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第43話 檳榔子黒

「うふっ ! 凄い ! わたし、人間界では歌に魔法は使ってないんですよ。その割にはいい感じじゃない ? 」


 城下では多くの人々が歌を求めてゾンビのように群がって来た。


「何が望みだ ! 」


 結界の無い部屋の中に戻って来た霧香は「うーん」と悩むふりをして一言。


「喉が渇いたのでお茶が欲しいかな」


「ふざけるな ! 」


「あぁ、そうだ。毒が入ってるかもしれないから、飲めないかぁ。そうだったそうだった」


「……」


 ディーは有り得ないものを見るように、何事も無かったかのように椅子に座る霧香を見下ろす。遂には怒りと興奮が冷めていってしまった。


「こんな騒ぎを……。周囲にどう報告すれば……」


「ふぅ〜。

 人間界からリヴァイアサンの雄が引き上げられて……天界からも追放。あれから何年経った ? 」


「……そんな昔の事を……」


「ただの世間話。

 人間で言えば「離婚した後どうしてた ? 」って事」


「お前を妻と思ったことなどない。

 その品の無い言葉使いをやめろ。俺を誰だと思ってるんだ」


「わたしも貴方が夫と言う自覚無いし、何ならもう敬いの気持ちもない。


 じゃあ本題に。

 まず第三者機関には「レンとは和解して、穏便に話し合いで収まった」と連絡して。今のままじゃ、わたしに問題があるみたいじゃん。レンがペナルティとか貰うのも嫌だし。だいたい、統括が勝手にわたしの家に来て、勝手に危害を加えた訳だし。

 二つ目は、シャドウの記憶をこれからすぐ人間界へ出向いて、戻して」


「あの猫の事は話がついていると言ったはずだ。戻すよう言われてる」


「絶対に戻して。

 そして最後の条件だけど」


 霧香の瞳が凍る。

 また、同じ性質のディーも鋭い視線を返すが、恐れが見える。


「シャドウを治したら、わたしの屋敷には二度と近付かないで」


「断る。俺が提供した屋敷だ ! 何様だリヴァイエル ! 」


 癇癪を起こし、カフェテーブルを蹴り倒す。

 しかし霧香はピクリとも動じない。

 人間界であれ程、借りて来た猫のような生活を送っていても、霧香の本質はやはり天使や悪魔なのだ。


「それには感謝してます。けど、わたしは水の悪魔だからと言う理由で人間界に追い出されたわけで……。でも貴方も同じなのに何で ???

 つまるところ、わたしとこの領土で暮らしたくなかったと言うことでしょ ? 」


「リヴァイアサンの雌が堕天したのは地獄中で噂になっていた。隠しようがない !

 お前はあの熱砂の荒野での恩を忘れたか !? 」


「覚えてるよ……。

 毎日毎日、夢に見るほど後悔して。

 何故あの時、よりによって……わたしを助けたのが貴方だったのか。


 だから、その後悔が仮説に行き着いた。

 自分の素性がこの領土でバレる事。貴方が言う『生物兵器』とは ? 自分の力の恐ろしさを知ってるから過剰に反応する。

 ヴァンパイア領土の統括が昔、天界を追放されたリヴァイアサンの雄だと……知られてはいけない。

 そうでしょ ? 」


「そうだ。

 上級悪魔が水魔法を欲しているのは確かだ。……地獄に存在しない力というのは恐ろしいものだ。だから俺も使わんし、匂わせもせん。

 俺も他の王にも……いや、記録にも残していない。知っていたのは俺を引き取った前王だけ」


「困った力だわ。お互いにね」


「……そうかもしれんな」


 ディーが剣を置き、椅子にもたれる。


「しかし解せぬ。自分で提供した所有物の動向が分からなくなるとは 」


「その為にお目付け役のレンがいるんじゃないの ?

 わたしのメンバー達は、皆貴方を嫌ってるし。レビュー★☆☆☆☆☆☆☆くらい。二度と顔も見たくないレベル」


「お目付け役になってない。レンはどうも、お前にうつつを抜かしているようだな。それの報告を信じろと ? それに、今まで一度たりとも報告書など無かった。

 逆に聞こう。お前をどう管理すればいい ?

