「ほう……広忠が死んだか」
広忠死去の知らせは、今川義元の下まで知れ渡っていた。
海道一の弓取り、今川義元。
駿河、遠江を治め、東海道において広大な地域を支配していた。
その影響力は計りしれず、甲斐の虎、武田信玄や相模の獅子、北条氏康も警戒していた。
そして、三河を実質支配下に治め、尾張を手に入れんと活動していた。
「は。どうやら、織田の手の者が関わっているようでございますな」
「……雪斎よ。お主ならばどうする?」
雪斎と呼ばれた男はすぐさま答える。
「そうですな。すぐさま岡崎城へ兵を向けるのかよろしいかと。織田が竹千代様を掲げて三河を支配下にしようとする前に我等が直接向かうのです。さすれば、三河衆は我らに従い、反織田の決意が固まるでしょう」
「うむ。流石は雪斎だ」
この太原雪斎と呼ばれた男。
義元からの信頼が厚く、政治、軍事の両面で義元を良く支えていた。
武田家や北条家との外交もこなしており、後に甲相駿三国同盟の締結に尽力している。
義元の右腕として手腕を発揮し、黒衣の宰相とまで呼ばれ、今川の最盛期を築いた男でもあった。
「では、早速兵を向わせよう」
「なれば、私自らが赴きましょう。三河を手に入れられるかどうかかかっているこの戦、確実な物としておきたいですからな」
雪斎のその言葉に、義元は頷く。
「うむ。任せたぞ」
「はは!」
「今川め……動きが早いな……」
今川軍が岡崎城に入ったという知らせはすぐに安祥城の信広の下へ届いた。
その数、一万。
雪斎の動きは素早く、信広は確実に後手に回っていた。
雪斎は尾張からの援軍を防ぐために安祥城の後方、鳴海、大高方面にも軍を派遣した。
さらに周辺の城砦も次々と攻略された。
よって、信広は孤立した。
そして、肝心の安祥城を攻めるのは……。
「殿! 北より敵先鋒、松平勢が攻め寄せてきました! す、凄まじい勢いです!」
「ちぃっ! 奴らのせいで今川軍の対応が出来ん! 奴らがいなければ援軍を得られたというのに……慌てるな! 落ち着いて対応せよ! 儂も向かう!」
信広も自ら弓を取り、前線へ向かう。
外に出ると、松平勢が一所懸命に攻め寄せていた。
今川軍が後方へ兵を派遣し、安祥城を孤立させている間に、松平勢は安祥城を攻め続け、度重なる攻撃で三の丸は既に陥落寸前であった。
「くっ! 怯むな! 押し返せ!」
「と、殿! 既に三の丸の城門は破られる寸前です!」
「ええい! もうすぐ日も暮れる! あと少しだ! あと少し耐えよ!」
信広は前に出て雑兵らに紛れ、自ら矢を放つ。
その矢は見事敵兵に命中する。
それを確認した信広は弓を掲げ、声をあげる。
「皆の者! 敵は当主である広忠を失った只の松平の残党だ! 怯むことはない! 今は強く感じるが、それは松平の最後のあがきよ! あの程度の数、大した事はないわ!」
信広は敵にも聞こえるように松平勢を罵倒する。
織田勢からは大きな笑い声が聞こえてくる。
すると、松平勢から一つの怒鳴り声が響く。
「貴様! ふざけるな! 織田家が殿を殺した事は分かっておるのだぞ! 卑怯な真似をしおって! 決して許さぬぞ!」
「忠高殿! 落ち着かれよ!」
松平勢の本多忠高が声を上げていた。
それを、同じく松平清康の代から仕える大久保忠俊が諌める。
「悔しいが、これ以上は兵が持たぬ。一度引こう。殿を失い、これ以上兵も失えば……三河は……」
「……いや、それは敵が最も望むこと。今引いては敵の思う壺よ」
忠高は刀を信広に向ける。
「かかれ! 我等は昼夜問わず攻め立てる! 貴様らに休む暇など与えはせん! 我らの怒りを思い知れ!」
「ちぃ……松平勢め……侮れん……」
安城合戦は、激しさを増していくのであった。