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第10話 心の傷

 澄んだ空気が気持ちの良い、ある日の早朝。


 蘭花の逆行後、初めての雪が降った。


 毎年、初雪が降った日は、陛下が妃嬪を集めて宴を開く。


 今日は久しぶりに、沈氏と朝餉を食べる約束をしていたのだが、宴の準備をするとのことで予定が流れてしまった。


 というわけで、ひとりで朝餉を食べ終えた蘭花は、朧月堂で茶を飲みながら書を読んでいた。


「小蘭。本当にごめんね。せっかく約束していたのに……」


 玉容ユーロンに髪を結ってもらいながら、沈氏は鏡越しに謝罪をしてくる。


 蘭花はため息をくと、読みかけの書を開いたまま、膝の上に置いた。


「お母様。いったい何回謝るおつもり?」


 沈氏は持っていたまゆずみを鏡台の上に置くと、首をかたむけて頬に手を添えた。


「ええっと……何回だったかしら?」


「九回でございます」


 玉容が、こともなげに言ってみせたことに、蘭花は呆れを通り越して感動した。


 さすが、おっとりふわふわとしている沈氏の女官は優秀だ、と感心していると、


「わたくし、九回も謝ったの? 縁起が良いわぁ〜」


 と言って、沈氏がころころと鈴の音のような声で笑った。


 ――ここジン国では、奇数は陽の数であり、縁起が良いとされている。


 蘭花は、ハハハと心のこもっていない笑い声を上げて、「良かったですね」と返した。それからふと、陛下からの下賜かし品である火の国エクリオ製の振り子時計を見て、


「それはそうとお母様。そろそろ宴が始まる時間では?」


 と伝えた。


 蘭花と同じように振り子時計を見た沈氏は、


「あらまあ。本当だわ。急がないと、また、ウェイお姉様にお叱りを受けてしまうわ」


 そう言いながらも、支度は一向に進まない。


 蘭花は脳内で、沈氏が偉王妃に叱られる姿を想像して、ぷっと吹き出した。


(きっとまた、お母様が子どもみたいに泣き出して、陛下とお義母様をおろおろさせるんだわ)


 伏魔殿である後宮で、陛下にも王妃にも寵愛されている妃嬪は、沈氏しかいない。そんな沈氏が、婕妤のくらいに甘んじているのは、陛下と王妃の計らいである。


 後宮では、高位に上り詰めるほど、陰湿ないじめやはかりごとが横行するのだ。


 しかし、蘭花は王太女になる。


 沈氏は否応なしに、正一品に上り詰めることになるだろう。


 四夫人しふじんの位で、いま現在空位くういとなっているのは徳妃とくひの位だけだったはず。


(お母様が……徳妃に……)


 バッタバッタと忙しない沈氏の支度の風景を眺めながら、蘭花は死んだ魚のような目をすると、心を無にして読書を再開したのだった。






「それじゃあ、行ってくるわね」


「はい。お気をつけて、お母様」


 美しく着飾った沈氏を見送ると、蘭花はくるりと身を翻し、その辺に置いたままだった書を書棚に戻した。


 沈氏を見送ったことで気が抜けた蘭花は、ふわぁと大きなあくびをした。


「……二度寝でもしようかしら」


 雪が降り出した深夜。辛い記憶が蘇り、体調が悪くなった蘭花は寝不足気味である。


 しかし、あの記憶を共有したのは明杰と明全だけなので、沈氏や小菊らに頼ることはできない。


 蘭花は青白い顔色を隠すために、普段は使わない白粉おしろいをはたいている。目元の隈は完全に隠し切ることが出来なかったが、夜更かしをするのは常のことだったおかげで、誰にも不調を見破られることはなかった。


 ……初雪の日は、どうしてもあの惨劇の光景を思い出してしまう。


 蘭花は、明紙めいし硝子がらすに貼った窓越しに、しんしんと降り積もる雪を眺めた。深夜から振り始めた雪は、すでに足首のあたりまで降り積もっていた。


「……まだまだ止みそうにないわね」


 そう呟いたとき、庭先から楽しげな笑い声が聞こえてきた。


 何事かと思って様子を見に行こうとした蘭花の目の前に、頭や肩に雪を積もらせた、小梅と阿明が現れた。


「蘭花様」


「蘭花お姉様っ」


 二人は頬と鼻先を赤く染めて、真っ白な息を吐きながら、パアッと笑顔を浮かべた。


「もう! ふたり共! どこに行ったのかと心配していたら、雪まみれじゃないの! このままでは風邪を引いてしまうわよ?」


 蘭花は腰に手を当てると、困った顔をしてため息を吐いた。すると、幼子おさなごのように天真爛漫な小梅――蘭花より二歳も年上のくせに――は、悪びれる様子もなく微笑んだ。


