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第10話 シアン

「ただいま」


「蓮上がってくれ。コーヒーでも」


「戴くよ」


 蓮はバイオリンを霧香に持たせると、真っ直ぐ恵也のいるリビングルームに向かった。

 シャドウは棒立ちのままバイオリンを持っている霧香に彩の部屋に行くよう伝える。


 どんな顔をされるのか、不安で堪らず指先が震える。

 静かに静かに絶望されるのが、とても怖くて仕方がない。


 霧香は彩の部屋の前に行くと、音で分かったのかすぐに照明が点いた。ドアの下の隙間から、光が漏れている。

 そしてすぐに、扉が開いた。


「入って」


 彩はただ一言、そういうと霧香からバイオリンを受け取る。


 すぐさま行われるチューニング。


 ローテーブルやソファーのある部屋だが、全て端に寄せられている。

 何も指示されず、途方に暮れ始めた霧香だったが、寄せられたテーブルの上に自分のバイオリンが置いてあるのに気付いた。

 そばには使用したと思われる松ヤニの欠片が落ちていた。


 十分程して、チューニングの音が止む。

 彩が改めて霧香に向き直った。


 少なくとも、夕食の時に感じていた怒りを霧香は彩に感じなかった。

 それよりももっと……


「何してるんだ ? いや、ウォーミングアップは必要ないのか。そこに立って」


 例えるならば。

 脆い檻一枚を隔て、猛獣の前に立たされたような緊張感だ。


「バイオリンを取って」


「わたし、弾くの ? 」


「チューニング済んでるから」


 霧香にとっては触ったことの無い楽器だ。

 両手で持ち上げるも、弓の存在に気付きモタモタする。


「俺が一曲引く」


「うん」


「聴いてコピーして」


「……でも……」


「音魔法全力で、弾いて見せて」


 彩はそれだけ言い残すと、バイオリンを構える。

 騎士が敵兵に剣を突き付けた時のような鋭い瞳。ギターを弾いている時のような音を楽しむ様子はそこには存在しなかった。


 一曲目 バッハ『G線上のアリア』。

 緩やかに、清らかに。全てを包み込むメロディ。

 彩は一方的に弾き切ると、ただ無表情に霧香の音を待つ。


 ゴクリ……と自分の生唾を飲む音さえ彩に聞こえてるような静寂に、霧香は一度深呼吸をする。緊張が指の先から爪先まで伝わるのが判る。

 それでも魔法は強制的に霧香の弓を滑らせる。


 誰でも聞いたことがある曲……とは言え、バイオリンは突然、素人が握って弾きこなせるような楽器では無い。


 何とか弾ききった霧香に間髪入れず、彩は二曲目を弾き始める。


 二曲目 ラヴェル『ツィガーヌ』


 確かに馴染みはある曲だが、難易度が急激に跳ね上がった。


 二人、無言。

 ただその音のやり取りが会話のように、二人を結んでいく。


 彩の音を自分に取り込んで行く。

 理解する。


 霧香にとっては、普段無口な彩に比べると饒舌にも感じられた。


 挑戦状だ。

『魔法を見せてみろ』

『本当に万能か ? 』

『この俺を越えることは出来るか ? 』

『出来るならやってみろ』


 静かで人を寄せ付けない森の奥の毒の湖。鬱蒼としてた森には生き物の姿は無く、ただただ深く、暗く、時には情熱的で荒々しく変化する。

 彩のバイオリンの魅せる表情は解釈しきれないほどの情報量。気を抜いたら聴き惚れてボサっとしてしまいそうになる。


 こうなると霧香の負けず嫌いにも火がつく。


 霧香が弾き始める。


 曲序盤。

 低く、妖しく、バイオリンを鳴かせる。

 だが、まだまだ前奏という程の数十秒で指先に違和感を感じ、ビブラートを繰り返す左手を見つめる。初めは気のせいかと思いそのまま弾き続ける。

 しかし曲後半に駆け上がるほど、如実にその違和感の正体を知る事になる。


 指が切れている。


 身体は魔法で強制的に動けども、積み重ねた物は、そこには何も無かった。

 霧香の身体には、負荷が大きすぎる。

 姿勢一つとっても、一曲目だけで構えているのが苦痛になる腰の痛み。

 曲後半で指板が血で染まり、音に異常も出始める。

 肝心の違和感の正体は、ヴァンパイアの回復能力による再生と、弦に指が切り沈むのを繰り返している事だ。切れては一瞬で再生し、更にまた切れ……痛みの地獄だ。


 だが霧香は決して『会話』を投げ出すことは出来なかった。答えなければ。紡がなければ。二人の関係が終わる気がして。


「はぁっ ! はぁっ ! 」


 弾き終わり。

 すぐに指板を拭い、血染めの弓を変える。


 porr,porrr …… !


