霧香と恵也が出た頃、蓮もバイトへ向かう。車のキーがポケットにある事を確認し、玄関の姿見で襟をただす。
その時、薄らと写り込む背後の人影にギョッとする。
「お前……」
彩が立ってた。
「何 ? 今日は俺をドッキリさせる動画とか撮ってる ? 」
「え ? いや、違うけど ?
俺も出かけてくる」
「こんな朝から珍しいな」
「ミミにゃんから連絡来たから会ってくる」
「へ〜。ミミ……ミミにゃん !!? 」
蓮が彩の肩を揺さぶる。
「正気か ? まだ何も聞いてないし……って言うか…… ! 」
「一人で女性と喋れるのか ? 」と言うところを慌てて飲み込む。霧香の話では、仕事と割り切った時は案外いけるようだと聞いていたからだ。言ってしまったら急に意識してしまうかもしれない。
「ま、まぁ。なんて言うか。頼むぜ。が……頑張れリーダー」
蓮の渾身の励ましを聞き流し、どこか上の空の彩だ。
「……あのさぁ」
彩は眉を寄せ、口をウィっと横に広げて蓮を見上げる。
「『ミミにゃん』って、『ミミにゃんさん』って呼べばいいの ? どうなの ? そう言う社会性、俺知らない」
「あ〜。最初は『ミミにゃんさん』でいいんじゃない ? で、相手が『ミミにゃんでいいですよ』とか『かしこまらなくてください』とか言われたら、後は雰囲気でさ」
「雰囲気……」
かなり不安そうではあるが、蓮も仕事。ハランは先にシフトに入っている。恵也も霧香もいないのだから仕方がない。これが彩の仕事である。
「気になるけど気が重い」
蓮は時刻を確認すると、ふらふらと出て行った彩を呼び止める。
「どこまで ? 」
「楓JAPAN芸能の隣のスタジオだってさ」
「 ? ああ、地下の。ダンスとかやってるところか。
乗ってけよ。時間あるし近くまで送ってく」
見る限り徹夜続きで彩はフラフラだ。事故にでも合われては大変だ。
「ありがとう助かる」
車に乗りこみシートベルトを締め、蓮が思い出したように話す。
「霧香のメイク中、LINE鳴ってたよ。ミミにゃんから。『どんな話してるの』って聞いたけど、楽曲依頼の話は微塵も出てこなかったな」
「そう……」
「話が出ないのも怪しいよな。それであっちから今日会いたいって連絡来たんだろ ? 」
「向こうはマネージャー通して、モノクロ専用に使ってるスマホに連絡してきた」
「うん………まずその番号、俺らにも教えようぜ……。そんなスマホあったのかよ」
「……中学二年……まともな話し合い出来るか分からない……」
「まぁ共通の話題はあるわけだし……ハニートラップとか、セクハラ発言とか気をつけr……………………お前は大丈夫だな」
車を走らせ住宅地から幹線道路へ差し掛かる。
「そうだ。さっき霧香に聞かれたんだけど、駅のストリートピアノで『凄いショパン』弾いてる学生って、お前心当たりある ? 」
「……ショパン…………。ピアノ飛び抜けて凄い学生…… ? 何人かいるけど……俺が知ってるのは、駅で弾くようなタイプの人達じゃないな」
「そう。何か凄かったらしいよ。あいつが言うんだから、相当上手いんだろうな。彩なら知ってるかなと思って」
「…………あまり……良い印象が無いな」
昔。
自分がオーケストラをやっていた頃を思い出す。
控え室から離れ、その時たまたま通り掛かった別の楽屋。
このピアノは美しい。
そう思い、覗いた事があった。
まだ年端もいかぬ園児。激しく叱責する母親。
これでは数年後までは続かない。そう彩は判断した。
本人が余程音楽が好きでなければ。
今頃、成長しピアノを続けているかも怪しい。
だが蓮の話を聞いて、真っ先に思い浮かんだのはその子供の音色だった。
□□□
「ここでやるんだね。お客さんと楽団の人が一緒にトイレとかロビーに溢れてるの不思議だね」
「確かにな。根本的に団体競技だし、ファンが殺到するって無いのかもな」
殺到することも勿論ある。
