「そんな……! 私はどうすれば……?」
明全は、タン! と机を叩いた。
「その者達の権力と財産を、己のものとして使うのです」
蘭花はハッとする。しかし、
「……その者達は、私に見返りを求めるはずです。でも、私にはなにもない……」
しゅんと肩を落とす蘭花の頭上に、わはは! と豪快な笑い声が降った。
「女王におなりなさい。そして無事、女王になられた暁には、その者達を取り立ててやればよろしい。彼らはあなた様から、金銀財宝を貰おうなどとは思っておりませぬ。将来、あなた様が女王になられたとき、高官に取り立ててもらうため――自身の立身出世のために、あなた様に投資するだけなのですよ」
「女王になる……そのために一歩一歩上り詰めれば、私の願いは叶いますか?」
明全は不敵な笑みを浮かべて頭を下げた。
「すべて、あなた様の意のままに」
「……!」
蘭花は笑顔を浮かべて、胸の前で両手を握りしめた。高揚した気持ちのまま、ぐっと目蓋を閉じる。
(お母様。生まれてくることが出来なかった弟。小梅と小菊。そして阿明。……私、やるわ。必ず、女王になってみせる。復讐を遂げてみせるわ!)
――ようやく道が開けた気がする。
蘭花は笑みをたたえて、明杰を振り返った。
「ミンジェ――」
「私は承服できかねます」
険しい表情を浮かべた明杰が席を立つ。そしてそのまま四阿から離れようとしたのを、蘭花はとっさに引き止めた。
「待って、明杰! どうして行ってしまうの?」
蘭花が掴んだ明杰の手首は驚くほど冷たく、やり場の無い怒りに震えているようだった。
「……明杰。あなた、怒っているの……?」
「っ、」
明杰は、拳をさらに強く握りしめると、ためらう事なく蘭花の手を振り払った。
「きゃあっ」
「蘭花様!」
均衡を崩した蘭花の身体は、盆を手放した小菊の胸に抱きとめられて、事なきを得る。石畳の上に、割れた陶器が散乱しているのを見て、蘭花は背後を見上げた。
「……小菊……戻ってきたのね」
「はい。ただいま戻りました。しかし蘭花さま。この状況はいったい……」
状況を飲み込めず、不安そうにする小菊に支えられ、蘭花はよろりと立ち上がった。
「明杰! 蘭花公主になんと無礼なことを! 今すぐ、膝をついて頭を下げよ!」
明杰は、顔を半分だけ後ろに向けると、顔を赤くして怒る明全を睨みつけた。
「……師父は私に、清廉潔白であれと教えてくださいましたね」
「ああ、そうだ」
「ならばなぜ! 権力者に
泣き叫ぶように放たれた言葉の刃は、明全ではなく、蘭花の心に深く突き刺さった。すると、蘭花の心に呼応した空が、鉛色に塗りつぶされていく。それから幾ばくもなく、さみだれのような雨が降り出した。
明杰は、ゆっくりとした足取りで四阿の外へ踏み出すと、雨をその身に受けながら、
「蘭花。この雨は君の涙なんだね」
と言って、傷ついた表情を浮かべた。
蘭花には分かった。――この男も、自分と同じ涙を流しているのだと。
(あなたも傷ついているのね、明杰。だったらどうして、私と一緒にいてくれないの? どうして急に、私から離れて行こうとするの……?)