「早く出て…… ! 」


 内線コールでシャドウに告げる。


「シャドウ君 ! ありったけの血成飲料持ってきて !! 」


 通話が切れてすぐ、再び彩が容赦無く演奏に入る。


 三曲目 サンサーンス『死の舞踏』。


 複雑な音階。目まぐるしく変わる曲調と複雑な重音。指が縺れるような動き。

 覚えるだけでもかなり魔力を消耗する。

 霧香は聴き覚え、そこで一旦運ばれてきた血成飲料を一気に飲み干す。


 異様な光景を目の当たりにしたシャドウだが、何も口出しせず寝床へ戻った。


 旋律を覚えているのが難しい程、曲も尺が長くなっていく。予想以上の魔力の消耗に、霧香は飲料をありったけ飲み干す。


「はぁっ、はぁっ…… !! 次っ !! 」


 彩はそこから一気にパガニーニ 『カプリース』を一番から二十四番まで弾き上げていくつもりだ。


 一番を聴いたあとで、霧香もそれに気付き苛立ちから、散乱した青い瓶を足で蹴り避ける。

 必死で食らいついていくが、演奏するのが精一杯。

 ただ同じ旋律を弾いているだけで、そこには最早解釈など無かった。


 初めこそ良かったものの、四番で遂に霧香が根を上げた。


 弦に指が引っ掛かり、あっという間に集中の糸が切れる。

 もう血成飲料は全て飲みきってしまった。


「ダメ !! もう無理ぃ !! 」


「少し休む ? 」


「曲もう覚えてない ! 今の曲絶対いけると思ったんだけど、なんかダメだった ! 飲料も切れた ! もう出来ないよ〜。悔しいぃ〜〜〜っ !

 言っとくけど、魔法が使えるだけで、ただの凡人なの ! 」


 霧香はバイオリンをゆっくり下ろし、「あががが」と情けない声を上げて腰を揉む。

 バイオリンをケースに置き、ベッドに沈みこむ。


「〜〜〜っアイタタ。

 もう〜 ! もう〜 ! なんなの〜 !! せめてベースにしなさいよ !!

 音楽魔法って言っても万能じゃないんだからね !?

 それにヴァンパイアは不死なんて嘘だからね !! 怪我とかするの ! 普通に !! 痛いし !! ニンニクは人によるし、わたしは漬け物が嫌いなの ! 」


「ぷ……」


 もがき、更に腰痛に声を上げる霧香に、彩が突然笑い声を上げた。


「あははははは !! 」


 これには驚き、霧香はポカンと起き上がって彩を見る。


「なによぉ……そんな笑うとこじゃないし」


 彩が笑っているのを見るのは初めてだった。


「音楽魔法、全然ダメじゃん」


 そう言って笑うのだ。


「え〜 ? そんななんでも出来る超絶能力だと思ってた ? 」


「だってそういう言い方されたから」


「言葉のアヤ……いや、違うかな。万能だとは思うよ。

 けど、それでバイオリンって…… !! 無理だから !!

 しかもなんか指、指って筋肉あるんだね ! 今痛いもん ! 初めて知ったよ ! 指って筋肉痛になるんだ !

