「ぎゃ ! 」
霧香がスタジオを出たところで吃驚して声を上げる。
ドアのすぐ側に彩がボーッと立っていた。
霧香の声を聞きつけて、廊下に顔を出した蓮も少し驚く。
「え ? お前……ずっといたの ? 声掛ければいいのに」
「いや、よく分かんないけど入りにくい気がして」
「別になんもしてないよ」
彩がそう感じた、というだけで、音や声が漏れていた訳では無い。霧香の繊細な感情だけ伝わって、何となくとどまったのだ。
「出直そうか、迷ったんだけど……もう徹夜で頭グラグラするし階段登りたくない。無駄に広くて歩幅狭い階段何アレ辛い……」
流石にあまり眠らない彩もお疲れ様モードである。
「キリ、部屋のドアノブに服掛けといた。蓮、キリの化粧、頼んでいい ? 」
「いいけども。じゃあ飯食ってから呼んで。何時出発 ? 」
「分かんない。ケイに聞いて」
「なんでお前が知らないんだよ」
彩は蓮に向き直ると、妙に真剣な面持ちで声をかけた。
「蓮、ちょっといいか ? 」
そう言い、二階を指差す。彩が部屋に来て欲しいと言う。自ら部屋に誰かを呼ぶのは珍しい事だった。
「わたしリビング行ってる〜」
霧香が興味無さげに朝食へ向かう。
蓮が意外そうに彩を伺う。
「……込み入った話 ? 霧香が出掛けてからでも……」
「何となく……早い方がいいかなって。
あと、曲の相談も少し。ハランは歌詞書けるけど曲は作らないって言うし」
「ん。おっけー」
彩と蓮。二階へ向かう。
「俺が何してたか、分かってて開けなかったんだろ ? 」
「……キリと契約してから匂いにも敏感になった。キリの感情も流れて来るし……正直、案外アンタとキリの距離感が近いの知って、驚いてるかな」
ソッと部屋の扉を閉める。
「契約した瞬間に、少しはヴァンパイアの事とか、魔法の仕組みくらいは理解した。
だから同意の上でキリから血を貰ってるなら……別に俺は何も……」
「何も口出ししないって ? そんな顔に見えないけど」
「いや……なんて言うか、キリを女性として見てないから、急に性別感を出されると女性だった事をふと思い出すだけ。
こう……カップルのやり取りは……あんまり見たくない」
「変わってんな。同じ事をハランが言ったら確実に嫉妬心の言葉だけど、お前は本気で言ってるもんな。
好きな人とかいない ? 」
「いないな。人としては好きな人いるけど、それは恋愛じゃないだろってよく言われる」
「……プラトニックなのかなって気がするけどな。
今までの歌詞とか……恋愛しないで書けるものなのか ? 」
「殺人事件を解明する探偵モノで、作家が人を殺したことがないのは当然だろ ? 書けるよ」
「それ、同じかな…… ?
まぁいいや。それで ? 」
彩がデスクからUSBを取り出し、印刷した楽譜と共に蓮に渡す。所々、赤ペンが入れてある。
「この辺りの、流れがいまいちしっくり来なくて。サビのタイミングを気にするとベースはどう入れるかなって……二小節だけなのに何度書いても気持ち悪くて」
「あー……。じゃあ、後で見ておく」
「あとは……」
彩は少し言いにくそうに、額を擦りながら言葉を探す。
「あのさ。ミミにゃんってモデル知ってる ? どういう子 ? 」
「……」
蓮は深刻な相談と受け止め、壁際にもたれる。
「そうか……お前……そう言う……。こう、極端な年下好き……って事なのか」
「違うが…… ? 」
中学二年のミミにゃん。ファンもさぞ大人の男性だって多いだろうが、どうもそう言うことでは無いようだ。
「実はアイテールの企画に、ミミにゃんも参加が決まったらしい」
「ふーん。あの子……いや、会ったことは無いけど、知ってるよ。でも歌ってやってた ? 」
「今回初めてらしい。それでうちに音楽の依頼来た」
「…… ? それはアイテールの指示じゃないよな ? 」
「本人の希望らしい。
ケイに聞いたんだけど、キリってその子とLINEのやり取りしてるの ? 」
「交換したって話は聞いたよ。やり取りは……してるんじゃないか ? 最近、スマホ持ち歩くようになったよな」
