蘭花は椅子の代わりに
「ところで、
蘭花が訊ねると、軒はこちらを見下ろした。
「あ? あんたに関係ないだろうが」
仏頂面で答えた軒に、蘭花はムッと眉根を寄せる。
「
「は?」
「『あんた』じゃなくて、小蘭って呼んで頂戴。呼んでくれないなら、私は軒のことを『お前』って呼ぶわ。……それでもいいの?」
ニヤリと笑った蘭花を見て、軒はあからさまに面倒くさそうな顔をした。
(軒って、思ったことが全部顔に出るのね。きっと、嘘がつけない人なんだわ)
蘭花は一人納得する。すると、今まで沈黙していた軒が、頭をがしがしと掻いてその場にしゃがみ込んだ。
「だ〜! も〜! ほんと、なんなんだよ、あんたはっ」
照れているのだろうか、と思った蘭花は、口元に手を当てて意地悪く微笑んだ。
「『あんた』じゃなくて『小蘭』でしょ? ほら、恥ずかしがらずに言ってみなさいよ」
「別に恥ずかしがってねーよ!」と、軒は反論し、小さな声で「……小蘭」と呼んだ。
蘭花は胸がこそばゆくなるのを感じて、ふふっと小さく笑った。毛を逆立てて警戒していた野
蘭花は鞦韆を止め、ぶら下がった紐に
「それで? ここには何をしに来たの?」
立ち上がった軒は、膝から下に付いた雪をはたき落とし、腰に手を当てた。視線の先には、蘭花が眺めていた蝋梅の木が植わっている。
「……蝋梅を見に来たんだよ。雪が降ってたから見頃だと思ってな」
軒の言葉に、蘭花は表情を明るくした。
「軒も蝋梅を見に来たの? 私と同じね!」
蝋梅を眺めていた軒がこちらを振り返る。
「……小蘭も? 紅梅や白梅じゃなくて、蝋梅を見に来たのか?」
意外だな、と小声で言った軒の言葉を聞き取った蘭花は、
「そうよ。……なぁに? 蝋梅を見に来てはいけない決まりでもあるの?」
と言った。
軒は腕組みをすると、蘭花に呆れた顔を向ける。
「そんなもんあるわけないだろうが。……ったく。可愛げのない言い方をする奴だな」
チッと舌打ちまでしてみせた軒に、蘭花は顔が赤くなるのを感じ、勢いよく鞦韆から降り立った。
「かっ、可愛げがなくて悪かったわね! 言わせてもらうけど、軒だって可愛げの『か』の字もないんですからね!」
蘭花が、軒を指差すと、軒は腹を抱えてわざとらしく笑ってみせた。
「ははっ! 小蘭。あんたは知らなくて当たり前だがな。俺ほど可愛げがある奴はそうそういないと思うぜ?」
「どういうこと?」と、蘭花は首を
軒は先程とは打って変わって真剣な顔を蘭花に向けた。
「俺に可愛げがなかったら、俺と小蘭は出会えていなかっただろう」
「それって……?」
蘭花は動揺を隠せなかった。外套を両手でぎゅっと握りしめる。
軒は蘭花の方を見ることなく、ハッと自虐的に笑った。
「俺はいつ死んでもおかしくない環境で育ったってことさ。……まっ、俺はこんな見た目だから仕方がないがな。代わりに何か飛び抜けた才能があればよかったんだが……残念ながら、勉学も武術もそこそこ。ああ、でも。要領がいいのだけは天賦の才だな」
なんてことのないように言ってみせる軒の姿が、蘭花の目には酷く痛々しく映る。
蘭花は憤りを隠すことができず、握りしめた拳をブルブルと震わせた。
「……なぜ? どうして軒の家族は、軒の命を軽々しく扱うの!?」
蘭花が血を吐く思いで叫んでも、当の本人である軒は、どこ吹く風という顔をしている。
「だから言っただろ? 俺はこの見た目で差別を受けてきたって。物心がついた時からそうだったから、小蘭みたいに、なんで? どうして? なんてことは深く考えたことすらなかったな」
「そんなの、ひど過ぎるわ……!」
軒は蝋梅の黄色い花弁を弾いて、花に積もっていた雪を落とした。蝋梅を見つめる赤い瞳は、何かを強く思い焦がれていた。――見ているこちらが切なくなる程に。
