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第14話 蝋梅に誘われて 壱

 成安チョンアン――某所。


 慶虎ジンフーは上座の椅子に座り、蓋碗の蓋をカチンと鳴らした。


太師たいし――明全ミンチェン欽天監きんてんかんの件は上手く事が運んだようだな」


 明全はほうの両袖を合わせて頭を下げる。


「はい。金策に困っているようでしたので、そこに付け入るとすぐ話に乗ってきました」


 慶虎はハッと冷笑する。


「相変わらず官吏は腐りきっているな。……反吐へどが出る」


 言って、卓子たくしの上に音を立てて蓋碗を置いた。「お静まりください」と、明全は両膝を床につけて軽く頭を下げる。


「官吏の不正は、どの王朝でも横行しております。高潔な第二王子殿下におかれましては、さぞご不快な事にございましょう。ですが、官吏が腐敗しているからこそ、我々の思惑通りに――王太女殿下の目的の為に事が進むのでございます」


 椅子の肘掛けに肘を置き、宙を眺めながら顎先を触っていた慶虎は、ため息と共に頷いた。


「……それもそうか」


 明全は軽く首肯し、立ち上がった。


「して。王太女殿下のご容態はいかかでございますか」


春宮しゅんぐうきょを移してからは安定している。……記憶は戻っていないが、何かに追われるように勉学に励んでいるよ。悪夢にうなされることは無くなったようだが、今度は無理のしすぎで倒れるのではないかと心配だ」


 慶虎は額に指を当ててため息をついた。


「第二王子殿下が御側についておられるのです。王太女殿下も安心なさっておいででしょう」


 明全の言葉に、慶虎はため息混じりに微笑んだ。


「……だといいのだが」


 慶虎は蓋碗を手に取り茶を飲んでから卓子に置いた。それを合図に、明全は口を開く。


イン氏の件でございますが。欽天監の奏上そうじょうが功を奏し、殷氏らの計画は練り直しになった模様にございます」


 慶虎はフッと笑い、目を細めた。


「それは重畳ちょうじょう。……ならば、蘭花の立太子の儀は、殷氏が沈黙しているうちに済ませた方がいいだろうな」


「当初の予定では、元宵節げんしょうせつの後に執り行う予定でしたが……」


 慶虎は両腕を組んで沈黙したのち、右手の人さし指で、肘掛けの先端部分をトントンと叩いた。


「なんとか早められないか? そうだな……できれば春節しゅんせつの前がいい」


 明全は少し考え込んだのち、


「こちらでなんとかしてみましょう」


 と言った。「まかせたぞ」と、慶虎は眼光を鋭くする。


 「おまかせください」と言った明全は、そういえば、と顔を明るくした。


「私兵の件についてでございますが、ウェイ将軍が指導を請け負って下さいました」


「伯父上が?」


 慶虎は驚きに目を見張った。――伯父の偉氏は、宮中の諍いから一線を引いていたはず。


 そもそも、王子が内々に私兵を持つことは禁じられている。王に悟られることがあれば、極刑は免れない。


「そんな危険な橋を渡るだと? あの思慮深い伯父上が……?」


 どういうことだ、と明全に視線を向けると、明全は心得たと目礼した。


「すでに、偉氏の屋敷に間諜かんちょうを潜り込ませております。遠からず、将軍の真意を掴めるでしょう」


 黙って頷いた慶虎は、話は終わりだと椅子から立ち上がり、部屋を出ようとして――立ち止まる。そして、身体を半分だけ明全に向けた。


「そういえば。……明杰ミンジェはどうしている?」


「……平静を装ってはおりますが、王太女殿下のことを気にしております。……一度、面会をお許しいただくことは――」


 慶虎は勢いよく振り向いた。


「ならん! ……蘭花には僕がついている。愛より信念を貫くと決めたのだろう? だったら死ぬまで、清廉潔白を貫き通すといい」


「……かしこまりました」


 慶虎は、明全が頭を下げたのを見て、部屋の敷居を跨いだのだった。







 同時刻――春宮。


 蘭花は筆を筆置きに置くと、両腕を上げて伸びをした。ふぅと息を吐いて室内を見渡し、書物の整理をしている小梅シャオメイに目を留める。


「小梅。お兄様はいらっしゃった?」


 小梅はふるふると首を左右に振った。


「早朝から外出なさったようです。ですので、蘭花様からの差し入れは、女官に預けておきました」


 「そうなの」と、蘭花は書を閉じて、近寄ってきた小梅に手渡した。


「今日の午後は授業がお休みだから、久しぶりにお兄様とゆっくりお茶でも、と思ったのだけれど」


 言って立ち上がり、窓辺に寄って、外の景色を眺める。今日は一段と冷えると思っていたら、ちらほらと雪が降り始めていた。


「……今年は良く雪が降るわね」


 ポツリと呟いた蘭花の言葉に、書を整理し終え、文机の片付けをしていた小梅がふふっと笑った。


「『大雪は豊作の兆し』と言いますから! 来年は美味しいものが沢山食べられそうですねっ」


 蘭花はふっと目を細める。「もう、小梅ったら。食いしん坊さんなんだからっ」と、声を上げて笑い、再び窓の外に目を遣った時、ズキンと痛んだこめかみを押さえた。その場に立っていられず、窓枠を掴んで板張りの床に座り込む。