「えへへ……内務府ないむふに行った帰りに御華園に寄り道をしたら、紅梅こうばいがたくさん咲いていたので、つい……」


「ほら見てください、蘭花お姉様! お姉様のお好きな紅梅を、こんなにたくさん取ってきたんですよ!」


 そう言って、阿明は腕いっぱいに抱えた紅梅を、蘭花の目の前に差し出した。――途端、沈氏が斬り伏せられた場面が蘇る。


「まあ! こんなにたくさん! とても綺麗ね。ありがとう、小梅、阿明。とっても嬉しいわ!」


 あの日と同じ、雪と紅梅のに香りに、胃液が逆流する。蘭花は微笑みを浮かべながら、込み上げる吐き気を我慢した。


 事情を知らない阿明と小梅は楽しげに笑いながら、紅梅を生ける花瓶を探しに行った。


 ひとりきりになった部屋で、蘭花は机の上に広がる紅梅を一瞥いちべつする。


 太刀たちの軌道に沿って、純白の雪に飛び散った真っ赤な血。


 まるで、狂い咲いた梅の花びらが舞い散る姿に似ていたそれ。


 血と雪の花びらは、甘く爽やかな香りを撒き散らしながら、沈氏の命と共に散っていった。


「うっ!」


 蘭花は口元を押さえると、急いで自分の部屋に駆け込んだ。そして、一目散に唾壺だこへ走り寄り嘔吐する。何度もえずきながら胃の中のものを全て吐き出し終えると、蘭花は壁に寄りかかり、ずるずると床にへたり込んだ。


 降り止まない雪が音を吸収し、蘭花ひとりしかいない室内は、静寂に沈んでいた。


「寂しい……」


 そう言葉にすると、蘭花の金色の両目から、ポロポロと涙がこぼれた。


 蘭花はひんやりとした石造りの床に座ったまま、両膝を胸に引き寄せて、その間に顔を埋めた。


「……寂しいよ……辛いよ。……明杰。どうして側にいてくれないの? 私のことが好きなんじゃなかったの……?」


 蘭花の小さなつぶやきは、誰の耳にも届かない。


 ――復讐を誓った少女は十二歳。


 逆行する前の記憶があったとしても、柔らかくて繊細な心が、とつぜん岩のように頑丈になるわけではない。


『私は君と結婚したい。いますぐにでも、君を妻に迎えたい』


 うそつき。


『そんな悲しいことを言わないでくれ……! 私たちは結婚するのだろう?』


 うそつき。


『二人で未来を変えるんだ』


「うそつき……っ!」


 胸が苦しくてたまらない。


 呼吸をすることもままならなくて、このまま死んでしまうかもしれないと錯覚してしまうほど息苦しい。


「あ……っ、ああ……うあぁ……!」


 蘭花は、ズキズキと痛む胸を拳で叩きながら、声を上げて泣き続けた。


 外には太監や宮女が控えていたが、しんしんと降り続く雪のおかげで、泣き声に気づかれることはなかった。





 ひとしきり泣いて、少しだけ気持ちが楽になった蘭花は、机の上に黄色い花が置いてあることに気づいた。


 近づいてみてみると、それは蝋梅ろうばいだった。


「……綺麗」


 ポツリとつぶやいたあと、透き通った蝋細工ろうざいくのような花弁を、指先でするりとなでる。


 だれからだろう? そう思ったとき、枝に結ばれた文を見つけた。


 蘭花は、素敵な贈り物をしてくれたのは誰なのだろうかと、胸を高鳴らせながら文を開いた。


(この文の主が明杰だったらいいのに)


 そう思ったのも束の間。


 初めて目にする筆跡を見て、明杰からの文でなかったことに落胆する。――が。流麗りゅうれいな字で綴られた文章を読んでいくうちに、蘭花はごくりと生唾を飲み込んだ。


「……とうとう、接触してきたわね」


 文の主は、白軒虎バイシェンフー


 逆行する前の世界で、慶虎ジンフー亡きあとに王太子となった男。


「第三王子、殿下」


 蘭花が倒すべき敵からの、茶会への招待状だった。

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