九月も半ばを過ぎた頃。
霧香は一人、姿見の前で服を合わせていた。
デート当日だ。
それでもなかなか服は決まらない。その上、中途半端な季節。山に行けば寒いかもしれないが、まだまだ街中は夏日和。
いつもは彩にコーディネートされている霧香だが、インスタや仕事以外とあらば霧香自身にお任せすると言い、最近は介入してこない。
髪をネットに押し込み、黒いウィッグを着用。この時初めてガラス細工のカチューシャを付ける。
ハランはいつも淡い色合いで、フワッとした締め付けの無い服を着ることが多い。それに合わせて、エレガントなグレートーンのロングワンピースとベージュブラウンの薄手の羽織物を選んだ。
レースや小物で可愛らしさをキープしつつ、落ち着いた雰囲気に纏める。めずらしく腕にブレスレットを付け、完成。
マスクをして部屋を出る。
「お待たせ」
ハランは既にエントランスの椅子で読書をしていた。
グランドピアノとその椅子しか無かったエントランスだが、最近はここにもソファーを置いた。朝早く来た希星がここでピアノを弾くことがある。土日の目覚まし替わりだが、彩は欠かさずここで迎える。
「じゃ、行こうか。
あ……そのカチューシャ。覚えててくれたんだね。使ってるところ見れて嬉しいよ」
「うん。今日は絶対つけようって思ってたんだ」
「似合ってるよ。髪の色はいつもと違うのに、凄く綺麗だよ」
「あ、ありがとう」
玄関を出て、バスに乗る。
「キリちゃん、眼鏡とかはしないの ? 」
「それなんだけどね。一個も持ってないの。サングラスを買おうと思ったんだけど、全然似合わなそうだし……ネットで見ててもイメージが湧かなくて」
「キリちゃんなら、少し色付きの可愛い物でもいいかもね。
そうだ、今から買いに行こうか」
「え ? いいの ? ごめん、用意してなかったばっかりに……」
「違うよ。特に今日は決まった予定とかないんだ。午後だけ予約してるイベントがあるから、他は好きなところ行こう ? 」
「そうなんだ ! じゃあハラン選んでくれる ? 」
「勿論」
こうして二人のデートが始まる。まずまず好調な滑り出しだ。
二人が屋敷の敷地から出ていくのを、彩はパソコンデスクに座りながらぼんやりと窓から眺めていた。
「お前、気になるんだろ ? 」
一緒に作業していた恵也が彩を見てニヤニヤ笑う。
「そんなわけない。色恋なんて興味無いよ。キリの身嗜みが気になっただけ。いつもだらしなくても、こう言う時はちゃんとお洒落するとことか……そういうのも苦手だ。
デートに関してはケイの方が気になるだろ ? 」
恵也も彩には否定しない。
「ま〜、俺も好きでもなけりゃ護衛なんてしねぇよ、実際。契約者なんていつまでするんだか。
でも……不思議だよな。別に俺が報われたいとか、他の奴を妨害しようとか……そうも思わないんだよなぁ」
「好きなのに ? 諦めてるって事 ? 」
「うーん。ここのメンバーって、スペックがエグいじゃん ? その中で俺が釣り合うとか思ってないしさ」
「寂しい理由だな……それ」
苦笑いで恵也を揶揄う彩だが、恵也は冷静にその反応を観察する。
「背伸びしたところで勝負にならないし。出来る分野でアピればいいかなって軽く考えてる。
お前だってさぁ、キリの事……好きだろ ? 俺の勘って当たるんだよ」
恵也の言葉に、彩はすぐに否定する。
「さっきも言った。俺、女性はダメだって知ってるだろ ? 」
「でもキリは別じゃね ? 自分でも最近は自覚あるだろ ?
