私が、コーヒーの用意を終えたころ、着替え終わった先輩がやってきたの。
神速で髪を整え、私服に着替えた彼がやってきたとき、これがさっきまでの彼と同じ人なのかと信じられなかったわ。
「お、おかえりなさい。コーヒー淹れたわよ」
「ありがとう、ミラ。待たせたね」
「ううん。むしろ思ったより早かったかな」
先輩は、質素なダイニングテーブルの上に並んだカップを眺めると、すっと目を細めて微笑んだの。
それは、普段の繕ったわざとらしい笑顔ではなく、素顔の彼に見えたわ。
このひと、いつも芝居じみた行動ばかりするわりに、実は演技が下手なのでは? って思う。だって私に見破られてるもの。
そして先輩はダイニングセットの椅子を引くと優雅に腰かけ、テーブルに両肘をついて指を組み、その上に尖った顎を載せると、微笑みながら私を見つめたの。
これはやっぱり芝居がかってるって思うけど。
……ん? 何か違和感が……。
「先輩、眼鏡は?」
「あれは伊達眼鏡。あった方が助手っぽいでしょ?」
「助手っぽさを出すためだけにかけてたの⁉」
まさか、それっぽさを出すためのアクセサリーだったなんて。
「うん。かけた方が君の好みなら……」
「む、無理にかけなくてもいいよ」
「そうかい? ふうむ……」
と言って、先輩は残念そうな顔で私の淹れたコーヒーを啜り始めた。
「ん……。美味しいね。ありがとう」
「良かった。うちじゃお父さんくらいしかコーヒー飲まなくて、ときどき私もお手伝いで淹れてたんだけど、上手にできたかどうか、ちょっと心配だったの」
「大丈夫。ミラはちゃんと上手に淹れられてるよ」
「ありがとう、先輩」
「うん」
私たちはコーヒーを飲みながら、私が持って来たイモヨーカンを頂いたの。
無言で。
だってなんか話しづらいし、先輩も話さないしで。
だけど飲み終わったら追い出されちゃうから、なんとかしなきゃ。
「ねえ……先輩は私のどこが好きなの?」
「い、いきなりどうしたの? ……全部だよ」
先輩は、白い肌をほんのり染めて、はにかんだ。
「ごまかさないで! おかしいじゃない。先輩みたいな大人が私なんかに入れ込んで……」
「えええ……。ホントに純粋に好きなんだけど、それじゃあダメなのかい?」
「納得のいく理由を教えて。じゃないと私、帰らないから」
先輩は、ふぅむ、と顎に手をあてて暫し思案を巡らすと、
「……知りたい?」
と意味深な顔で言って、隣の部屋から一枚の写真立てを持って戻ってきたの。
彼はダイニングテーブルの上に写真立てを置いて、私の隣に椅子を置き直して腰かけたの。そして、そっと写真立てを私に手渡したの。
「一緒に見よう、ミラ」
「ええ……」
「……先輩と、お母様?」
「ああ。母はこの写真を撮ってすぐ病で亡くなった。ここを見て」
と彼が指さした先には、柄織物の民族衣装を
私はこのお人形のこと、よく知ってる。
だって、うちにもあるから。
その人形の名は――
「ヤシマ・ドールだわ」
それは、私の両親の故国「
先輩と初めて会ったとき、彼が私に向かって言ったのよ。『ヤシマ・ドールがしゃべった』って。確かに私の髪はヤシマ・ドールみたいに黒く長くて、そして眉の高さで真っ直ぐ切ってあるけども。
でもそれと、彼が私を好きな理由との間に、どんな関係があるの?
「このヤシマ・ドールはね、母の形見だったんだ」
「そうだったの……」
「母が他界してから数年後に父が再婚してね。新しい母親が、懐かない僕への腹いせに、この人形を捨ててしまったんだ」
「ひどい……」
「僕はそれ以上、継母にいじめられないようにと、家では息を潜めて生きていた。父は僕の味方になってくれないし、そんな気もなかったようだ。そして、父と継母との間に子供が出来ると、僕への関心は全くなくなり、やがて成長した僕は寄宿舎のある学校に入り、もうそれきり家には戻らなかった」
先輩はあまり家庭に恵まれてなかったのね。
だからあんなにうちで食事をするのを喜んでいたのね……。
でも、不幸な過去を淡々と語りながら、写真を見つめる彼の細い横顔は、不思議と悲しそうじゃなかったの。
「この人形を無くしてから、僕の心には長らく大きな穴が空いていたんだ。でもね……」
彼は写真立てを私の手から、そっとテーブルの上に移すと、潤んだ瞳を私に向けた。
「やっと見つけたんだよ。僕だけの『ヤシマ・ドール』をね」
「……私が、貴方の、人形?」
彼は愛しさに満ちた眼差しで私に微笑むと、私の手を取り静かに頷いた。
「済まない。どう思われるか心配で、今まで君に言い出せなかったんだ……」
彼は私の顔をしばらく伺うように見ると、
「ダメかな、こんな理由じゃ」とちょっぴり悲しそうに笑った。
「ダメじゃない」
私は頭を小さく横に振って、言葉を続けた。
「重い理由ですこしびっくりしたけど、話してくれてありがとう、先輩」
「よかった……。本当にありがとう、ミラ」
「いいえ、私の方こそ……」
私の方こそ、本当にありがとう、先輩。
やっと貴方の本心が聞けて、今日、ここに来てよかった。
やっと、もう一歩、貴方に踏み出せる気がする。