 どんな報告も信憑性がない。俺は見たものしか信じんのでな」


 その時、この部屋のドアを激しく叩く音がする。


「ニグラム様 ! 民衆が ! ニグラム様 ! 」


「分かっている ! 何とか抑えろ ! 」


 その様子を霧香が悠々と見つめる。


「音楽魔法の魅了。早く解かないと、民衆全員わたしの虜状態になっちゃうかも ? ふふ、時間が無いですよ ?

 ここで認めて。

 音楽活動も人付き合いも、わたしの意思に任せて納得すると。

 断るなら……ここではなく、他の王の城の街でも歌いまくってもいいけど」


「脅迫だ。お前は自ら戦犯になるというのか ? 」


「わたしは歌っただけ。

 罪も無い人を、叩いたり、斬り付けたりしていないです。

 そうだなぁ。今日も名目上は『お世話になってる統括に、わたしの素晴らしい歌を聴いてもらいたかっただけ』みたいな」


「狐め ! 」


「どちらかというと、お互い蛇、かも」


 霧香は棚にあったティーカップを手に取り、指先から冷水を注ぐ。


「さぁ。どうする ?

 断ったら地獄中に、貴方がリヴァイアサンの雄である事をバラしてやる」


「タチの悪い……」


「最初にわたしの機嫌を損ねたそっちが悪い。

 わたしは人間にも、人間界のルールに従ってるレンや天使のハランにも、こんな事はしないし。

 貴方が人間界で地獄のやり方をしたから、わたしも遠慮なくやりに来た。それだけの事」


 そうして笑う。

 絡みつくようなおぞましい気と視線。これが屋敷に行った時に見た、怯えて仲間に縋っていた女と同じ者だとは考えられない程に。寧ろこの二人の根底にあるのは同属嫌悪なのかもしれない。


「ふん。大した女だ。拷問を耐え抜き、自ら堕天を選んだ天使……。その気骨は伊達じゃない……か」


 だが霧香のこの気迫に、ディーは予想外の綻びを見せる。

 そう。

 本当に予想外の、そのまた斜め上を行った。


「え !? わっ ! 」


 突然霧香を椅子から抱き上げると、絨毯の上に投げ捨てる。


「〜〜〜〜痛っ……」


「いい女だ。俺の物になれ ! 」


 そう言い、覆いかぶさった。


「……俺の契約者になれ。お前の部下諸共、手篭めににしてやる」


「くっ……」


 掴まれた腕が振り解けない。

 のしかかる重みは鎧混みの重量だ。

 霧香には為す術もなかった。


「レンと似てる顔でベタベタ触らないで ! 」


「ほう。やはりレンがお好みか ? 」


「やめ……契約が強制出来るとはいえ……王族として、あまりに下品で粗暴ね ! 恥は無いのかなぁ !? 」


「レンだって同じ事をするさ。お前の意思なく、血を啜ったはずだ」


 首を食まれながら、グラ付く脳内で霧香は冷静になるよう努める。

 ヴァンパイアの契約者は好きな時に契約を破棄できる。

 ディーは分かって、今自分を襲っているのか ?

