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第13話 酉施楼 参

「いやぁーーっ!」


 蘭花はブルブル震えながら絶叫した。


「蘭花!?」


 慶虎は膝から崩れ落ちそうになった蘭花を抱き止める。


「ぁ……ぁあ、いや、いやぁ……っ! 殺さないでぇ……っ!」


 掻きむしるように両手で顔を覆った蘭花は、揺れる瞳で刺客の亡骸を凝視していた。


「ぅ、あ……ぁあ! お母様を殺さないでっ! いやぁっ! だめぇっ! お母様ぁーーっ!」


 慶虎は腕の中で暴れる蘭花を抱きしめる。「大丈夫。大丈夫だ、蘭花」と、必死で声をかけるが、蘭花の耳には届かない。


 その様子を遠巻きに見ていた軒虎は、困惑した表情を浮かべて頭をがしがしと掻いた。


「おい、白慶虎。どうしたんだこいつ」


 慶虎は蘭花を宥めながら、顎先で亡骸を指し示す。


「お前が刺客を殺したからこうなっているんだろうが」


 苛々した顔を向けられた軒虎は、いやいやと顔の前で手を振った。


「俺に乱暴されそうになってピーピー泣いたあと、すぐに立ち直ってケロッとしてた女だぞ? それに、後宮で暮らしてるんだ。目の前で宮女や太監が殺されるところだって見たことがある筈だろ?」