キリとセッションしてる時、蕁麻疹出てないし。しかもキリの感情が伝わって、いつもダダ漏れに分かるんだろ ? 」
彩にとって、人生で初めて免疫のついた同世代の女性……と言っても過言では無い。
「それこそ……俺は釣り合わないさ」
「そう ? お目付け役だからって進展しないレンレンと、仲はいいけど天使と悪魔って立場のハラン。俺は二人より、キリを見てるとお前の方が脈あるんじゃないかとか思う時ある」
「……ないよ。一体そんな事……いつ、どう、思うんだか……」
呆れ、ぶっきらぼうに答える彩に恵也は断言する。
「うーん。そうだな。二人っきりで楽器弾いてる時かな。
最初はバイオリンの時だけ…… ? とも思ったけど……ギターでもそうだなって。
そもそもSAIとKIRIはギターとベースで組んだバンドだし……何か共鳴するものがあるんだろうなって。
よくさぁ『どこからが浮気だと思いますか ? 』って質問あんじゃん ? 『一緒にデートしたら』とか『キスしたらダメ』とかさ。一般的にそれが『下心があって、恋愛的な事に結びつきそう』だから議論されるわけじゃん ? 同性ならそんな線引きないだろ ?
俺の場合、キリとサイ限定で『一緒に楽器を弾く』が入ると思う」
「 ??? ……何を言ってるか、分からないんだけど ? 」
「お前と演奏してる時が、キリは一番楽しそうに見えるんだよ。
だから皆、お前らが弾き始まると邪魔しないわけ」
「…………だとしても、俺としてはそういうのは考えたこと無い」
小さく呟く。
だが、その恵也の分析は、彩のどこか深いところにいつまでもピリピリと引っかかる言葉になった。
気付いていない。
気付かないふりかもしれない。
彩も霧香に興味が無い訳ではなくなってきた。
それは依存のようなものかもしれない。
最初は音に執着していたが、今は少し違う。
しかし下心とは言えない単純な独占欲なのだ。
……そして自分が一番、霧香の音も魅力も表現出来るという自信と信頼関係。
それを恋愛感情と言うには、少し違うと言い聞かせる。
だが、この気持ちに名前を付けるとしたら、霧香の事を『ただの推しメン』とは言いきれない何かがあった。
彩は気持ちをすぐリセットするように、真理から来た一方的な安否確認メッセージに返信をする。
「……。
和太鼓だけど、楽団のパーカッション担当が昔やってたみたいだけど……どうする ? その人に会ってみる ? 」
「まじで !? おう ! 頼むぜ ! これで俺の活動の目処はついたなぁ〜。
サイは ? キリと弦楽か。……他のメンバーはどうするんだろうな ? 」
「どうかな……。ハラン辺りはキリを使うかもな。今日あたり話するんじゃない ? 」
「え ? そうなの ? ま、ハランがキリと別行動ってのも考えられないか。
ハランかぁ。ギタリストだし、キリにギターやれとか言うかな ? 」
この恵也の質問に、彩は無言だった。
□
「わぁ〜 ! め、眼鏡屋さんってキラキラ ! 凄い ! 綺麗 ! アクセサリーみたい ! 」
眼鏡屋は視力の悪い人が買いに行く場所、と思い込んでいた霧香は、美しいショーケースやガラスケースを見て一気に心を奪われた。
「綺麗〜……。サングラスってもっと真っ黒で縁も太いんだと思ってた……」
この発言からすると、霧香はガッチリ隙の無いサングラスは好みでは無いのだろう。
「変装用にイメージ変えるだけだしね。伊達メガネでもいいと思うけど、カラーレンズなんかどう ? 」
ハランが銀縁で薄茶色のレンズの物を選ぶ。
そっと手に取り、頬を撫でるように霧香へ掛ける。
「……眩しくないね……光が遮断される……」
ふと視界にハランがジッと見ているのに気付き、なんだか顔が赤くなる。
眼鏡を選んでいるのだから顔を伺われて当然なものだが、改めてこう眺められると緊張を感じる。