「……明杰よ。お前は、蘭花公主を愛しているのではなかったのか?」
「愛しています。いまも変わらず」
苦しそうな声音だったが、雨音の中でもはっきりと聞こえた「愛している」の一言に、蘭花は涙が出そうなほど胸が締め付けられた。
「であれば、なにゆえ離反しようとする? お前の大切なお方が、ようやく日の目を見るのだぞ? なぜそれを喜ばぬ!」
雨脚が強まり、明全の怒号が雨音にかき消されていく。
「明杰」
囁くような蘭花の声に、明杰はゆっくりと振り向いた。
雨に打たれているせいで、几帳面に結ってあった黒髪は、ところどころ崩れて頬に張り付いている。そして健康的な色をしていた肌は青白くなり、唇は紫色に変色していた。――このままでは風邪を引いてしまうだろう。
けれど、蘭花の雨が止む気配はない。
言葉を発することなく、蘭花と明杰は見つめ合う。そして――
「っ、……ミンジェ……」
先に視線を外したのは明杰だった。
明杰は藍色の瞳を暗くして、迷うことなく蘭花に背を向けた。
「すまない、蘭花。私は、清廉潔白なままでいたい」
そう言って四阿から遠ざかって行く明杰の背中を、蘭花は涙を流しながら、目に焼き付けるように見つめ続けた。
……どれくらいの間そうしていただろう。
永遠に止まないかと思われた雨が小雨になった頃。蘭花はよろよろと歩き出し、汚れた
「――貴重な時間を無駄にしてしまいましたね。では、師傅。欽天監の件についてですが、あなたに任せてもよろしいですか?」
まるで、何事もなかったかのように喋り始めた蘭花の姿は、見る目にも痛ましい。
「蘭花様……」
くしゃりと表情を崩した小菊に気がついた蘭花は、
「ああ、そうだったわ。小菊。怪我はない?」
と言って、精巧に作られた人形のように美しい微笑みを浮かべた。
小菊はその笑みに薄ら寒さを感じながら、こくりと頷いた。
「そう。ならよかったわ。申し訳ないのだけれど、もう一度、お茶を入れてきてもらえる?」
若干十二歳だとは思えない気迫を感じながら、小菊は、
「かしこまりました」
と言って、軽く膝を曲げた。そして、足元に散らばる茶道具を片付けると、頭を下げてから四阿を後にした。
小菊が去ったあと、四阿に残った蘭花と明全だったが、お互いに向き合ったままどちらからも言葉を発する気配はない。
さてどうするかと、明全が手慰みに髭を触ったのを皮切りに、蘭花が口を開いた。
「師傅。先ほどの返事は、」
「ああ。おまかせくだされ。こちらで上手く手を打ちましょう。それから、欽天監が関わったと思われる、明杰と白蘭玲公主の婚姻についてですが……」
蘭花は、はらりと垂れてきた銀髪を耳にかける。
「明杰と白蘭玲公主の婚姻の目的は、明杰を王太子殿下から引き離すことだったと思われます」
「ならば」
「はい。私が皇位継承者第一位になったことで、王太子殿下は私に継承権を譲ることになりしょう。そうなれば、殷氏が標的にするのは私になります。明杰と白蘭玲の婚姻の話は白紙に戻るでしょう」
明杰は、ふむと頷いて、
「しかし、明杰は王太子殿下の
と言った。
しかし蘭花は迷うことなく口を開く。
「全ては陛下がお決めになること。王太子殿下――お兄様はもともと王位に執着がありませんし、私が王太女になるのは、ほぼ確定したといってよいでしょう」
明杰はフッと冷笑を浮かべる。
「殷氏の計略が白紙に戻りましたな」
「それはどうでしょう」
すかさず否定の言葉を口にした蘭花に、明全は、
「……なにか心配事がおありで?」
と訊ねた。
「心配事、というわけではありませんが……あちらにはまだ、劉賢妃と第三王子殿下という手札があります。私が逆行する前とは異なり、殷貴妃が王子の養母になる時期が早まる可能性がある以上、こちらも慎重を期する必要があるでしょうね」
「たしかに。……殷氏は
蘭花は頷くと、机の上に身を乗り出すようにして、明全を見つめた。
「師傅にお願いがあります」
「なんでしょう?」
「……必ず、お母様を守ってください」
明全は片眉を上げた。
「蘭花公主ではなく、沈婕妤を……ですかな?」
蘭花はこくりと頷くと、居住まいを正した。
「師傅がおっしゃられた通り、私は私が持つ全ての力を使って殷氏を討つつもりでいます。……その上で無責任なことを言いますが、私の身はどうなってもいいのです。私に群がる奸臣たちがどうなろうが知ったことではない。ですが、お母様や小菊たち……私の大切な人たちには、一片たりとも傷ついてほしくありません。ですから、師傅。あなたには、お母様の後ろ盾になっていただきたいのです」
視線が交錯する二人の間を、ビュウ、と風が過ぎ去る。
蘭花は瞬きをせず、強い眼差しを明全に向け続けた。そして、目をそらすことなく蘭花の視線を受け止め続けた明全は、フッと口元に笑みを浮かべると鷹揚に頷いた。
「師傅……! ありがとうございます!」
ようやく年相応の笑顔を見せた蘭花の姿に、明全は
「それでは我が女王陛下。次の手はどのように?」
蘭花は表情を引き締め、東の空を仰いだ。
「お兄様……第二王子殿下に会いに行きます」