 慶虎は眉をすがめる。


「……心の傷だ」


「心の傷? どういうことだ。殷氏おっさん殷貴妃ババアも、こいつや母親には手を出してないはずだが……」


 軒虎が親指を向けた先の蘭花は暴れるのを止め、慶虎に抱きしめられたまま、虚ろな顔で涙を流していた。


「いろいろと事情があるんだ。――とにかく。一旦寝台に……は、寝かせられないか」


 慶虎が蘭花を抱き上げた時、騒ぎを聞きつけた妓女が現れた。


「ちょっと、シェン様。今の声……きゃあっ」


 返り血を浴びたままの軒虎と、大量の血を流して転がっている亡骸を交互に見て、妓女は顔色を無くす。


 立ちすくむ妓女に向かって、慶虎は声を荒げた。


「おい、お前! どこか空いている部屋はあるか?」


 ハッと我に返った妓女は、披帛ストールを握りしめて、ギクシャクと頷いた。


「っ、あ、ああ。階段を上がってすぐ右の角部屋なら――」


「その部屋を借りるぞ! あと、この近くに医生いしゃはいるか?」


「い、いるにはいるけど、中絶専門で――」


「医生は医生だろう!? すまないが、すぐに呼んで来てくれ! 頼んだぞ!!」


 言って、慶虎は部屋を飛び出していく。


 「あっ、ちょっと!」と、慶虎の背中を追いかけた妓女だったが、追いかけようにも慶虎の姿はすでに見えなくなっていた。


 妓女は困惑した様子で軒虎を振り返る。


「軒様……」


 軒虎はハァとため息をついて、妓女の肩に手を置いた。


「驚かせてすまないな。代金はあいつがちゃんと払うだろう。……言う通りにしてやれ」


 妓女は躊躇ためらいがちに、こくりと頷いて走り去る。その後ろ姿を見送った軒虎は、先程の蘭花の姿を思い出し、苛立ちと焦燥感を覚えた。


「……ったく、なんなんだ。調子の狂う女だな」


 そう言った時、軒虎の目の前に黒ずくめの男が現れた。途端、軒虎のまとう空気が鋭くなる。


「……何の用だ」


「あの御方から帰還のご命令でございます」


 軒虎は腕を組み、チッと舌打ちをする。


「……手駒を殺したことがバレたか。相変わらず耳が早いババアだな」


「軒虎様。そのようにおっしゃられては、」


「あ? うるせぇよ。お前も殺されたいか?」


 軒虎の赤い瞳が濃くなり、縦長の瞳孔が細くなる。――獲物を狩る目だ。


 男はごくりと喉を鳴らし、素早く頭を下げた。


「出過ぎた発言をいたしたした。申し訳ございません」


 軒虎はフンと鼻を鳴らし、中衣ちゅうえの上にほうを着る。気だるげに部屋から出ようとしたところで、「あ」と声を上げた。


「おい。あの死体を片付けとけ。俺は一人で戻る」


 軒虎が顎先で指し示した方を一瞥いちべつした男は、うやうやしく頭を下げた。


「かしこまりました」


 軒虎は男を見ることなく廊下に出ると、慶虎と蘭花が居るであろう二階の部屋を見上げた。


「じゃあな。また会おうぜ、偽物公主」


 言って、軒虎は団子髪から煙管キセルを抜き取り、器用に指で回転させながら妓楼を後にした。





「ぅ……ん、」


 普段嗅ぐことのない、婀娜あだっぽい白粉おしろいの匂いに包まれて、蘭花は重たい目蓋を開けた。


「蘭花、気がついたか?」


 ぼんやりとする視界の中に、安堵と疲労のにじむ慶虎の顔が映り込む。


「おにいさま……?」


 寝起きのせいだろうか。蘭花は、何故か掠れている声に首を傾げる。んんっ、と咳払いをした蘭花の頭を、慶虎は優しくなでた。


 「起き上がれそうか?」と聞かれて、蘭花は頷く。慶虎に支えてもらいながら上体を起こし、積み上げられた枕にもたれかかった。


 慶虎は寝台横の卓に手を伸ばすと、茶托ちゃたくに置いてある蓋碗がいわんを手に取った。


「目が覚めてよかった。――蘭花。覚えているか? お前は突然意識を失ったんだ」


 蘭花は蓋碗を受け取り、湯冷ましをこくりと飲んでから、ふるふると首を左右に振った。


「……ごめんなさい、お兄様。私……全く覚えていないわ……」


 申し訳なく思った蘭花は、蓋碗を慶虎に手渡すと、俯いて布団の端を握った。その表情かおを見た慶虎は、微笑を浮かべる。


「いや、いいんだよ。お前が無事ならそれで。……それじゃあ、ここがどこだかわかるか?」


 蘭花はキョトンとしたあと、くるりと周りを見回して、再びふるふると首を左右に振った。その様子を見た慶虎は、


「……まさか、お前。軒虎と会ったことも忘れてしまったのか?」


 と言った。


「シェンフー……? ……どなたのことかしら。お兄様のお友達?」


 蘭花がこてんと首をかたむけると、慶虎は何かを考え込むように額を押さえた。しばらくして、ふぅと小さく息を吐いた慶虎が後ろを振り返る。その動きを目で追った蘭花は、そこで初めて第三者の存在に気づいた。


大夫せんせい。これは一体どういうことだ?」


 慶虎が疲労の滲む声で訊ねる。すると小太りの男――医生いしゃは、手ぬぐいで額の汗を拭きながら口を開いた。


「お嬢様は、寝不足と胃の不調が見受けられます。おそらく、旦那様のおっしゃる心の病が原因でしょう。記憶の件に関しましては、心に大きな衝撃を受けたことによる一時的な健忘けんぼうでございます」


「どこかを損傷したわけではないんだな?」


「はい。人は、心の傷が極度に高い状態になると、その原因となった記憶から自己を遠ざけることで、心の安定を図ることがあるのです」


「……記憶は戻るのか」


「個人差がございますが、数日から数ヶ月後には戻るでしょう。ただし、記憶を失った原因から遠ざけて、信頼できる者と一緒に心穏やかに過ごすことが必要にございます」


 慶虎は「そうか」と答えると、医生に薬を処方するように指示をして下がらせた。


 蘭花は医生の後ろ姿を目で追ったあと、不安を隠せず、慶虎に詰め寄った。


「お兄様。私は心の病を患っているのですか? それに、記憶を失っていると……」


 言って、交領えりの合わせ目を握りしめた蘭花の手を、慶虎の大きくて温かい手が包み込む。


「大丈夫。お前は何も心配しなくていい。医生も言っていただろう? 何も考えず、心安らかに過ごすことが大事だと」


 蘭花は、慶虎から視線を外し、握られたままのゴツゴツと骨ばった手を眺めた。


「……でも、お兄様。私。とても大切なことを忘れてしまっている気がするのです。とても……凄く重要な……うっ」


 蘭花は細いわら縄で、頭全体をキツく締め上げられるような痛みを覚え、両手で頭を押さえた。


 椅子から立ち上がり、蘭花の顔を覗き込んだ慶虎は、蘭花の両肩を優しく掴む。


「蘭花! 大丈夫か!? 今は何も考えるんじゃない。頼むから、僕の言う事を聞いておくれ」


 痛みの波が収まってくると、蘭花は激しい疲労感を感じながら、こくりと頷いた。


「わ……かり、ましたわ……お兄様。私、本当に、少し疲れているようです……」


「ああ、そうだろう。ここのところ、お前は本当に良く頑張っていたからな」


「そうなのですか?」


「……ああ。見ているこちらが辛くなるくらいに」


 慶虎が表情を曇らせたのを見て、蘭花はズキンと胸が痛むのを感じた。


「お優しいお兄様に心配をおかけするなんて。……私は、妹失格ですわね」


 苦い微笑を浮かべて俯いた蘭花の手を取り、慶虎は優しく微笑んで頭を振った。


「そんなことはない。お前が笑って側にいてくれたから、僕は今まで王太子として頑張ってこれたのだから」


 蘭花は潤んだ瞳で、慶虎を見つめた。


「お兄様……」


 慶虎は、蘭花の頬を指の背でなでる、


「さぁ、もう少し横になっていろ。一眠りして容態が落ち着いてから、僕と一緒に帰ろう」


 慶虎に支えてもらいながら横になった蘭花は、急激な眠気に襲われた。閉じようとする目蓋を必死に持ち上げ、慶虎の温かなべっ甲色の瞳を見つめて、心の底から微笑んだ。


「はい。お兄様。ありがとう……ござ、い……ます……」





 すぅすぅと、静かな寝息を立てる蘭花の頬を、慶虎はするりとなでる。


「……僕の愛らしい蘭花。お前には情けない姿を見せてきたが、これからは僕がお前を守るよ」


 言って、布団の上で綺麗に重なっている蘭花の手を取り、ほっそりとした手首に口づけた。


「お前を苦しめ、悲しませる、全てのものから守ってやる」


 蘭花の手をそっと放し、慶虎は降ろされた銀色の髪を一房手に取り、決意を込めて口づけた。


「お前が戦うことを選ぶなら。僕も共に戦おう。お前が悪に染まるなら、僕も悪にそまってやる。……だから、蘭花。一人で苦しむな。一人で泣かないでくれ」


 慶虎が囁くように懇願したとき、寝ているはずの蘭花の目尻から、一筋の涙が流れ落ちた。慶虎は涙の軌跡をなぞるように、下から上へと涙を吸い上げる。


「お前の涙は、僕が拭ってやる。……愛している。僕の愛らしい小蘭シャオラン


 慶虎は、僅かに開いた桃色の小さな唇に、己の唇を重ねた。そして――


「王城に戻り次第、明全ミンチェンを呼べ」


 いつの間にか、慶虎の背後に控えていた黒ずくめの女が、頭を下げて姿を消した。

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