 指、あと肩も首も痛いし目は渇くし……。何この楽器、意味わかんない ! 」


 いざ演奏が終わると弱音しか吐かない霧香に代わり、彩は二台のバイオリンのペグを緩めケースへ戻す。

 そして、静かに霧香のそばに座る。


「安心した」


「安心 ? 何に ? 」


「なんだろう。

 音の魔法を使われても、人間が必ずしも負けてはいないということ……かな」


 人には必ずある。

 自分の積み上げてきたもの。


 それが突如、異界から来た者に魔法で打ちのめされてしまったら……。

 軽々しく飛び越えられてしまったら。


 音楽に勝ち負けなどない。

 だが、弾けずには何も言えないのだ。


 この魔法を使う霧香悪魔には、自分の努力して来たもので体当たりするしか無かった。


「俺、契約してもいいよ」


「……ほんと ? でも、バンドは…… ? 」


「これからも魔法でもなんでも使って頑張って」


「いいの ? 」


「……じゃないと、生き残れないよ」


 一瞬浮かれた霧香を彩が再び叩き落とす。


「一度ネットで公開してしまったら、更に上の奴が自分を越えて投稿してくる。

 その投稿を見た上級者が更に極めて投稿、再生数を稼ぎ、俺たちは数字に左右される事になる。

 現状みたいに人間に遠慮して魔力を抑えて、永遠に弾いて居られればいいけど。

 悪いが、人間はそんなに非力じゃない」


 それは霧香が彩のギター動画を観ていても思った事だ。


「指、見せて」


「指 ? 」


 彩に手を差し出してから気付く。


「あんなにベース弾いてても、子供の指みたい。なるほど。切れやすい訳だな」


 彩が自分の手を触っていることについて言い出しそうになるところを、敢えて飲み込む。


 寧ろ、血成飲料では足りなかったのか、急な手の温もりのせいかは分からない。

 霧香は彩の手を握り返すと、そのまま首元に唇を寄せる。


「契約……するから……」


 霧香もたどたどしく……そのまま彩をシーツに沈める。

 彩は抵抗せず、真っ直ぐ霧香を見つめた。


「お前がもし、魔法が使えなくなっても、声が出なくなっても一生そばにいるよ……。

 けれど、魔法も魅了でもいい加減に使用して活動を疎かにしていると俺が判断したら、その時までだから。

 本気でやらなきゃ解約する。それが条件」


「ん……」


 最早霧香の耳に聴こえているのかいないのか。

 鋭利に突き出した細く白い牙が彩の首に突立つ。溢れた血液を淫らに舌を這わせて、彩が痛みを感じないよう、少しの催淫魔法を合わせて傷口を舌先でなぞるように魔力を注入していく。


「なんか……力……抜けるんだけど……。貧血 ? 」


「……ただの痛み止め……」


 彩はベッドに仰向けになったままぼんやりと、今になって女性と一緒にいる事に気付く。

 それもこんな形でベッドで纏わり付かれているなんて……。

 しかし……何故か初めて会った時のような拒否反応は無い。


 霧香は一旦起き上がると人差し指で、目の前にルーン文字を描く。するとシーツに魔法陣が浮かび上がる。


 魔法陣の真ん中で横たわったままの彩はまるで……いや、悪魔に捧げられた供物のよう。


「血が……止まらないんだけど……」


「わたしのバイオリン……どうだった ? 」


 霧香が再び彩の首筋をトロリと舐め上げる。


「別に下手では無かった……」


「え〜 ? 厳しいなぁ」


 一滴も無駄にしたくないとばかりに、更に激しく吸い上げる。

 全身から抜け出していく生気に、彩の唇からも息が漏れる。


「はぁ……だってお前は……その音楽を誰が作って、どんなエピソードがあるのか知らないからだ……。

 技術では身体が負けた。表現力では、う……ん……知識に負けた……」


「はいはい負けました」


 霧香がようやく、身体を起こす。

 彩を見下ろすその姿は、血に魅入られた赤い瞳に、海のように青い髪は一本一本が光輝き妖艶な色香を匂わせ……無かった。


 無かった。

 ヴァンパイアの貫禄。

 霧香には、まだ !


「終わった ? 」


「え ? そんなすぐ切り替え早くない ?

 なんかちょっと……お喋りしようよ……」


「だから……俺はお前の魅了にはそもそもかかんないみたいだし。吸われてる時はクラクラしたけど……。別に…… ??? 

 契約したんだから更に無いじゃん、そんなムード」


 儀式が終了し、彩の身体にかかった負担は全てリセットされた。


「しかもなんか……肩こり治った気がする……」


「んもー。わたしが色気0みたいじゃん !

 たまに血、貰うからね ! 」


 彩としても、女性に拒絶反応が薄くなっている事ですら奇跡だと言うのに、霧香と良きムードで過ごすなんてとんでもない行為である。すぐ階下に蓮がいるのだから。


「改めてよろしくね、サイ。

 一応、シャドウ君は第一契約者をおすすめしてたけど、どうする ?

 その……第一って、わたしの世話役なんだけど……」


「他は ? 」


「第二は体調管理。第三は外交。第四が影武者。第五が護衛。

 この内、必要無いのが三と四かな。ヴァンパイアの世界に行かないし」


「護衛はケイか。俺は無理だな。

 一と二、迷うな。むしろどっちもやりたい……」


「はぁ !? なんで !? 」


「なんか特に風邪で寝込んでる訳じゃないのに、その膝に穴空いたスエットでウロウロされるの耐えきれない……身の回りの世話とかじゃなくて、なんか生活習慣とかだらしがなさそうだから、全て管理したい」


「悪かったね、だらしなくて」


「だって、そのカッコで蓮と俺の部屋行ってきたの ? そんな姿、蓮に見られて恥ずかしい……」


「なんでサイが恥ずかしがるのよ !

 だいたい、家にいる時の女なんてみんなこんなもんだもん ! 」


「とりあえず、第一で。

 明日、蓮がいるうちに髪も少し整えよう。俺も少し見て覚えるから」


「……わたし、そんな汚物じゃあるまいし……」


 しかし、話も一段落したところで霧香の心はやっと晴れたのだった。


「そんな事より、今の俺の血で少し回復した ? 」


「うん。したよ」


「じゃあ、チューニングし直して。

 タルティーニ 『悪魔のトリル』弾きたい」


「え !? せめてギターにしないの !? 」


「ギターは五分五分だけど、バイオリンは負ける気しないから気分いい」


「そんな無茶なぁ〜〜〜 ! 変なマウント取らないでよ」


「魔法に勝ててるの嬉しい」


「もう〜〜〜」

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