蓮も腕組みをして考え込む。
彩の勘は割とよく当たる。心配事があるなら、聞いておく必要があるだろう。
「まぁ良好な関係ならいいんだけど。
でも、モノクロに作曲依頼してくるなら、キリにもそう言う話題出さない ? やり取りしてたらキリは聞いてないのかなって」
「確かに。霧香はそれを聞いたら絶対、お前には言うよな」
「……ミミにゃんがキリに言わないで、モノクロを指名してくるの……気味悪くて。ソロミュージシャンの早河 夢子とかは楽曲提供も積極的にしてるし、ミミにゃんの売れっ子ぶりならそっちに頼んだ方が売れると思う。なんで俺なのかなって」
「でも……ミミにゃんの事務所って、咲さんも出入りしてるんだよな ? 咲さんの根回しなんじゃないの ? 」
彩は、早い話ミミにゃんの曲など作りたくないのだ。演奏ありきでキリとバンドを組んでいる訳で、歌だけ歌って貰うなら自分でもいいし、女性曲ならバーチャルボーカルキャラを使えばいいとさえ思っている。
「咲さんに聞いたら、遠回しに断りたいオーラが……俺、出るから……連絡できなくて」
「あぁ……確かに。なんで女にだけそんな不器用なのお前」
「そんなこと言われても。
…………話すのは無理だけど……。俺、割と人を見抜くのは得意なんだよね」
蓮は「そう」とあっさりした返答を返すが、ここにハランがいたら「ホントにそうだよ ! 」っと同意しそうだ。
「精力的に活動してるのは結構な事だけど……モノクロにちょっかい出されては困る」
「はっきり言えよ。つまり、キリを潰しにかかってるって事か ? 」
「有り得なくは無い」
似た服装が売りの二人だ。
それもミミにゃんは本業がモデル。
霧香が人外で魅了魔術を使っている事など知らない。
先日二人で撮った写真は話題になったが、霧香とジャンクダックのいざこざで更に霧香は人の目に触れ、自分と常に比べられている。
対抗するようにゴスロリ専門の彼女は、甘ロリも多く着るようになり、インスタの更新速度は今までの倍になっている。
音楽の事しか頭に無い霧香は、服も与えられた物を着るだけ。特に気にしている様子は無かったが、彩はそれらを静観していた。
「潰す……って言っても。ミミにゃんって子が霧香ほど歌えれば可能なんだろうけど……。
無理じゃないか ? 」
「キリの音楽、歌は魔法関係無いんだよな ? 音魔法は楽器だけって聞いてる」
「もし、歌唱力で差がついてしまったら ?
別に関係ないね 。それで、俺たちが何か変わる ? 変わんないだろ」
「……そうだな。確かに」
「ま、単純に歌いたいからって理由ならいいけど、悪意があったら……確かに鬱陶しいな」
野心家であると判断するミミにゃんの本性とは……。
「霧香には俺が探ってみるけど……ミミにゃんならハランの方が情報早いかもな」
「そうなの ? 」
「学生タレントの事は同じ学生がよく知ってるものだから。猫かぶってると、どこかでボロは出てるよ」
人の事は言えない。
霧香だって、綺麗な格好をしていても部屋は汚部屋である。
「楽曲提供の返事はいつまで ? 」
「保養所の後。お盆前にはって」
「分かった。一旦、よく考えよう」
□□□□□□□
屋敷のエントランスのピアノのそば。
腕組みをするシャドウと、ピアノの椅子に腰掛けた恵也が話し込んでいた。
「気をつけてな」
「ああ。でもジャンクダックの連中が来るような場所じゃないし……」
「分からんだろ。とにかく霧香を一人にするな」
午前九時。
ピアノの練習をしている子供もみたいと霧香に言われ、早目の出発となった。
恵也が準備を終え、先にエントランスで待っていたらシャドウがピアノの上で猫になり寝ていることに気付いた。だがシャドウは恵也を見るなり人型に変わる。
恵也は猫型のシャドウを構いたくて仕方が無いのだ。シャドウはそれが煩わしい。
「シャドウくん……なんであんな強ぇんだ ? 」
「元々野良だからな。食べ物一つで命懸けだ」
「でも、猫の餌ばら蒔いてる奴とか結構いるじゃん ? 」