 それに、どうも兄弟なせいか、レンに競争意識がある気がしてならない。

 しかしそれこそ、誤解だ ! ……と霧香は未だにそう自己認識しようとしている。


「あの、統括。

 わたしは……べ、別にレンが好きとかでは無くて……あくまでメンバーの中ならいい人だよねってだけで。

 何ならサイの音楽と、ハランの気が利くところと、キラくらい可愛くて、ケイくらい行動力あるレンが好きです ! 」


「……そりゃあ。最早、俺の知ってる身内では無いが ? 」


「とにかく、色恋ではありません。真面目に話してください。どいてったら ! 」


「動くな 」


 舌の這う感触が通常のヴァンパイアとは桁違いに強い。それだけ魔力も強いのだ。このままでは本当にゲソ組ごとディーの配下になってしまう。


「う……あ……」


 今までレンにも立てられた事の無い場所まで、深く深く牙が入る。


 ディーが一度身を起こす。

 霧香の瞳にはうっすら涙が溢れていた。契約はしなかったが、別な命令が飛んでくる。


「俺に逆らうな。服を脱げ。少し分からせる必要があるからな」


 霧香は朦朧とする意識の中、ディーを見上げて呟く。


「……無駄。

 わたしにどんな事をしても、わたしが折れる事はないもん」


 その言葉には重みがある。

 数々の苦難の堕天をしたリヴァイエルならではの拷問への慣れ。


「試す価値はありそうだ」


 この時、霧香はハランに貰ったアミュレットを硬く握っていた。

 いざとなったら。

 これ以上は許されない。

 だが、これは一度きりだ。タイミングを見計らっていたのだが……。


「……ヴォエッ ! 」


 ディーが突然嘔吐く。


「血が ! 臭すぎる ! 一体何を食べたらこうな……ウヴォエェ……後から来るタイプの臭味が…… ! 」


「……統括。

 流石にゲロをかけられた状態で襲われたいと思うほど、わたしも酔狂ではありません」


「ぐく………普段、何食ってるんだ !? 」


「あ〜。このところホームレスだったんで……。

 一日一回ご飯と……廃棄寸前の激安生卵を直飲みしたり……あとは、試食コーナーの燻製黒にんにくですかね ? 」


 蓮は銀NGだが、霧香は漬け物NG。そしてディーはオーソドックスにニンニクNGなようである。


「ま、魔法を……民衆の、解いてくれ……ウプ !

 分かった……認める。音楽活動を認めヴォエッ、認める」


「あ、そう」


 霧香はディーを押し退けると、ポケットから『REC』と表示されたスマホを取り出す。


「ちなみに統括。ちゃんと録音したからね。後から言って無いはききません。

 あと、民衆の方に聴かせたのはただの歌です。音魔法は使って無い」


 そう。

 城にぞろぞろやってきた街のヴァンパイア。

 普段音楽に触れることの無い彼らは、娯楽欲しさに押しかけただけだった。

 門番に「ディーが所有する、ただの音楽再生機が誤作動を起こしただけだ」と説明され、すぐにいつもの生活に戻っていた。


「ここって普段どれだけ楽しみが無いのか……」


「く……」


 ディーに恥じらいとも違う何か、別の感情が湧き上がる。


 この女を手に入れたい。

 服従させ、自分の有能さを分からせ、後悔させたい、と。

 だが、この醜態である。


「ウ……ウエェェ」


 無様に絨毯に四つん這い。そのままダストボックスを手繰り寄せる。


「んも〜。勝手に人を齧っておいて ! 失礼しちゃう ! 」


「す、すまん。水を……取ってくれ」


「え ? は ? 何か ? 」


「取って……下さい……」


 一先ず、今回は霧香の勝利となる。


 □□□□□


「いや、なんだこれ。なんの状況 ? 」


 ようやく全員が屋敷に戻るが、当然皆混乱している。

 特に蓮は喋りもしない。


「なんでこいつここにいるの !? 」


「ムカついたから、こっちからぶっ叩いて連れて来た。

 シャドウ君の記憶も戻してくれるって言うし」


 そう言う霧香の首筋にある牙の痕を、希星が目ざとく見つける。


「キリ、襲われたの ? 」


「「「は ? 」」」


 噛みつきが深過ぎて治癒が追いつかなかったのだ。


「あ、大丈夫。わたし生理的に無理だし、何もしてないよ。ニンニクが嫌いみたい」


 どよめく男性陣。


「キリちゃん、向こうで何してきたの ? 突然いなくなって、みんな心配してたんだよ ? レンなんか特に」


「もう大丈夫だよ」


「構わん。俺は霧香を我が妻に迎えたい ! 」


「えぇっ !? あ……あ〜……」


 一旦、全員で小声になる。


(あれだ。こういうヤツに限って、羽目外すと変態だったりな)


