「さあ、どうぞ」
蘭花は
軒は聞香杯を受け取ると、杯に鼻を近づけて、茶の香りをゆっくりと堪能する。
「……
『蘭の香りがする』と言われて、蘭花はドキーンとした。――実は、その言葉が聞きたかったのだ。
蘭花は、邪な気持ちを隠すように、早口でまくし立てた。
「ぶっ、無難に
言って、蘭花はドキドキしながら軒の横顔を見つめる。
思う存分、お茶の香りを楽しんだ軒は、聞香杯を顔から離してニッと笑った。
「おう。気に入った」
蘭花はホッと胸をなで下ろす。「はぁ〜、良かったぁ〜!」と、ため息混じりに言って、胸元を擦りながら椅子に座った。
「軒って流行に敏感だし、お洒落でしょう? だから、軒にガッカリされないように、とぉーっても悩んだのよ?」
大袈裟に身振り手振りをして説明する蘭花を見て、軒はクックッと含み笑った。
「そんなの、気にすることねーのに」
「女の子は気にするものなの!」と、蘭花は頬を膨らませて、フンッとそっぽを向いた。その視界の端に、自分の為に用意された
「どうしたら軒が喜んでくれるかしら? って、たくさん頭を悩ませたけど……結局、軒が持ってきてくれた甜年糕に一本取られたわね」
蘭花は機嫌良く、甜年糕が乗っている皿をツンと突付いた。何の変哲もないただの甜年糕を、ニマニマと眺める蘭花の姿を見て、軒は頬杖をつきながら苦笑した。
「大袈裟だな、小蘭。喜び過ぎだ。普通の甜年糕だぞ?」
「大袈裟なんかじゃないわよ。私のことを考えてくれた、軒の気持ちが嬉しいんだもの」
言って、蘭花は卓に手をついて椅子から立ち上がる。
「さっ! 切り分けて食べましょうか。茶杯の祁門も飲んでみてね。私、この日のために、茶道を猛特訓したんだから!」
「はいはい、わーったよ」
蘭花は、茶杯を手に取った軒を横目に見ながら、甜年糕を切り分けていく。そして、お茶を飲んだ軒の口元が僅かに緩むのを見て、思わず笑みがこぼれた。
(あんまりニヤついてると、軒が照れて口を利いてくれなくなっちゃう)
蘭花は自然と上がる口角を、指先でむにゅむにゅと動かし、にっこりと笑顔を浮かべた。そうして、切り分けた甜年糕を小皿に盛り付け、自分と軒の前に置いてから席につく。
「少し早い春節をこんな風に過ごすなんて、なんだか情緒たっぷりね」
「思ってた以上に喜んでもらえてよかったよ」
いつになく、優しい声音の軒にドギマギしながら、蘭花は箸で甜年糕をつまんで――異臭に気がついた。
「……軒。この甜年糕……
甜年糕を口元に運んでいた軒は、
「なんだと?」
と言って、箸でつまんだままの甜年糕に鼻を近づける。しかし――
「……杏仁の匂いなんてしないぞ?」
軒は首を傾げて蘭花を見た。それに対して、蘭花は顔を左右に振った。
「ううん。私は嗅ぎ間違えたりなんかしないわ!」
蘭花は自信を持って言い切った。すると軒は、何かに思い至ったように表情を硬くする。
「……そうか。あんたは鼻が効くんだったな」
軒は、蘭花から顔を背けてボソッと呟いた。何を言ったのか聞き取れなかった蘭花は、卓子から身を乗り出した。
「ねぇ、軒。今なんて言ったの?」
「なんでもない。ただの独り言だ。気にするな」
そう言って、軒は躊躇うことなく、甜年糕を口に入れた。
「軒! 食べては駄目……!」
急いで軒の側に駆け寄った蘭花は、手巾を取り出し、その上に甜年糕を吐き出させた。そして急いで茶杯を手渡し、口の中をすすがせる。
軒は口の中の茶を土の上に吐き出し、手の甲で口元を拭った。
「俺は毒に耐性があるから、心配しなくても大丈夫だ。それよりも……小蘭の言う通りだった。この甜年糕には、
蘭花は驚愕に目を見開き、口元を手で覆った。――苦杏仁の種子には毒がある。
一体、どれほどの量の苦杏仁の粉末が使用されているかは不明だ。だが、摂取量が多ければ多いほど、最悪の場合死に至ることもある。
蘭花は顔から血の気が引いてくのを感じた。小刻みに震える手で口元を覆う。
「一体、誰がこんな細工を……」
そう呟いた時、軒がチッと舌打ちをした。
「――俺のせいだ」
「え?」
「悪い。小蘭。俺があんたを巻き込んじまった」
言って、軒は酷く傷ついた表情を浮かべた。
「それって――」
どういうこと? と続けようとして、蘭花は、軒と初めて出会った日のことを思い出した。蘭花の脳裏に、あの日の情景が浮かぶ。
『俺はいつ死んでもおかしくない環境で育ったってことさ』
蘭花ははっと息を呑んだ。
(これって、軒を害そうとして仕組まれたものなの……?)