「フレームも色んなのがあるよ」
そこでようやく店員が二人に付く。
「いらっしゃいませ、星乃眼鏡店へようこそ〜。
本日はサングラスお探しですかぁ ? 」
霧香は反射的にハランの影に隠れる。店員に顔バレしたら……と、警戒したのだが大丈夫なようで安心した。
一方、店員は勿論プロである。誰、どんな有名人がフラッと立ち寄ったとしても、ギャーギャー騒いだりなどしない。「ファンです」「応援してます」くらいはあるかもしれないが、まずは商売だ。今の変装した霧香が噂の看板女性だとも思ってはいない。
当然、ハランは望んで店員を輪に入れる。
「彼女にプレゼントしようと思って。普段掛けないんで、軽めの物で可愛いのがいいんですよね」
「良いですね ! 形も色々ありますけどフレームが大きいと小顔効果もあって〜。
これなんかはフレームにストーンもあって人気です」
「へぇ。やっぱり女性物は煌びやかでいいね。
キリちゃん、気に入ったのあった ? 」
「これかな……。凄く可愛い」
「それは特に人気なんですよ〜」
霧香が選んだのはゴールドの細いフレームに装飾が付いた物。レンズの色はピンクからクリアにグラデーションがかかった極めてアクセサリーに近いサングラスだ。
「初めてならそのくらいの濃さでも十分効果が感じられると思いますよ。これから秋になりますし、街歩きでは日差しが辛い季節ではございませんし。オールシーズン使えますのでおすすめです〜」
「キリちゃん、それにする ? 」
「うん。そうしようかな」
慣れない物を選びに来た霧香だが、一目惚れで衝動買いもまたショッピングの楽しみである。
しかし、外したサングラスの値札を見て、一度凍り付く。
霧香がいつも目にするのは、雑貨屋等に無造作に置かれたオシャレサングラスの類いだ。数百円から数千円程度の物。
これはその何倍もする。
それをヒョイッとハランが取り上げ、店員の手元にあるトレイに乗せる。
「じゃあ、これでお願いします」
カードと共に。
「ありがとうございます。
では調整しますのでこちらへどうぞ」
霧香とハラン椅子へ通される。
店員が洗浄、会計をしてる間、霧香がハランに声をかける。
「ハ……ハラン、自分で払うよ ! 」
「別にいいんだよ。今日付き合って貰ったお礼もあるし」
「でもそれは誕生日だし……」
霧香が建前上では無く心底遠慮してるのを見て、ハランは満足して話題を変える。
「キリちゃん、これから京介の持ってるハコに行こうと思うんだけどいい ? 」
「京介さんのライブハウス ? 誰が歌うの ? 」
「ほら、サイに海外でモノクロを個別プロデュースしてもらうって話があったじゃない ? その参考に観たい歌手がいるんだ」
「ああ ! そういう事ね ! 喜んで付き合うよ。
それにしても、京介さんってライブハウス経営してたんだ」
「樹里さんのビルだよ。もう婚約してるし共同で頑張ってる感じ。元々お爺様が持ってたのを樹里さんが相続したんだよ」
「へぇ〜。
なんだか樹里さんと京介さんって、意外だよね ? なんて言うか……」
見た目が、とは言い出せない。
歳も離れて見えるが、実際十歳も離れていない。
「俺たちは樹里さんがパトロンだったから、人柄を知ってたし。近付きやすかったのかもね。凄く好みが似てるんだよ、京介と樹里さんって」
「へぇ〜 ! 食べ物とか ? 」
「食もそう。二人とも酒好きでさ。あとはグラドルとお笑い」
「あ〜……京介さんって凄い笑い上戸だよね……いつも笑ってるイメージがあるよ。樹里さんもニコニコ」
「そうそう。でも京介はステージに立つと急に締まるし、樹里さんも仕事となると人が変わったようにキツくなるし……正直怖い。
逆玉って事に変わりは無いけどねぇ〜」
「ふふふ。逆玉かぁ。