だが一般の楽団員に限っては追っかけなどはいない。
複数の人間に囲まれている奏者はいるが、恐らく部活の後輩や、友人知人、そんなところだ。
「ピアノまだやってるかな ? 」
「十二時までだろ ? 今、十一時。最後の二、三組くらいじゃね ? 」
二階に上がり、大ホールの扉を開け放つ。
聴こえて来る可愛らしい曲調のピアノ。
「前の方は身内でいっぱいだね。後ろで見よ」
(静かに ! )
四歳程の幼女だ。
小さな掌で一生懸命、鍵盤を押し込む。
霧香のテンションが上がっていく。
(可愛い ! )
(静かにって言ってんだろ ! )
やがて演奏が終わると水色のドレスを来た天使はぽてぽてと下がって行った。
(はぁ〜。なんかこういうのも新鮮)
(確かに。ちょっと癒されたよな)
次に、あの子犬を転がしたような幼女の余韻が消えぬうちに次の少年がスタンバイに入る。
(あと何人だっけ ? )
(確かプログラムに……)
ーーーーーーー♪ーーーーーーーー
刻が止まる。
それは生き物の本能か。
それとも服従してしまう程の攻撃力なのか。
少年の演奏が始まり、霧香も恵也も一瞬で五感を支配される。
激しい連弾と力強い鍵盤の押し込み。
絶妙なペダルのタイミングと会場全体に溢れ満ちる音。
何より中性的で可憐な面持ちの少年に、つい見入ってしまう。
(おい、キリ)
霧香は立ち上がり、最前列近くまで移動する。
少年の叩く鍵盤を見ながら……いや、ステージから湧いてくる様な音を奏でる少年の音色で確信する。
ストリートピアノを弾いていたのは、この少年だ。
霧香は入口で手渡されたパンフレットを見る。
今日の演奏会のプログラムの他に、もう一枚別のプログラム表が差し込んである。午前の子供ピアノの演目順、そして名前だ。
少年の名は 『
中学二年。
ピアノ教室は所属無し。
霧香はもう一度ステージを見上げる。
椅子から立ち上がり、お辞儀をして下がって行く。
一連の動きですぐに気付いた。
血の匂いがする。
新しい怪我では無い。
けれど少年の歳で、更に男性なら尚更不自然な血臭。普通より強い血の匂いだった。
霧香は釣られるように希星の後を追う。だが、霧香は客席、希星はステージ袖。慌ててホールから出て、恵也に呼び止められる。
「キリ ! どうしたんだよ ? 」
「あの子…… ! あの音だ ! あのピアノなの ! ずっと探してたの ! 」
「何 ? なんの話 ? 知り合い ? 」
「ううん。一度駅のピアノで聞いたことがあるけど、誰が弾いてるか分からなかったの ! でも、見つけた ! 」
「いやいや……。
あー……あのまま帰らねぇし、楽屋にいるだろ」
恵也は一度、霧香を落ち着かせると歩きながら楽屋のある一階に降りる。
恵也は演目表を取り出すと、希星の名と年齢を確認する。
「ファンですって言うの ? 相手中学生だぜ ? ってか本当に本人 ? 顔確認してないんだろ ? 」
「わたしなら音で分かるよ。あの子、今手加減して弾いてた。でも、細かい技術は隠しきれない。鍵盤楽器は弦楽器と同じなの。
それに、一度染み付いたら手抜きしても隠しきれないよ」
「お前が言うならそうなのかもしれないけどさぁ」
会ってどうするのか。
霧香はただ希星の無事を確認したかった。僅かな血臭が何か胸騒ぎを掻き立てる。
霧香と恵也が楽屋のある廊下に差し掛かると、一人の女性が声をかけてきた。
「もしかして……キリさんとケイ君 ? 」
ウェーブした黒い髪の女性。
バイオリンを持つ左手には結婚指輪が光る。小綺麗な女性だが歳は樹里より更に上だ。
「あ……楽団の…… ? 」
「バイオリン担当の真理です」
「お姉さん、あれ ? 俺見た事ある気がする」
恵也が手をポンと叩く。
「初日の公開配信の時 ! 最前列にいました ? 」
「いたいた〜 ! 深浦君がバンド始めるって聞いて。近くで公開してるなら行こうかって話になって皆んなで押しかけちゃった !