「……軒の見た目がなんだと言うの?」
蘭花は足元の雪を睨みつけながら言った。
「あ?」
蘭花の視界の端に、雪に埋もれた、軒のつま先が映り込む。
「軒。実は私ね。なぜか雪と紅梅を見ると、身がすくむほどの恐怖を感じるの」
言って、蘭花は自分自身を強く抱きしめた。
「……理由は?」と、軒に訊ねられて、蘭花はふるふると首を左右に振った。
「……分からないの」
「なんだそれ」と、軒が苦笑する。蘭花は俯けていた顔を上げて、軒の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「でもね。理由は分からないけれど、私、蝋梅が好き。雪を見ると怖くなるけど、蝋梅に積もった雪だけは、美しいと思うわ」
「……何が言いたい」
「私は軒の髪の色が好きよ。光の加減でキラキラと輝いて見える。まるで蝋梅に積もったしろがね色の雪みたいだわ」
蘭花の言葉に、軒は三白眼を大きく見開いた。
「っ、」
蘭花は、真っ白い雪に足跡を残しながら、ゆっくりと軒に近づいた。二人の距離が、あと一歩の歩幅分になった位置で、歩みを止める。
じりっと後ずさりしそうになった軒の顔を、蘭花は背伸びをし、両手で包み込んだ。自然、背中を丸める体勢になった軒の鼻先が、蘭花の鼻先に触れてしまいそうだった。
「軒。あなたの柘榴みたいに赤い瞳も、こうしてよく見れば、温かな橙色に見えるわ。雪の色を吸収して、とても鮮やかな
蘭花は心の底から花開くように微笑んだ。
軒は顔を赤く染めると、
「っ、も……もういいだろ。手を放せよ」
と言って、自分の頬から、蘭花の両手を引っ
「あっ」
蘭花は漸く、自分の軽率な行動を恥じて、羞恥心を抱いた。軒の体温で
「ご、ごめんなさい! 私ったら、つい……」
「……初めてだ」
「え?」
「さっきみたいに……小蘭みたいに言ってくれる奴、いなかったから……」
軒は、まるで憑き物が落ちたような表情を浮かべていた。そのあどけない顔を見た蘭花は、軒は自分とあまり歳が離れていないのではないかと思った。
(無理して大人ぶる軒より、こっちの軒の方が、私は好きだわ)
蘭花は、宙を見つめたまま動かない軒の手を取って、きゅっと握りしめる。
「軒。忘れないで。私はあなたの髪の色も瞳の色も大好きよ」
「…………」
軒はぼんやりと蘭花を見たまま何も言わなかった。――蘭花の言葉が、軒の
蘭花は、雪の光を吸収して鮮やかな黄赤色に輝く瞳を、ずっと見ていられたらいいのにと思った。
そうして、どれくらいの時が経過したのだろう。ひらひらと舞うように降っていた雪が、さらさらとした粉雪となり、風に乗って吹きすさぶ。
「あら。大降りになってきたわね」と、蘭花が空を見上げると、見慣れた傘が視界に映り込んできた。驚いて後ろを振り向くと、傘の
「……結構長いことここに居ただろ。風邪を引く。早く帰れ」
軒は傘の柄を、蘭花に向かって差し出した。蘭花は傘を受け取ろうとして、動きを止める。
「軒も帰るわよね? それとも、ここに残るつもり?」
すると、蘭花が危惧した通り、軒はこの吹雪の中に残ると言う。
「……あと少しだけ、蝋梅を見ていたい」
そう言って、軒は蝋梅を見遣る。蘭花は、軒の整った横顔を眺めながら、
「そう。わかったわ。じゃあ、傘を貸してあげる」
と言った。すると軒は、蘭花を見下ろして顔を
「は? いらねぇよ。あんたが濡れちまうだろうが」
そう言って、傘の柄を突き出してくる軒から、蘭花はひらりと逃れる。
「私は大丈夫! その代わり、必ず返しに来てちょうだい。またここで待っているから」
「必ずよ!」と、蘭花は口の横に手を当てて言うと、外套を
この日を境に、小蘭と軒の不思議な交流が始まったのだった。