ハランもそういうモテ方しそう ! 人当たりいいし、お医者さんでしょ ? 」
「じゃあキリちゃん、俺のお世話してくれる ? 」
笑顔で霧香を覗き込む。
「え ? え !? 無理 !! 」
「む……無理なの ? 」
「だって逆玉って言われる程、わたしは大富豪じゃないもん……」
「そっちかぁ。びっくりした。
そんなの簡単だよ。一緒にいてくれるだけでいいんだよ。結婚して、人間界でゆっくり過ごすのさ」
「ぅ……えぇ ? 結婚…… ? 」
「お待たせいたしました〜」
ハランを見つめたまま、戸惑いを隠せない霧香に店員が戻ってきて声をかけた。
ハランは何事も無かったように、デスクに頬杖を付いて霧香にニコニコと微笑み続ける。
「調整しました。どうですか ? 」
「わわっ ! 大丈夫そうです ! 」
早くここから撤退しないと、顔をガン見されるのに耐えられない。霧香は慌てて保証書やら手入れやら、口説い説明やセールの話を聞き流し席を立つ。
「ありがとうございました〜またのご来店お待ちしております」
天気は晴れ。
まだ紅葉してない広葉樹の青い葉が、陽の光でチラチラと反射するが、サングラスのお陰か全然眩しくない。
「わぁ……なんだか違う街みたい……」
「便利だよね〜。そういうアイテム」
「うん……」
ただ、どちらが好きかと聞かれれば、霧香はその自然光を感じるのが好きだった。
今はとりあえず変装も兼ねてだ。
このままつけて歩く。
「ハラン、ありがとう」
「ゴールドのフレームは青い髪にも似合いそうだね。早くいつものキリちゃんが見たいよ」
家では変装はしていないのだが……。家を出てから、ハランの口振りには何か定型されたような癖がある気がして、霧香はなんだか違和感を感じていた。
その違和感とは、いつも生配信など撮影の時に使われる表の顔と口振り。まるで決められた台本を読むように。
「ライブハウスはどこなの ? 」
「この先の繁華街の地下にあるんだ。ホワイトミントって所。
音ビルで一番規模が小さいところだよ。あそこは200人入れるかな。ギリギリ200って感じ。
京介に話通してあるからステージの袖の方から見れるよ」
「え ! いいの !? 出演者にお邪魔じゃないの !? 」
「大丈夫。相手も駆け出しだから、関係者繋がりは寧ろ是非見てくださいのスタンスだよ」
「へぇ〜太っ腹だね邪魔にならないようにしなきゃ」
「開場まで時間あるし、お昼にしようか。何食べたい ? 」
「えっと……。じゃあ、服に臭いとか付かないところがいいのかな ? 舞台袖でも、スタッフさんいっぱいいるだろうし……」
「あぁ、なるほど。そうだね。
じゃあ、お蕎麦なんてどう ? 」
「あ ! 食べたい ! 家じゃ流石にシャドウくんも蕎麦はコネないしね」
「あはは、そりゃそうだね。お蕎麦難しいって聞くし。
でもシャドウ君は本当に働くよねぇ。猫だなんて思えないよ」
タクシーに乗ってからも盛り上がる。
「でも料理好きだし、頼めばうどんはコネてくれそうだよね」
「シャドウ君のうどんか……力あるからな〜。凄いコシになりそう」
「でもわたしコシが強い方が好き ! 」
「ほんと ? 俺は鍋とかに入れて二日目のフニフニのうどんが好きだなぁ」
「ハラン、顎だけお爺ちゃんなの ? 」
「違うよ ! もう〜」
□□□□□□□
蕎麦の香りを堪能した後、ようやく二人は京介の元に訪れる。
「よう ! 来たか。霧ちゃん、あれ ? 髪、染めたの ? 」
「いえ、これウィッグです」
「へぇ〜。本物に見える。なんだっけ ? 今、活動出来ないんだっけ ? 」
「はい。VEVOもそれで年始にずれて……」
「ああ。そうだったわ」
京介は思い出したように納得する。
「そうそう。そのVEVOで曲が遅れてるアーティストが何人かいるって聞いてるじゃん ?