「蘭花様……! どうしましたか!?」


 蘭花の側に、血相を変えた小梅が駆けつける。


 蘭花を支えながら、抱き起こそうとする小梅に、


「こうして少し休めば大丈夫だから」


 と言って、微笑んでみせた。それから暫くして、症状の落ち着いた蘭花はゆっくりと立ち上がった。


「心配かけたわね。もう大丈夫よ」


 言った蘭花に、小梅は泣きそうな顔をした。


「……蘭花様が、こんな風に苦しむことになったのは、あたしの責任ですっ」


「ええ?」


 突然何を言い出すのかと、蘭花は目を丸くした。


 蘭花は、自分を支える小梅の手を取って、優しく握りしめた。


「今回のことは、お前のせいではないわ。そうお兄様もおっしゃっていたじゃない」


 でも、と続けそうになった小梅の唇に、蘭花は軽く手を当てた。


「もうこの話は終わり。まだ続けるっていうなら、今夜の夕餉は無しよ! それでもいいの?」


 小梅はぶんぶんと勢いよく首を左右に振った。


 蘭花は、小梅の手を借りて立ち上がると、木彫りの窓枠を触った。隙間の向こうに降り積もった雪が見えるが、再び頭が痛くなることはなかった。だが、ふとあるものが頭に浮かんだ。


「蝋梅……蝋梅は咲いているかしら……?」


 蘭花の呟きを聞き取った小梅が、御華園に行けば見ることができると言った。


「……私。蝋梅を見に行ってくるわ」


 言って、綿入りの外套を要求した蘭花に、小梅は狼狽える。必死に止めようとする小梅を宥めすかし、蘭花は外套を身にまとうと、傘をさして部屋を飛び出した。






「まあ。なんて綺麗なの」


 雪をかぶった蝋梅の黄色く小さい花は、雪を通して花弁が透けて見え、まるでべっ甲細工のようだった。


 蘭花は蝋梅の細枝を手折ると、胸いっぱいに香りを嗅いだ。


「甘くていい香り」


 ふふっと微笑んで振り返った先に、鞦韆ブランコがあることに気がついた。――おそらく、寒食に向けて設置されたのだろう。


「ちょうどいいところに、鞦韆があるじゃない」


 蘭花は傘を閉じてそこら辺に立てかけ、鞦韆の椅子に積もった雪を手で払い、外套を着たまま鞦韆に乗った。


 蘭花は鞦韆をゆらゆら揺らしながら、蝋梅と雪景色を楽しむ。かじかむ手にはぁっと息を吹きかけ、手炉カイロを持ってくればよかったかと思ったところに、蝋梅の影から何者かが姿を現した。


「――どこの天女が雪景色を楽しんでいるのかと思ったら、あんただったか」


 蘭花の前に気だるげに現れた少年は、白髪の髪を団子に結い上げ、簪の替わりに煙管キセルを差し込んでいた。


(白髪に赤い瞳。……白氏の王子ではないわね。でも、着ている常服袍は上等なものだわ。そして、御華園に立ち入ることのできる身分の持ち主……親王の御子息かしら?)


 蘭花は足で鞦韆を漕ぐのを止めると、少年を見上げて頭をかたむけた。


「どなたかしら?」


 少年は名をに訊ねられるとは思っていなかったらしく、ポカンとしたあとで顔を引きつらせた。


「はあ? 何言ってんだ、あんた。ついこの間、会ったばかりだろうが」


 「あら。そうだったの」と、蘭花は口元に手を当てた。


「ごめんなさい。私、き……物忘れが激しくて」


 おほほ、と笑った蘭花を見て、少年は呆れたような表情を浮かべた。


 「激しい、なんてもんじゃないだろ……病か?」と、少年はつぶやくが、蘭花の耳には届かない。少年は、顎に拳を当てて暫し考え込み、蘭花を一瞥する。


 蘭花はにっこりと笑って片手を振ってみせた。


「あ〜も〜、なんだよこいつ。本当に調子が狂う女だな……」


 と言いながら、少年は頭をがしがしと乱暴に掻くと、吹っ切れた様子でニヤリと笑った。


「……まあ、いい。『記憶喪失遊戯ごっこ』がしたいなら付き合ってやる」


 蘭花はクスリと笑った。


「遊戯って……面白いお方ね」


 言って、蘭花はパン! と手を叩いた。


「じゃあ、まずは自己紹介からね。私の名前は――……小蘭。小蘭よ。あなたのお名前は?」


「……俺はシェンだ」


「軒様ね。どうぞよろしく」


 言って、蘭花は鞦韆から降り、膝を軽く曲げて挨拶をした。


「『様』はいらない。あんたに様付けされると鳥肌が立つ」


 本気で嫌そうな顔をする軒を見て、蘭花はぷくっと頬を膨らませた。


「まあ。失礼な人ね。じゃあ、軒って呼ぶことにするわ。その代わり、私のことも小蘭って呼んでちょうだい」


「……おう」


 軒は不承不承といった感じで頷いた。

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