(普段抑圧されてるものが多い分、女性に対する接し方が分からないのかもね)


(僕、超ウケる。そしてドン引き〜)


(俺……兄の無様な変わり様に死にたい。縁切りたい)


(お前は悪くねぇよレン)


(これは……変態を見抜けなかったキリにも問題ある)


(そうだよね。部屋になんか行くから……。ストーカー被害に遭う子の、悪い方の例だよね)


(わたしだって無理だよ ! あんな強引に迫ってくる人)


((((強引に迫る…… ? ))))


「ちょ……マジで何があったんだよ……。護衛おれを心配させんなよ ! 俺の気も知らないでぇ〜 ! 」


「詳しく聞かせてくれ。歌詞に使えそうなシチュエーションはあったか ? 」


「サイ、着眼点が他人事なのやめろ……」


「だって俺、今日の夜からまた偽ホームレスするから今のうちに全員に絡みたい」


「そんな寂しいなら辞めちまえよ !! 偽ホームレスなんだから ! 全国の苦しいホームレスに謝れ ! 」


 霧香も自業自得。

 蜂の巣を突つきに行ったら、フェロモンを撒き散らした女王蜂になってしまった。


「魔法が使えん世界か。ふん、面白い !

 手始めに政治家の首を討ち取って霧香に捧げてやるぞ ! 」


「何百年前の発想 !? おい、どうすんだよこいつマジで」


「と、とりあえず、シャドウが来るまで屋敷から出すなよ。自室でテレビを見てもらおうか。ニュースとかバラエティとか普通のでいいから」


 そうじゃないと、恐ろしくて外も歩かせられない状態だ。

 しかし……混乱は更に続く。


「あのね。シャドウ君を戻して貰ったら、わたしもサイと合流しようかと思うんだ」


「「「「はぁ !? 」」」」


「今度はお金もあるから大丈夫だよ。わたしも結構楽しかったし」


「だからホームレスは遠足じゃねぇんだって ! 」


 希星がふと恵也を見る。


「……この場合、可哀想なのはケイだよね」


「え ? 俺も行かなきゃなの !? 護衛だから !?

 くぅ〜〜〜っ !! せっかく贅沢御屋敷に帰って来たのに ! 」


 ピンポーン。


 鳴り響くインターホン。


 気が変わらないうちにシャドウを元に戻して貰いたい。

 その為、今日は特別に樹里と咲を屋敷に招待した。


 だがこの分だと……樹里の反応が恐ろしい。

 笑いすぎで死ぬかもしれない。事実、笑い過ぎで心臓発作を起こした人間は存在する。増してあの巨体では、健康的とも言い難いため、有り得ない話でも無い。


「キリ」


 蓮が既に死んで三日後くらいの青い顔で霧香を呼ぶ。

 ディーと話したくない蓮は部屋に戻ると言い出す。


「終わったらすぐ領土に帰って貰え。

 自分で拾って来たんだから自分で面倒見るように。飽きたからって……。いや、飽きたらすぐ捨てて来なさい」


「捨て犬かよ……」


「う、うん。ごめんねレン」


 希星がドアを開く。


「いらっしゃ〜い ! 」


「あらキラ君、お邪魔します。まぁ〜 ! 良い家ね〜。掃除大変そうだけど、シャドウ君がいるものねぇ〜」


「わー ! すっごい御屋敷 !! お邪魔します !

