「そこまでだ! 今すぐに蘭花から、その汚い手を放せ!」
蘭花を助けに現れたのは、
「お兄様……っ」
涙を流しながら、上体を起こした蘭花の姿を見て、慶虎の顔がたちまち怒りに染まった。慶虎は腰に
「……白軒虎。貴様……切られる覚悟は出来ているのだろうな?」
言って、慶虎は剣を構えた。だが、当の軒虎は身構えることなく、気だるげに首を傾ける。
「おいおい、本気になるなよ。白慶虎」
降参を表明するように、両手を挙げた慶虎は、蘭花を
「まだ手は出してない。……まあ、少し味見はさせてもらったけどな」
「貴様ぁっ!」
慶虎は地を蹴って跳躍し、剣先を慶虎の喉元に突き出した。だが、軒虎は剣筋を見切り、回転しながら距離を取る。
慶虎は着地と同時に間合いを詰めて剣を横に振った。軒虎は上体を大きく反らし、鼻先すれすれで剣先をかわした。
その後、素早く体勢を整え、慶虎から間合いを取った軒虎は、上体を低くして獣のように前かがみになった。
軒虎の赤い瞳が濃さを増し、全身から神気が立ちのぼる。
(まさか!)
蘭花は戦慄した。――この男はここで転変する気なのだ。
蘭花は乱れた
「二人共、もうやめて!」
慶虎と軒虎は、ピタリと動きを止めた。
「蘭花、なぜ止める? お前は
蘭花は、軒虎の身体から立ち昇る神気に圧倒されそうになりながら、赤い瞳から視線を逸らさないまま、慶虎に向かって声を張り上げた。
「お兄様、忘れたの? この男は、
「だが、蘭花……っ」
なおも言い募ろうとした慶虎に、蘭花は僅かに開放した神気を浴びせた。
背後から、慶虎が息を呑む気配が伝わる。次いで、剣を鞘に収める音が聞こえた。
「……これでわかったでしょう? こちらには、あなたと戦う意思はないわ」
「そうみたいだな」
軒虎は興がそがれた様子で構えを解いた。
蘭花はホッと息を吐くと、くるりと身を翻して、慶虎に駆け寄った。
「お兄様! 助けに来てくださったのね! でもどうしてここに?」
首を
「お前を心配した小梅が、僕に助けを求めてきたんだ」
「小梅が? ……小梅ったら、私との約束を破ったわね」
ボソリと呟いた蘭花の額を、慶虎は指で弾いた。うっ、と呻いた蘭花は、涙目で慶虎を見上げる。
「小梅を責めるんじゃないぞ。小梅が機転を利かさなかったら、今頃どうなっていたことか……」
慶虎が片手で両目を覆ったとき、背後から、軒虎の含み笑いが聞こえた。
「何がおかしい?」
言って、慶虎は蘭花の肩を抱いて引き寄せる。
「いいや? ただ、空々しい『優しいお兄様』を演じている姿が薄ら寒くてな」
「……何が言いたい」
軒虎は
「確か、あんたと偽物公主は、ガキの時分から親しかったんだっけか」
軒虎は煙草入れから刻み煙草を摘み、煙管の雁首に詰める。
「小耳に挟んだんだが、あの
言って、火入れの炭で火をつけた。慶虎は眉を
一服して煙草の味を楽しんでいた軒虎は、クックッと笑って片膝を立てる。
「そりゃあ、違いない」
フンと鼻を鳴らした慶虎と愉快そうに笑う軒虎を見て、蘭花は「この短時間でなにがあったの……?」と、不思議に思った。
慶虎は首を
「蘭花。お前は何も気にしなくていい」
と言った。蘭花は、自分を真っ直ぐに見つめるべっ甲色の瞳を見つめ返し、こくりと素直に頷いた。
「わかったわ。お兄様がそうおっしゃるなら」
煙草を吹かしながら、ことの成り行きを眺めていた軒虎は含み笑う。
「おーおー、信頼されてるねえ」
「いちいちうるさい奴だな。……そういうお前は、殷氏に信頼されていないようだが?」
慶虎は蘭花を抱き寄せ、部屋の天井を顎で指し示した。
「……流石は、王太子殿下。気づいていたか」
「『元』王太子だ。僕は耳が利くんでね。部屋に入る前から気づいていた」
ハハハッ、と笑った軒虎は、ハッと自虐的な笑みを浮かべた。
「俺は白氏の『偽物王子』なんでね。
初めて聞く言葉に、蘭花は「えっ」と驚きの声を上げて金色の瞳を見開いた。
「第三王子殿下が『偽物王子』……? 私、そんなの初めて聞いたわ」
――自分以外にも、偽物と呼ばれる者がいた。
蘭花は動揺を隠せなかった。
確かに、軒虎の髪は老人のような白髪をしていて、
瞳の色も
だが、軒虎は――
「でもあなたは、白氏の兄弟姉妹の中で唯一完璧に、
逆行前の蘭花が『偽物公主』と蔑まれていたのは、人型だけ白氏の特徴全てを持って生まれたからだ。もちろん。
だが、この
軒虎が王になり、
(だからこそ、逆行前の世界で、軒虎は王太子になれたんだわ)
そこまで考えて、蘭花はハッとした。
……よその事情に頭を突っ込むのは褒められたものではないが。
蘭花はごくりと生唾を飲み込むと、深呼吸をして口を開いた。
「ねえ。あなた、もしかして……
軒虎の肩がぴくりと動いた。
「やっぱり、そうなのね……」
蘭花は、やるせない気持ちを抱いた。
「……もしかして、今日ここで私と会ったのは、殷氏と殷
「…………」
軒虎は何も答えなかったが、それが肯定の証だった。
シーンと静まり返る室内に、重苦しい空気が流れる。
蘭花と慶虎が何とも言えない顔を見合わせたとき、煙管を灰吹きのふちに叩く音が響いた。
二人は軒虎に視線を移す。
軒虎は俯いたまま、
「同情するなよ。虫唾が走る」
と言った。蘭花はその言葉を
「はぁ!? 同情するわけないでしょう!!」
と、怒り声を上げた。そして、驚いた表情を浮かべた軒虎に向かって、蘭花は指を突きつける。
「不幸自慢をするわけじゃないですけどねえ! こっちは一回死んでるのよ!! もがっ」
慌てた慶虎に口を塞がれて、蘭花は己の失態に気づく。
蘭花の言葉にポカンと口を開けた軒虎は、ハッと我にかえると、顔の目の前で手を振った。
「いやいや。おまえ、生きてるだろ」
(
蘭花は慶虎に口を塞がれたまま、心のなかで叫んだ。
「……白慶虎。そいつ、一回
「ああ、そうするよ。だから、今の発言は忘れてくれ」
軒虎は煙管の吸い口で頭を掻いた。
「……まあ、いいけどよ。
軒虎は煙管を団子髪に差し込み、指笛を吹いた。すると、天井から刺客が姿を現した。
警戒しながら寄り添う蘭花と慶虎を一瞥した刺客は、片膝をついて、軒虎に頭を下げる。
「軒虎様。お呼びで――ぐはっ」
軒虎は表情を変えることなく、赤く鋭い爪で、刺客の首を掻き切った。
慶虎はとっさに、蘭花の頭を抱き込んだ。
締め切られた空間に、血と煙草の臭いが充満する。
刺客は身体をピクピクと痙攣させて、やがて事切れた。
軒虎は返り血を浴びた顔を二人に向けて、冷笑を浮かべる。
「……余計な芽は摘んだ。安心しな。俺は意外と約束は守るんだ」
そう言いながら、換気の為に窓を開けた時だった。