今日出る奴らもそうだよ。曲はプロデューサーが作ってるんだけど、まだ若くてさ。煮詰まってるみたいで」
「わたし、VEVOに出る人の曲って、Angel bless以外は初めて聞くかも」
「そう ? じゃあ楽しんでって。
一応、客席まだ行けるけど、裏でいいの ? 」
京介が念を押して確認するが、ハランは頷く。
「ああ。観客ってより、演技側に立ちたいから」
「そう」
京介はスタッフONLYの扉を開けると舞台の裏へと二人を通す。
関係者のシールを服に貼られ、一先ず他のスタッフに挨拶した後、主役を待つ。
観客席が埋まってきた頃、少しだけ霧香は様子を伺う。
色とりどりのサイリウム。汗をかく前提のタオル装備。
ネットの中にしかいない霧香にとっては全てが新しい。公開収録はまだまだ訳分からず歌ったが、今はその重大さがよくわかる。
満を持して、主役が楽屋から出てきた。
カラフルなドレス。
一人一人個性が違う美少女達だ。
スカートから出る生足が彼女らの若さをより強調する。
「アイドルグループ ? 凄い……美少女コンテストみたい」
「そうだね。盛り上がるよ」
京介がアイドルやグラビアが好きなのは聞いていたが、ハランもそうなのだろうかと考える。
『みんな ! 今日もありがとう ♡』
『それじゃ !! 1曲目 ! 行っくよぉ〜☆』
ステージの強烈なライトと激しいダンス。
汗だくだが、全員笑顔で踊りきる。トークに入っても休みは許されない。そのまま観客を煽る。ステージが広ければ広い程、メンバーが少なければ少ないほど、目まぐるしく続くパフォーマンス。
『〜でね ? ミヨがあたしの唐揚げ盗ったのぉ〜』
『とって無いもん〜』
霧香にとっては興味の無い人間の私生活の話である。だが、これはまさにモノクロがやっている事と同じだ。
内輪のネタなど、聞いて楽しいのは本来ファンだけなのである。
このアイドルグループの人数は六人。これもモノクロと酷似したものがある。
ステージの振る舞いは参考になる。
楽器を弾いていない間、トークはほぼ恵也に丸投げだからだ。
彼女らのトークややり取りを、真剣に魅入る。
その様子をハランは安心して見守った。
□
「最初アイドルって知った時はナンデ ? って思ったけど、奥が深いね。ちょっと勉強になったかも ! 」
「そう ? なら良かった」
二人は京介に別れを告げ、石畳の歩道を歩く。
「お腹空いた ? 」
「うーん、あんまり減ってないかも」
「じゃあ、コーヒーの美味しい純喫茶があるんだけどどう ? 」
「うん ! 行こう ! 」
十分程歩き、昭和レトロな喫茶店へ辿り着く。
しかし良い雰囲気と相反して混雑していた。
壁側の隅、二人席にギッチリと通される。
「他の所の方が良かったかな ? 」
「座れたし、大丈夫だよ。わぁ〜メロンソーダが美味しそう ! 」
「ここはパンケーキも美味しいよ」
「ふわぁぁぁ ! メニュー見てるだけで目移りしちゃう ! 」
結局、霧香はメロンソーダとパンケーキ、ハランはコーヒーとガレットをオーダーした。
ナイフとフォークを置くと、ハランから切り出す。
「アイドルって、どうだった ? 」
「びっくりだった ! 」
「びっくり ? 」
「だってわたしは楽器持ってると踊らないし、そもそもダンスできないよ。ステージも動く範囲が決まってると思ってたけど、あんな風に全体を上手く使うんだなぁって」
「楽器があるとなかなか範囲が限られるしね」
「うん。あと、一番は表情かな。わたしはさ、音域キツイ時は普通に顔が険しくなっちゃう。難しい曲の時も顔しかめちゃう。
それを笑顔のままやるなんて凄い。それも全員でさ。メンバーの足踏んじゃうよぉ ! 」
「あはは ! 最初はそう思うかもね。
でも、キリちゃん」
「何 ? 」
「アイドル。やってみる気、無い ? 」
「……え ? 」
霧香はまさかのハランの言葉に頭がついて行かない。
今、霧香は全く自分には出来ない芸当だと盛り上げたばかりなのに、どうしてそんな提案が飛んでくるのか。
「ほら、個別プロデュース企画でさ。俺はキリちゃんに、アイドルになって貰いたいんだ」
霧香は急にハランが怖くなった。
笑みを浮かべたハランの薄い唇から、次にどんな言葉が出てくるのか。
知りたくないし、聞きたくない。
「……む、無理だよ」
「そうかな ? キリちゃんなら、十分可愛いし、歌も上手いし、イけると思うんだけどな」
「だから……わたし楽器無いと何していいか分かんないし、トークも……あんな風には無理だもん」
「そんなことないよ !