 わー ! わぁー !! ここがメタバースで見れるようになるのね !!? 侵入し放題になるんだ〜 !! 」


 咲はキョロキョロとはしゃぎ回る。


「おはようございます樹里さん、咲さん。お忙しいのにすみません」


「いいのよ〜。さ、シャドウ君着いたわよ〜」


「預かろう、マダム」


 そのキャリーケースを受け取る、見知らぬ男。


「あら ? どなた ? 」


「我こそがヴァンパイア王政区 黒百合城の王、ディー · ニグラムである。今日から霧香の夫候補だ ! 」


「あ〜あの、DVのお兄さんね〜」


 案外ドライ……いや、かなりトゲのある返答。

 樹里は面白いこと意外、興味無い。一度軽蔑したら相手にしない。


「綺麗な方だ。豊満なボディは食べ物に困らないと言う裕福さを現している ! 」


 これには流石に咲が吹き出す。


「何それ !? そ、そんな口説き文句、日本でする ? 」


「成程ね。感覚が人間と違うからバグってんのね〜」


 メンバー全員、ディーの発言が恥ずかしくてしょうがない。何かズレている。見目の良い大型犬なのに運動神経ポンコツの様な残念さ。それも犬なら可愛いが、見た感じ『DVをする蓮』である。しかも樹里にはバグと言われる始末。


「まぁ、ちょっと説明しますんで……どうぞ食堂に。応接室は狭いんで」


 ハランが皆を誘導する。いなくなった蓮の落胆ぶりには、流石に恋敵云々を別にして、同情しか無かった。


 □□□□□


 樹里が去り、シャドウが元に戻った所でディーも渋々帰って行った。

 猫が変身するところを見た咲は、目を丸くしていた。


「シャドウ君おかえりパーティをしたいけど、わたしこれからCITRUSに行かなきゃ」


 シャドウは肩をゴリリと鳴らしストレッチする。


「構わん。記憶がそのままなのも感謝する。覚えたレシピも忘れていない」


「そっちかよ……。もっと怒ろうぜ」


「ディー · ニグラムに主人の許可無しに攻撃は出来んからな。仕方の無い事だ。

 俺を預かって貰った女性にも、後日礼をしたい」


 やられた本猫が冷静な為、恵也も矛先を納めるしかない。


「それにしても、キリはなんか気に入られちゃったね〜」


「なんも嬉しくないけど……」


 そう言い、広くなった食堂を見渡す。

 ディーの一方的な好意により、屋敷はなんと三階建てに進化した。

 咲はディーの過剰な愛情表現に、驚きを隠せない。


「愛情表現が一方的というか……。

 これ、あれよね。絶対プレゼント攻撃してくるタイプ」


「あはは、分かる ! 絶対毎日花束届くよ〜」


 咲と希星は大笑いしているが、それが真実なら早々にお断りしないと鬱陶しいと霧香は悩む。


 廊下から彩が顔を出す。


「キリ、服着替えて」


「はーい」


「メイク、もうレンが部屋にいるから」


「……」


 気まずい。

 恵也との一件を当てずっぽうでも言い当てたところからすると、自分は顔に出る方なのかと気を引き締める。


「レン来たよ。着替えるね」


 テーブルに道具を広げていた蓮がソファにいる。後ろ向きで表情は見えない。


 服に手をかけた所で一度考える。


「今日は黒い服か……珍しいな。ミミにゃんみたい」


 今日の彩のチョイスはゴシック路線だった。


「服に落ちるからメイク先。上着脱いで」


「うん」


 来ていたパーカーを脱ぎ、キャミソール一つで蓮の前に座る。


「……怒ってる ? 」


「逆になんで怒らないと思うの ? 勝手に向こうに行って。探したよ」


「そうだよね。ごめん」


 蓮の手が首筋に触れる。


「……っ」


 くすぐったい。

 それに、薄着の胸元から心臓の音がバレそうな恥ずかしさと……。


「なんで断らなかったの ? 」


「違うの。突然で抵抗できなくて……」


「ふーん。それって……こんな風に ? 」


 ソファに倒された霧香から蓮の顔が向かい合って見える。

 動揺を隠せず、思わず視線を逸らす。けれど抵抗はしない。


「違うよ……あの人は無理に……。凄く冷たい……飲み方する人だった……。

 レンなら……べ、別にわたし抵抗とかしないし……」


 手がするりとミニスカートの太ももを滑る。

 鋭い視線。自分の顔が紅潮していくのが恥ずかしくて、クッションで顔を隠す。


「……〜〜〜 ! 」


「……。

 ……俺はそんなことしないよ」


 蓮はすぐ起き上がると化粧水の小瓶を手に取る。


「さっき飲まれたのに、これ以上飲んだら貧血になるだろ ?

