、小次郎の顔はどこか嬉しそうであった。
「ええと……この方は?」
「三河への旅路の際、信広様が護衛として貸してくれた者です。山口小次郎と言います。まぁ、何故か好かれてしまい、そのまま私の家臣になる、と言っています。まぁ家臣は無理ですが、都合が良いので良いように使ってます」
「成る程……信秀様の監視は大丈夫なのですか?」
信秀はまだ時田を完全に信用はしていなかった。
それ故、監視を置いていたのだ。
「はい。表向き……というか、実際は信長様にお使えしています。信長様もこのことは知っていて、自由にさせていると言うわけです」
すると、戸が勢いよく開かれる。
そこには、いつも通り信長がいた。
「時田! お主に会いたいと言う者が来ているぞ!」
「私に? それは大丈夫なのですか?」
「あぁ。表向きは俺に仕官したくて訪ねてきたということにしてある。心配するな」
すると、信長の背後から見覚えのある男が顔を出す。
「げ」
「げ。とは失礼ではありませぬか? 時田殿。久しぶりですな。大須賀康高にござる」
その男の登場に、時田はあからさまに嫌な顔をする。
「我が殿より時田殿を口説いて妻とせよと……」
「無理です。帰ってください」
「時田よ。情勢の安定しない三河からわざわざ来たのだ。無下にするでない」
信長がそう言うと、時田は渋々了承する。
「……はぁ、分かりました。まぁ、真意はともかく、丁度人手が欲しかった所なので良かったです」
「そうなのか?」
「ええ。そこの小次郎だけだと色々と不便がありますからね平松商会とのやり取りとか直接の手駒が一人だと情報の伝達に支障がありますからね」
すると、時田の言葉に帰蝶が反応する。
「平松商会?」
「あぁ……三河で松平広忠暗殺の為に作った商会です。因みに、その商会の主の名は平松忠広です」
「平松忠広……あぁ、成る程。察する所、光は平松商会を使って自由に動かせる手駒にしてるんですね?」
「その通りだ。流石は帰蝶だな」
信長が答えを言うと、帰蝶はそのまま続けた。
「しかし、光は何故そんな事を?」
「……私は道三様、そして光秀様の平和な世を作りたいという願いを叶えたいと思っています。その為に出来ることをしたいのです。これは、その第一歩です。情報を集めたり敵対する者を始末したり、色々と暗躍しようと思ってます」
時田は少し楽しそうに喋る。
「まぁ、今はまだ小さいですが、出来ることをやろうと思ってます」
時田はそう言うと立ち上がり、康高の前へ立つ。
「という事で、よろしくお願いしますね。大須賀康高殿。私を振り向かせたいのなら、それ相応の努力をお願いしますね」
「応! 何でも言ってくれ!」
大須賀康高を仲間に加え、時田は自分を固めていく事となる。
この小さな始まりが、後々大きく歴史に関わってくるとは知らずに。