それに、サイが言ってたじゃん ? 」
始まる。
ハランの罠。
「演目を決めたリーダーの言葉に従う事って。
でもサイの前でこれを言ったら、本決定になっちゃうじゃない ?
だから今日、キリちゃんには先に確認しておこうと思ったの。突然言われるよりいいかなってさ」
『彩』と言う、霧香にとって絶対的な存在。
その彩の考案した、個別プロデュースのルール。
「キリちゃん、可愛いし。絶対大丈夫だよ」
彩が決めたルールなら仕方が無いのか。
頭で分かっていても、やっぱり自分にアイドルらしさを求められた所で、出来る気がしないのだ。
「わたし、歌詞とかも書けないし……」
「女の子っぽい歌詞ってこと ? 歌詞はサイに頼んでもいいんじゃない ? 」
枷。
何度も『彩』というワードを繰り返す。
まるで彩も賛成しているかのような前提で話すハランだが、全く事実無根である。
しかし、ハランがやりたいと公言したら決定してしまうだろう。
「そうだけど……。わたし、本当に向いてないの。激しい音楽の方が好きだし……元々ロリータも作り物なの。
ハランはわたしにアイドルをして欲しいの ? なんで ?
最初から……今日はそのつもりで出掛けたの ? 」
これはYESだ。
「違うよ、まさかぁ ! プランのひとつにあったから京介と話したら、たまたま予定が合っただけ。
でも、サイがロリータファッションを着せるって事は、キリちゃんはそっちの可愛らしい活動も見込んでなんじゃないかな ? 」
「そ、そう……なの ? 」
「あはは。そのビジュアルだもん。誰だって夢は広がるよ。
そもそもイメージにギャップを付けるだけなら、ロリータファッションさせてる子に、バンドの本番で女王様みたいなコスチューム着せないって」
「でも、わたし…… ! 絶対出来ない。せめて楽器を弾くなら……。
アイドルも芸術なのは百も承知だよ。
だからこそ、今日その出演者を見せて貰って本当に衝撃的だったの。あんなに綺麗なドレスでもブラウスが汗でへばりついて、絶対不快なはずなのに最後の最後まで笑顔で写真や握手に対応して。年齢もキラくらいの子もいた。凄く尊敬する。
でもね、ハラン。あの子達とわたしは違う 」
「そう言うけどさ。キリちゃんって、音楽始めたら止まらないよ。妥協しないの知ってるし。
活動が始まっちゃえばあの子達と同じだよ。モデルが服を纏う職業なら、キリちゃんは音楽を纏う。実力があるのはわかってるし」
止まらないハランの誘惑と、絶対に譲らない提案。
霧香はナプキンで口を拭うと、席を立つ。
「もう……帰る。
今日は何も見てないし、聞いてない。
わたし、やらないよ ! 」
バッグをかけて席を立つ霧香の手首をハランが握る。
「ごめん、キリちゃん待って。ゆっくり話そう ! 」
腕を振り解き、ハランを見下ろす霧香。その瞳の縁いっぱいの溢れかかる涙。
霧香の拒絶反応がどこから来たのかハランは本気で分からなかった。
それは、ハランが霧香の音楽をしっかり評価していること。
その上、アイドルや他のアーティスト、モデルに引けを取らないビジュアル。
霧香が拒絶するのは何故なのか。ダンスなど練習すればいい。
そう思うのだ。
一方、霧香はどんなにハランと距離が縮まっても、なんだか自分という生き物を理解されていない気がするのだ。
他人なのだから当然と言えば当然だが、もう霧香は言葉にしなくても通じ合える存在という者が側に出来てしまった。
