蘭花は綿入りの外套を羽織り、
「それじゃあ、行ってくるわね!」
蘭花は片手を胸の前で振って敷居をまたいだ。その背中に向かって、
「「お気をつけて」」
その直後、
「うん? あんなに喜び勇んで、蘭花はどこに行くんだ?」
慶虎は、すでに米粒のように小さくなってしまった蘭花の姿を見遣る。足を止めた慶虎の側に、小梅が笑顔で駆け寄った。
「慶虎様!」
小梅の後ろに続いた小菊が、小梅の腕を肘で小突く。
「……小梅。挨拶」
ハッとした小梅は、慌てて膝を曲げた。
「じっ、慶虎様にご挨拶いたしますっ」
「慶虎様。ご機嫌麗しゅうございます」
慶虎は礼儀正しく挨拶をした二人に向かって右手を挙げた。
「ははっ、楽にしてくれて構わないさ」
そう言って、慶虎は太監に目配せをする。「御意」と、太監は頭を低くして、持っていた食盒を小梅に手渡した。
慶虎は、蘭花が駆けて行った方向をもう一度見遣る。その後、親指で後ろを指差しながら、小菊に向き直った。
「……ところで、小菊。蘭花はどこに行ったんだ?」
「
返ってきた返答に、慶虎は顔をしかめた。
「御華園? こんな寒い日にか?」
小菊はこくりと頷いて、さりげなく慶虎を椅子に誘導する。
慶虎が椅子に座ると、間を置かず、宮女がお茶を運んで来た。宮女が
「お友だちが出来たそうです」
慶虎は
「友だち? 蘭花にか?」
小菊はムッと眉間にシワを寄せる。
「……そのおっしゃりようは、蘭花様に失礼なのでは?」
慶虎はうっと呻いた。
「……すまない」
「蘭花様には黙っておきます」
「……そうしてもらえると助かる」
慶虎は蓋碗の蓋をカチンカチンと奥にずらし、茶葉が口に入らないようにしてお茶を飲んだ。
「――それで? 蘭花の『友だち』はどんな相手なんだ?」
蓋碗を卓上に置きながら慶虎が訊ねると、小菊は眉尻を下げて頬に手を当てた。
「それが……どのようなお相手なのか、はっきりとお話にならないのです」
「なに? どんな相手と会っているか分からないのに送り出したのか!?」
小菊は少しだけばつが悪そうな顔をする。
「……待ち合わせ場所は、いつも御華園だとおっしゃられます。本日はお茶会をなさるらしく、お互いにお菓子を持ち寄るからと、食盒を持ってお出かけになりました」
慶虎は卓上を人差し指でトントンと叩きながら、考えを巡らせた。
「菓子を持ち寄っての茶会……相手は
「おそらくは」と、小菊は頷いた。
「もしかするとお相手は、身分の低い宮女ではないでしょうか」
慶虎は右上を見ながら、顎先に触れる。
「……ありえるな。身分の低い宮女ならば、蘭花が王太女だと知らずに接していてもおかしくはない。だが……」
再び考え込んだ慶虎を見て、小菊は小さくため息を吐いた。
「それほどにご心配召されるなら、お抱えの『影』に探らせてはいかがです?」
小菊の言葉によって、思考の渦から抜け出した慶虎は、バン! と卓を叩いた。
「何を言う! 小菊。お前も良く知っているだろう? 蘭花は鼻が効く。影の存在など、少し近づいただけでバレてしまう。それに、黙って影に探らせたのがバレれば、僕は蘭花に嫌われてしまうだろう……」
言って、慶虎は額に手を当てる。その姿を見た小菊は、真顔でこくりと頷いた。
「それはそうでしょうね」
慶虎は、しれっとした態度でいる小菊を恨めしげに一瞥し、ハァとため息を吐いて頭を抱え込んだ。
「心配だ……僕の小蘭……」
春宮の一室で、慶虎が頭を悩ませている頃。
蘭花は御華園の一角にある四阿に到着し、卓の上に置いた食盒から色とりどりのお菓子を取り出して、お茶会の用意をしていた。
時折、雲間から覗く太陽の日差しが暖かく、蘭花は手で
「久し振りの晴れの日だわ。絶好のお茶会日和ね!」
蘭花は、太陽と溶け残った雪の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。
「よぉし。あともう少しよ! 頑張れ、蘭花!」