迷惑だったかな ? 」
「全然 ! あんなに人が入ると思わなかったから、大成功でしたよ ! 」
真理は言い出しにくそうに、霧香を見つめる。
「貴女のベースを聴いた時に、なんだか納得しちゃった。
きっと、深浦君は貴女と音楽をやるのが刺激的なのね !
少し安心したの。動画でも、まだ彼がバイオリン弾いてるのを見て……音楽を続けている事が。
楽団の内輪揉めが原因だったから……。音楽から離れて欲しくなかったの……」
「サイは……多分一生音楽から離れられないと思います。本当に好きだから」
「そうだな。音の中で呼吸してるって感じ」
「良かった」
真理は深々と頷く。
「お姉さん、サイの元カノだったりします ? 」
「あはは ! 違うよ ! そんな若くないわ。
深浦君の母親が中学の先輩なのよ」
「母親……」
「ん……。恋多き人でね。でも深浦君に惜しみなくバイオリンだけは……ほら……結構経済的にも大変なのよ。子供のサイズから何度か買い替えが必要な楽器だし……。
だから今、バイオリンを続けてるなら……それだけでも……」
再婚相手が出来た時、母親は彩にバイオリンだけを預け、家に帰らない日が続いた。バイオリンの騒音で近所から苦情が入り、子供一人放置されていた所を保護されたと言うのだ。
「深浦君は……バイオリンに関しては凄くストイックな人だった。環境がそうさせたのね、きっと。
皮肉にも、彼のバイオリンは多くの人を魅了した……一緒に出来なくなって残念だったんだけど、今元気なら…… ! 」
真理は「一方的にごめんね」と言い、浮かべた涙を止めようと天井を見上げる。
「大丈夫っす。あいつが音楽辞めるとかありえないし」
「そうそう。バイオリンだけは本当にガチで弾くもんね」
二人の言葉から察せる今の彩の様子に、真理は安心して微笑む。
「あ、そうだ。
真理さん。こいつが会ってみたい奏者がいるって言い出して楽屋の方まで来たんですけど、会えますかね ?
日向 希星くんって言う、さっきピアノ弾いてた子供なんすけど」
恵也の言葉に、何か真理は違和感のある様な反応を見せた。
「ピアニスト ? 中学生の子 ? ど、どうかな…… ? 」
「やっぱり押しかけ禁止っすかね ? 」
「あー……いや、そんな事ないと思うよ。
ただ、楽屋にはお母さんも来てると思うんだけど……厳しい人だから……。
一緒に行くわ」
そう言い、真理は楽団員で溢れかえる廊下へ霧香と恵也を通す。途中「モノクロだ ! 」と声が上がり、霧香は会釈を返す。ここにいる数十人があの公開配信に来てくれていた人間達だ。
「この部屋よ。
わたし、ここで待つね。嫌われてるの」
真理が霧香にゴメンのポーズ。
霧香は一度深呼吸をするとノックをするが、鉄製の防火扉のような作りだ。中に聞こえるはずもない。
仕方なく、数センチ開けて声をかけるしかないが……。
「なんなんだ ! 今日の演奏は !! 」
とてつもない女性の声量と罵声に思わず肩が飛び上がる。
「ご、ごめんなさい ……ごめんなさい」
「くだらない演奏すんじゃないよ ! 何やらせても駄目だな」
それと同時にパンッと乾いた音が響く。
霧香はドアノブを見つめたまま、固まってしまう。だが、廊下の雑音は中にも届いている。
扉が空いていることに気付いた母親がガバッと扉を開けると、霧香にキツい視線を向ける。
「あらやだ。
何か御用でしょうかぁ ? 」
突然の豹変に霧香も恵也も硬直する。
「あ、あの希星さんの演奏が素晴らしかったので、少しお会いできないかと思って」
「あらーありがとうございますぅ〜。じゃあ、私はお邪魔かしら ? 」
「いえそんな事は……」
「どうぞ」
母親は扉を開けると、機嫌良さそうに出ていった。
あの母親がどんな人間か、大人なら誰でもすぐに理解出来る。
「青い髪のお姉ちゃん ……」
希星は霧香を見るとポカンとして、無意識的に呟いた。
「ベースのお姉ちゃん ? 」
「え ? 知ってんの ? 」
「う、うん。楽器屋さんの試奏ルームで弾いてるの見た事ある」
霧香と恵也が顔を見合わせる。
「はは ! お互いに気になってたのかよ ! 運命じゃん ! 」
「希星君、駅のストリートピアノ弾いてたでしょ ? 」
「な、なんでそれを…… ! 」
「わたしもその音が忘れられなくて、探してたの。まさかここで会えるなんて ! 」
感動の再会 !