「いいの、一人にして…… 」
「キリちゃん ! 」
ハランの手から逃れるように、ひらりと身をかわし店を出る。闇雲に走り、路地を進む。
夕暮れ時はとうに過ぎ、辺りは真っ暗。小雨が降っていた。
霧香はサングラスを外し、ウィッグを脱ぎ捨て感覚だけを頼りに小走りで群衆を抜ける。零れ落ちた青い髪が、霧雨のミストを吸ってヘナりと肩に落ちた。
海沿いのジョギングコースまで来ると、手摺りを握り締めて止まらない涙を海に落とす。
どうしてハランとはいつもこうなってしまうのか。自己嫌悪に陥る。
今日一日を思い返して、鳥肌が立つ肩をギュッと掴んだ。彩の個別プロデュースの話はいつから出ていたのか。ハランはいるから自分にアイドルと言う路線考えていたのか。全てが不信感に変わる。
握ったウィッグの中に刺さったままのカチューシャを引き抜き、サングラスと共に思い切り海へ投げた。
□□□□
同時刻。
サイは作業を中断し、モニターを見たまま考え込む。
離れた場所にいる……ハランとデートに行った霧香の精神状態が極めて不安定だ。
だが、カップルの喧嘩など普通にあるだろう。簡単に口を出すべきではと悩み込む。
恐らく喧嘩の原因は、蓮が彩に釘を刺していた件だろう。
つまりは、悪い精神状態になるほどの拒絶が霧香にはあると言うこと。
ルールは決めたが、霧香が病んだりしてモノクロに支障が出るようでは不本意である。
悩んでるうち、一件の着信。
南川だ。
『おつかれ、深浦君。
早速だけど、家にカメラ設置しに行きたいから、予定教えてくれる ?
出来れば全員、家にいる日がいいかな』
「分かりました。確認次第、折り返し連絡します。
あ……南川さん。実はキラの学校が始まりまして……」
『お ! 引越し初だね ! どうだった ? 』
「それが、学生のモノクロの認知度が案外高くて……先週から何袋も差し入れとかサイン色紙入ってて……」
『へぇ……若者の人気はぼちぼちかな』
「それで、大丈夫ですか ? アンジェリン作戦に影響とか……」
『あぁ、そういう事ね。心配ないよ。一応、凛さんには伝えておく』
「お願いします」
『あとは、特に報告無いかな ? 』
「あの、個別プロデュース企画なんですけど……。
メンバーがやりたくないって拒否した時……やらせるのがリーダーの仕事なのか、無理強いしない人間性も必要なのか……少し、分からなくて……」
彩はぼんやりと知っている事を掻い摘んで話す。
『もっとメンバーに、妥協案やNGも聞いてみるのもいいかもね』
「妥協案……ですか…… ? 」
『そう。『これだけはやれない』って言うモノがあるって事だし、霧香さんに限った事じゃ無いと思うよ。せっかく六人いるんだから、答えを焦らないで、しっかり練る。
すぐに諦めてはダメ。けど、本当にダメだと思ったら引き際も大事。
これは俺の経験則だけど、無理してやった物が良い物になった試しがないよ』
言うは易し。
じゃあお前がやってみろ、と言いたいところだが、MINAMIはそれらを網羅して今のポジションにいるのである。
彩もぐうの音も出ない。
「はい。夜分遅くありがとうございました」
通話を切ると、彩はおもむろに防湿庫からヴァイオリンを二台取り出しケースに入れると、外へと出ていった。
霧香の居場所は分からないが、今動かないといけない気がしたのだった。