そうして卓子にお菓子が乗った皿を並べ終えると、小菊が持たせてくれた手炉を手に持ち、外套を着たまま椅子に座った。
「……軒。約束通り、ちゃんと来てくれるかしら?」
ポツリと呟いて、ハァと小さく息を吐いた。その白い吐息の向こうに、待ち人の姿を見つける。
「!」
蘭花は勢いよく立ち上がり、四阿の短い階段を駆け下りた。
「軒っ」
胸の前で手を振る蘭花を見つけた軒は、
「おう」
と、ぶっきらぼうに返事をした。
蘭花は、のんびりとした足取りで階段を上がる軒の隣に並んで、一緒に階段を上って行く。
「ちゃんと来てくれたのね。少しだけ、もしかしたら来てくれないかもって思ってたの」
そう言って、軒の横顔を見上げると、軒は前を向いたままため息を吐いた。
「あのなぁ……俺は意外と約束は守る男だぜ?」
ほんの僅かに胸を張って見せた軒の姿に、蘭花はプッと吹き出した。
「うん、うん! 軒は偉いわね〜」
自分よりも頭二つ分程背が高い軒の頭を、蘭花は背伸びをして優しくなでた。軒はされるがままだったが、しばらくすると顔を赤らめ、蘭花の手から逃れた。
「……ったく。ガキ扱いするんじゃねえよ。俺の方が3つも年上だってこと、忘れたのか?」
照れを隠しきれていない軒のことが可愛くて、蘭花の頬は自然と緩んでしまう。あまりニヤついていると軒が拗ねて帰ってしまうと思い、んんっ! と咳払いをしてから、椅子に座った軒の前に立った。
「ちゃんと覚えてるわよ。でも、なんか、こう……軒とは同じ年頃のような気がして……」
蘭花が首を傾けて頬に手を当てると、軒は「あー」と思い至ったような顔をした。
「いつもの『よく分からないけど』のやつか」
「うん、そうみたい。……不快にさせちゃった?」
蘭花はしゅんと肩を落とした。すると軒は蘭花の頭に手を置いて、ニッと白い歯を見せた。
「不快だと思ってたら、もうこの場から立ち去ってるっての」
「心配しすぎだ、ばーか」と、軒は蘭花の額を指先で弾いた。
うっと声を漏らした蘭花は、ぷくっと頬を膨らませて、自分の額をさすった。
「馬鹿って言う方が、馬鹿なのよ。知らなかった?」
「おー。俺は正真正銘の馬鹿だから、別になんとも思わないぜ?」
言って、軒は意地の悪い顔で笑った。
「もう! 軒ってば、意地悪ねっ」
「知ってて側にいるくせに」
蘭花は、軒の言葉に何も言い返すことができず、フンッと鼻を鳴らしてお茶を入れ始めた。その姿を見て、軒は笑いを噛み殺す。
「もー! 笑わないでよっ」
「クッ、……笑ってねーだろ」
「笑ってるじゃないっ」と、蘭花が雑に茶道具を扱う姿を見て、軒はクックッと含み笑った。その笑顔を視界の端に捉えながら、蘭花は手順に沿ってお茶を入れていく。
薄っすらと残った雪が周囲の音を吸収して、蘭花の耳に聴こえるのは、
(なんて穏やかなのかしら)
蘭花は心が温まるのを感じながら、大きく深呼吸をした。お菓子とお茶の匂いに混じって、蝋梅の甘くて爽やかな匂いが香る。
(蝋梅の香りと煙草の匂いが混ざり合ってる。……これは軒の匂い。とても心が安らぐわ)
心安らぐと感じながらも、トクントクンと高鳴る鼓動に、蘭花は首を傾けた。
(私、軒のこと――?)
そう考えていた時、軒が自分の食盒からお菓子が乗った皿を取り出し、卓上に置いた。
「それって、
蘭花は首を傾げた。すると軒は、
「もうすぐ春節だろ? でも俺は、小蘭と一緒に過ごせないからな。だから、少し早いが、甜年糕を持ってきた」
「一緒に食おうぜ」と、軒はニッと歯を見せて笑った。
「軒……」
言外に、一緒に年越しを過ごしたかったと言われた気がして、蘭花の胸がキュンと鳴く。
蘭花はドキドキと高鳴る心臓を、外套の上から押さえて、自分にとってとびきりの笑顔を浮かべた。
「ありがとう、軒。とても……とても嬉しいわ!」
軒はぼうっとした後に顔を赤く染めて、
「おう」
と、ぶっきらぼうに返事をした。