「ああ言うのは一時だけなんだ。他の人間に注意されると突然来なくなったり、ポケットに入る量しか持ってこなかったり不安定だ。それに子供も苦手だ。何故か今はそうでも無いが、当時は……仲間を拐っていくやつもいた」
「飼うからじゃないの ? 」
「いいや。次の週には公園に……。死んで行った仲間が多い」
「え ? それ犯罪だよな ? 」
「……人間は恐ろしい。昨日まで何でも無かった奴が、急激に変わったり、動物に八つ当たりしたりする」
「…………」
「常に外は危険だ。公園という小さな世界ですら、色んな人間を見た」
極端かもしれないが、シャドウの見てきた人間の社会は酷く悪意に満ちていた。
当時、彼の指す公園では子供の連れ去りや高校生の虐め、サラリーマンの自害など、色々な事が起こっていた。
シャドウは保護猫カフェに引き取られてからは外に出ていない。
今も屋敷の敷地からは越えられない結界があるのだ。
「外に戻りたいとか……買い物行きたいとか無い ? 」
「やった事がないから分からんな。だが野宿はごめんだ……今に不満は無い」
「そっかァ。じゃあ今日はお土産に、にゅ〜る買ってくるぜ〜」
そこへ霧香が階段から降りて来た。
「ごめんごめん。おまたせ。
あ、シャドウくんといたの ? 」
「あのさぁ〜。今日、朝から手合わせして貰ったんだけど、どうすればいいの ? って感じ。
強すぎて訓練にもならないんだけど ? 」
「そんな事わたしに言われても……」
シャドウも頭をポリポリと掻く。
「俺も他人に教えた事は無いからどうしていいか分からん。こいつ、猫パンチ九連打で意識飛んだぞ ? 」
「普通だよ ! 猫パンチって、人型でやったら普通に必殺技だから ! 」
「加減がわからんな……」
「じゃあ、明日はわたしとやろうか。ハランは知らないけど、蓮もなかなか強いよ」
「まじで ? なのに俺、急にこんな身体能力化け物級に教わろうとしてたの ? 無理〜」
「まぁまぁ。
じゃあ、シャドウくん行ってくるね ! 夜ご飯迄には戻るから」
「ああ。気をつけて」
□□□□□
少年はその日もピアノの演奏会の為に白いブラウスに袖を通す。
もう初夏であるが、彼が半袖を着ることは無い。腕についた内出血や煙草による火傷を隠す為だ。
「用意は出来たの !? 本っ当にあんたはトロいんだから ! ボサっとしてんじゃないよ ! 」
無言で楽譜をバッグに入れていると、背中に蹴りが飛んできた。
「もし一回でもミスしてみな。三日は飯抜きだから ! 」
バンッと強い音を立てて母親というモンスターは少年の部屋を後にした。
窓は防音の為として、シャッターで塞がれている。
今日は晴れか、雨か……。外に出られるだけでも嬉しかった。
少年は学校以外で外に出られる日は無かった。その学校でさえも毎日ではなかった。
小学生のうちは、家庭教師や母親が教えていたこともあって、不登校でも何とかピアノに専念出来てきた。
中学に入ると、足りない学力の為更に不登校になった。いや、母親がそうさせた。
幼い頃から、母親の叶えられなかった夢を少年が背負わされた。
同校に人気タレントがいると聞き、更に未だ芽の出ない少年を虐げていた。
「今日は隣町の上手な先輩がいるんだぁ。楽しみだなぁ」
母親の意に反して、少年は純粋に音楽が好きだった。人の演奏も、自分の演奏も。
ピアノしかない部屋で少年は椅子に座ると、静かに目を閉じ集中力を高める。
失敗は許されないのだ。
大会でもない、ただの演奏会でもだ。
小さなミスでさえ、母親の暴力の矛先が今夜自分に向いてしまう。
「最近、学校に行ってないな……」
階下から母親の呼ぶ声がする。思わず耳を塞ぎたくなる。
少年の瞳には、もう光は宿っていなかった。
学校帰り。母親に対する反発心から、寄り道したことがあった。その大きな楽器店の試奏ルームから聴こえて来たベースの音。
辛い時にはいつも思い出す。
重低音の力強さと、それを奏でる華奢な体が印象的な青い髪の女性。
少年はその日の音を永遠に忘れることは無いだろう。