 CITRUSに行く前に血成飲料飲んでいけよ。人間の前で目の色が変わったら大変……」


 霧香が蓮にのしかかる。


「レンの頂戴 ? 」


「……ぇ」


 珍しくこれには蓮の方が動揺する。


「ダメ ? 」


「別に……いいけど……」


 断る理由など無い。

 だが、ディーのようにストレートに言葉をぶつけられない蓮にとって、霧香側から来られると苦しい毒。

 パフォーマンス内に留まらないこの感情に、この先も振り回されるのかと思うとモヤモヤが止まらない。


「もっと……この辺じゃないと、お前の牙は刺さんないと思うぜ」


「んむ〜慣れないな〜」


 少しのコロンと汗、男性特有の皮脂の匂い。

 霧香の小さい牙では大きくしがみつかないと上手く立てられない。

 覆いかぶさった胸から感じる蓮の鼓動に気付く。


 本当は怖かった。

 一度地獄に行ったら、もう帰って来れないかもと覚悟して行った。

 ディーと自分が今は対等でない事も分かっている。

 でもどうしてもシャドウにされた仕打ちだけは許せなかったのだ。


「……」


「……」


 離れてからも、二人は無言だった。

 蓮は丁寧に丁寧に、壊れ物を手入れする様にゆっくりと霧香に触れ、整えていく。

 霧香はディーの不快感を打ち消すように、それを受け入れる。


「グロスも塗って ? 」


「ん」


「髪も。梳かして」


 服を着てヘッドドレスをつける。


「さ、行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 □□□□□□□□□□


 CITRUSの会議室。

 予想よりも大勢の社員が集まっていた。


「ミミにゃん ! 」


「あ、霧香さん ! おはようございます。今日はゴシックですか」


「うん〜。初めて着たよ。絶対ミミにゃんの方が似合うねコレ。

 それより、人多いね。てっきり南川さんと凛さんだけかと思ってた」


「あ、それわたしもです。なんか広告 ? の事でって言われて」


「ミミにゃんはCITRUSで何かやるの ? 」


「わたしは新作RPGのヒロイン声優をやらせて貰ってて」


「あ、そうなんだ ! 声優やるって凄いね !

 確かメタバースのリリースと合わせるんだよね ? 」


「そう聞いてますけど……」


 そこへ話し合いが済んだ咲が水戸マネージャーと戻ってくる。


「えっと、ミミにゃんと霧香さん、あの二番目の席に座ってくれる ?

 リーダーと恵也君はその隣に」


 通された会議室。

 霧香の左右に咲、ミミにゃんが座る。

 対面に凛がいたが、プロジェクターの用意やらでバタバタしている。


 室内にいるのは、CITRUSの開発陣営が少しと広報、マーケティング部周辺の課だと説明される。

 だが進行役は広報のようだ。


「じゃあ初めます ! 」


 何も聞かされてないゲソ組とミミにゃんも、次の言葉に思わずひっくり返りそうになる。


「VEVOのリリースを延期して頂きたいです」


 ザワザワ……


 恐らくアイテールから来たであろう社員がどよめいている。遠くに南川がいるのが見えるが、難しい顔で資料を見つめている。


「CITRUSは次のメタバースシステムに全力投球します。

 その為の集客を考え、蛯名 凛さんプロデュースによる広報戦略が纏まりましたので報告いたします」


 まず元々の概要は資料にある通りだ。


 CITRUSで展開するメタバースを『LEMON』と名付ける。VR対応。初期アバターと登録は無料。

 プラットフォームになる広場からアクセス出来るのは、野外ステージがある場所を中心とし、左エリアに据え置きゲームの起動ゲート、右エリアにソーシャルゲームの起動ゲートに分かれる。VEVOは右、新作RPGは左である。