……とはならなかった。
「は、早く帰って ! 駅で弾いてたのがバレたら怒られちゃうの ! 」
尋常な怯え方では無かった。
「ケイ、扉抑えてて」
「えぇ !? わ、分かった」
霧香はそっと近付くと、希星の袖を捲る。普段、希星は絶対に見せるなと母親に念を押されている。だが、霧香に対して、何も抵抗心は湧かなかった。
「…………」
遠目で見ていた恵也が思わず、顔を顰めて視線を逸らす。
酷い傷跡だった。切り傷も煙草を押し当てた火傷のあとも。ありとあらゆる家庭環境がそこには鏡のように写し出されていた。
「ピアノを弾かせるのにどうしてこんな…… ! 」
霧香は小声で呪文を唱えると、ゆっくりと腕を撫で上げていく。
「え…… !? 」
まるで脱皮でもしたのかと言う程、希星の腕の傷跡が消えて白い腕に戻って行く。
「ま、魔法 ? なんで ? 凄………」
「ごめんね。わたしも火傷の痕だけは消せないんだ」
「あ、ありがとう」
「ねぇ希星君。困ったことがあったら連絡して。音楽の話とかでもいいよ」
「……うん」
霧香が差し出したスマホの電話番号とSNSのIDの書かれた紙を、希星は急いで楽譜の隙間に隠す。
母親が戻ってきた。
「どーぞー。自販機のお茶で申し訳ないですけど〜」
お茶を差し出してきた。希星の緊張が霧香にも伝わる。
「ありがとうございます。お話出来て良かったです」
「す、すげぇピアノだったもんなぁ〜大人なんか目じゃねぇよなぁー」
恵也も空気を読む。そして霧香を早く切り上げさせなければならない。不穏な霧香の精神状態では、母親が逆上するような事を言いかねない。
「よくここで演奏されてるんですか ? 」
「ええ。月に一度は ! 」
「じゃあ、また聴きに来ます ! 今日とか、本当に勢いで押しかけてすみませんでした、しかも手ぶらで」
「いえー ! そんなことないですよぉ〜。またいらして下さい〜」
霧香と恵也。二人は母親に頭を下げ、楽屋を後にする。
廊下に出ると、扉から見えない位置で真理が不安そうにこちらを伺っていた。
「……大丈夫だった ? 」
「ええ。まぁ。あの、真理さんあの子……大丈夫なんすかね」
「実は……警察や児童相談所には何度も通報してるんだけど……。希星君本人が否定するのよ」
「まじか ! 今だって……でも、気付かれたくなかったら傷跡隠すよな ? 」
あの時、霧香は拒否される事が怖くて、少し強めの魅了フェロモンが出ていたかもしれない。
「多分だけどね……。家から離れるとピアノが弾けなくなるからじゃないかって皆、噂してる」
「ピアノ……」
「でも、そうだよねぇ。やっぱり無理にでも……これって大人の仕事だよね……。
でも実際問題、難しいみたいで……」
通報があっても保護される児童は少ないのが現状だ。ましてあの母親の様子だと外面はいいのだろう。上手く隠し通すに違いない。
「何とか出来ればいいっすけどね」
真理と話す間、ずっと無言で考え込む霧香を、恵也は不安に感じた。