――だとしたら、なんと陰湿な手を使うのだろう。
もし、蘭花の嗅覚が優れていなかったら、おそらく二人はあのまま甜年糕を食していただろう。そして、二人は、軒は――
『俺は毒に耐性があるから、心配しなくても大丈夫だ』
「っ、」
蘭花の両目から、ポロポロと涙が溢れ出した。それに気づいた軒が、蘭花の華奢な両肩を優しく掴む。
「おい、どうした、小蘭。なぜ泣く? 体調が悪くなったのか?」
蘭花は外套を握りしめ、ふるふると首を左右に振った。
「じゃあどうしたっていうんだ」と、軒は困ったように唸り、一拍置いてハッと目を見開いた。
「小蘭、あんた……もしかして、怖かったのか……?」
蘭花は涙を流しながら頷いて、そのまま軒に抱きついた。軒が戸惑った声を上げたが、それに構わず、逞しい身体を力の限り抱きしめる。はじめは戸惑っていた様子の軒だったが、蘭花が梃子でも動かないことを悟ると、諦めたようにされるがままになった。
「……なあ、悪かったよ、小蘭。すぐに気づいてやれなくて。怖い思いをさせて悪かった。だから頼む。泣き止んでくれ……」
まるで迷子になった子どものように頼りない声音で懇願され、蘭花はようやく軒から身体を放した。そして、安堵の表情を浮かべた軒を見上げ、しゃくり上げながら口を開く。
「……確かに怖かったけど、自分が酷い目に遭いそうになったから泣いてるんじゃないわ」
「なら、なぜ泣く?」
蘭花は手の甲で涙を拭うと、平然と首を傾ける軒の胸をドン! と叩いた。
「なぜ? なぜですって? 聞きたいのはこっちのほうよ! なんで動揺しないの? なんで怖がらないのよ!?」
「は、はぁ?」
「『はぁ?』じゃないわよ! こんなに怖い目に遭ったのに、まるで慣れているみたいに平然として……っ」
軒の胸を叩きながら、蘭花の心は酷く傷ついていた。これまでの軒の境遇を想像するだけで、身が引き裂かれる思いがした。
「軒の馬鹿っ! ばかぁ……っ!」
次第に胸を叩く手が緩慢なものになり、拭ったはずの頬に再び涙が流れた時、蘭花は筋肉質な腕に抱き締められていた。突然のことに驚いて、声を出すことも出来なかった。
「――てだ」
「え?」
「俺のために涙を流してくれたのは、あんたが初めてだ」
軒は震える声で言って、抱き締める力を強くした。
「俺のことを想って、自分のことみたいに怒ってくれたのも、あんたが初めてだ……小蘭」
そう言って、蘭花の小さな身体を掻き抱いた。
「軒……」
蘭花に対する気遣いも遠慮もない、力任せの不器用な抱擁に、胸がきゅうっと締め付けられた。
晴れた空から、はらりはらりと雪が舞い降りてくる。
蘭花は苦い煙草の匂いと、甘い蝋梅の香りに包まれて、広い背中に両腕を回したのだった。