 広場の裏手の森の中にモノクロの居住地域、精密にAI模写された屋敷と霧香達が観れる。


 広場中心から伸びる大通りの先はショッピングワールドである、街に繋がるゲートがある。

 各種、ショップが並び、ログインボーナスで貰えるゴールドで、バーチャル装飾品などが買える。

 他、課金により1レモン=180円とし、ユーザー登録をした住所に送付する形で、グッズが購入出来る。

 既に販売予定なのが、LEMON限定VEVOのオムニバスCD、新作RPGのキャラ全種のアクリルスタンド。

 他にも食品メーカーや玩具メーカーとのコラボ商品が交渉段階である。


(なんか文で読んでも分かんないね)


(そうですね、実感は無いですね)


 凛が前へ出る。


「皆さん、この看板ってご存知っすか ? 」


 映し出されたのは、真っピンクの色合いで埋め尽くされた背景に埋もれるブロンド美人。

 一定の年齢層の人間が「あぁー」と声を上げる。


「謎の看板、そして謎の美女 アンジェリンです」


「懐かし ! 」


「今でもこういうの日本にあるよな ? えっと……歯医者かなんか ? 」


「そうっす。原理は同じっすね。

 このアンジェリン看板は突然ロサンゼルスに現れた後、アメリカのあちこちに出来たっす。

 けど、なんも書いて無いんすよ。電話番号以外。

 なんの看板なのか、この美女は誰なのか、企業の広告なのか全てが謎だったんす。

 でも、どう見ても美人っすよね。セクシーでピンクがまた想像を煽るというか」


「実際、本当に電話番号だけ ? かけるとどうなるんです ? 」


 比較的若い社員が質問する。


「電話をかけると自動音声が流れる仕組みで、一応アンジェリン本人の声なんすけど、ファンクラブへ入会の勧誘音声になるっす。

 けど、そもそも女優でも無いし、モデルなのかタレントなのか、それすら分からない正体不明の女性。そして怪しいファンクラブの勧誘に、謎の女性として一斉を風靡したと言っても過言では無いっす」


「つ、つまり、それをこれから我が社で…… ? 」


「ビンゴっす。

 けど、CITRUSはゲーム会社なので露骨な怪しさは出せないんすよ。それに日本の看板の設置、プリントされる人体の露出度なんかは地域によって法が全く違ってるんす。

 この近辺でOKな物が、他の場所ではNGとかザラっすね。

 確認しながら、どのショットを使うかよく考えないとならないので、大変っちゃ大変すけど。


 そこで、広告にはモノクロのKIRIさんとTGCにも出演経験のあるミミにゃんに絞ろうと思います」


「ロゴ無しで ? 写真だけ ? 」


「YES ! アンジェリン方式で、最初は写真のみで行きます」


 どよ……


「そしてLEMONリリースの12月までの残り4ヶ月で、ちょっとずつ情報を描き足して行くんす。

 最初は檸檬の輪切り。マークだけじゃまだまだ不明っすね。

 次にLEMONのロゴ。最後に情報公開するのが、CITRUSのLEMONの特設サイトに繋がるQRコードっす。

 歩行者の多い場所にQRコード、車で通りすがる場所には『LEMONで検索♡』とかですかね。バナー広告も『ここをタップ♡』とかで。

 スケベを釣りましょう」


 妙案。

 だが、既に輝かしい前歴のあるアンジェリン看板は中年男性陣は納得の色もみせる。


 空気を読まず恵也が挙手。


「あの、結局そのアンジェリー ??? ってどうなったんすか ? っていうか、その方法だと看板だけで凄い資金がかかりそうですけど……あ、いえ、あの !! CITRUSさんは大きい企業ですし、お金の事とか…… !! そう言う心配ではなくて !! 」


 慌てる恵也に彩が落ち着いてフォローを加える。


「モノクロのリーダー、深浦です。

 えー……うちの恵也が言いたいのは、恐らく設置する看板の数や誇大広告等に当たらないかお聞きしたいんだと思います」


「OK !

 誇大広告って、サービスの内容が、実際表示されてるよりクソ……失礼しました。お客さんが勘違いするような広告っす。

 でも、LEMONはそもそも無料なので、損はさせてないっすよ。それにログインボーナスで一日50ゴールド貰えて、看板撤去までは初回サービスで500ゴールド貰えるんす。

 どのくらいかと言うと、今ミミにゃんが付けてる猫耳をアバターショップで買うとなると、400ゴールドっす。これはあとから調整入るらしいんで、そっちの部署に任せますが、広告から登録すればボーナスが多いんす。

 だから、ぶっちゃけ誇大じゃねぇんすよ。お得っす。

 あとぉ〜。アンジェリンはセクシー路線でしたけど、まぁKIRIさんがモデルになるとして、セクシーなリアル系か、日本人好みのアニメ系かで意見は割れてます」


「セクシーな方が、アクセス数は稼げるよな ? 」


「いや、うちはゲーム会社ですよ ? あまり卑猥な物は出せませんよ」


「例えば……看板以外にも、ビジネスホテルなんかにポンッとPOPが置いてあったら見ますよね ? 」


「まぁ、女の子だし……可愛さはド級ですもんね」


「そうすると、リアルな方で、露出度少なめが……」


「露出度少なめでもセクシーに見せると言うのは ? 」


「それならデザイナーの方で外部にお願いするとか……」


「アンジェリンは1500枚の看板で、ファンクラブが音声ガイダンスだけで2万人の猛者ですからね……看板1500枚は無理でも、確かにPOPやチラシなら」


「……この戦略って、ゲーム会社CITRUSと言うのを隠さないと意味が無いですね。難しいけれど、なんかこれはこれでワクワクします」


「そうなるとミミにゃんは今回声優ですし、最終的なネタバレに近いですね」


「どうでしょう、モデルさんは化粧や服でイメージががらりと変わるからねぇ」


 恵也は笑顔のまま彩に聞く。


(結局、なんなんだアンジェリンって !!? )


(あとからググれ)


「そうなんす。それまでKIRIさんには特に、顔出しを控えて貰いたいんす」


「え ?! 」


「そうだね。謎の美女である事がキーだからね。

 今日初めてお会いしたけど……君、モデルじゃないの ? 」


「ロックミュージシャンだよね ? イケメンといる子」


「確かに一度見たら忘れない綺麗さだよなぁ」


 嬉しいには嬉しいが、活動制限がかかるとは。


「サイ、どう思う ? 」


「何が ? すっごい面白いと思う。むしろ光栄。謎ってのがキリらしいよ」


 彩は全肯定。宣伝方法というより、霧香が評価されて単純に嬉しい。


「あの、看板の色合いはやっぱりピンク的にするんでしょうか ? 」


「エロi……失礼しましたコホン。あ〜、CITRUSのイメージってもんがあるんで、流石に卑猥な事を連想させるようなピンクっぽさは避けます。桃色に罪は無いっすけどね。

 例えばCITRUS=柑橘系らしくビタミンカラーとか。真っ黒に黄色い檸檬とKIRIさんの青い髪もいいっすよね。

 最終的にはミミにゃんと百合っぽi……ゲフンゲフン ! な、仲良く並ぶとか。男性ウケのいい感じに」


「どうしても髪色は青のままでいたいんですが……撮影に影響はありますか ? 」


 霧香の地毛が青いとは知られてはいけない。


「その時はウィッグもあります。心配無いっすよ」


 そこで進行役が再び出てくる。


「アイテールの皆さん、どうでしょう。

 VEVOのリリースをスライドさせていただくと有難いのですが」


 南川は腕組みをしたまま、静かに返す。


「うん。面白いね。こっちも書き下ろしで難産になってるアーティストさんが多くて。ちょうどいいかな。

 分かりました。リリースを年始に。それ以上は譲れません。必ず十二月にLEMONプロジェクトを成功させましょう」


 決まりだ。


 社員の半分が去り、モノクロと咲、水戸とミミにゃん含め、撮影のスケジュール調整に入った。

 恵也は会議室を出てすぐアンジェリンを検索していた。

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