蘭花の言葉に
「以前はそれほどでもなかったが、ここ数年、陛下は
「そのようですね」
「それを利用する、ということだな?」
蘭花はこくりと頷いた。
すると明全は、「わはは」と笑いだし、
「
明全は髭をさわりながら、急須を手に取った。
「お母様にお聞きしました」
「なるほど。
楽しげに茶を飲む明全だったが、茶杯を机に置くと、神妙な面持ちで口を開いた。
「沈氏の家門は没落して久しい。朝廷での権力を失い、家門からの援助もなく、寵愛のみでよくぞここまで……と思っていたが……」
手の中で空になった茶杯を
「
すると明全は、音を立てて茶杯を置いた。
「外朝は国事。内定は王の私事。……私はそう教えたな?」
蘭花と明杰は頷いた。
「
「師傅!!」
蘭花は机を叩いて勢いよく立ち上がった。
怒りで顔を赤くする蘭花を見て、明杰は焦った顔を明全に向ける。しかし明全は、素知らぬ顔で蘭花を見つめていた。
蘭花は呼吸を荒くして、ぶるぶると震える手を強く握り締めた。
「……師傅まで。師傅まで、お母様を
「いいや」
激しい怒りの炎を閉じ込めた金色の瞳が濃さを増し、縦長の瞳孔が更に縮まった。
「ではなぜ! お母様を侮辱したのですか!!」
蘭花が言い放つと同時に強風が吹き荒れ、ビュウ! と音を立てて、明杰と明全の間を通り抜けていった。その風圧に耐えれなかった明全が、ぐらりと体勢を崩す。
「
「これはいったい……」
そう言った明杰が明全を支えたまま顔を上げると、そこには、獣の耳と尾が生えた姿の蘭花が立っていた。
「ら、蘭花……?」
明杰に呼ばれてハッとした蘭花は、混乱しながら自分の両手を目の前に
「なに……これ……」
白くすんなりとした指の爪は赤く色づき、まるで獲物を狩る獣のように、長く湾曲した
(そんな、まさかこれは……!)
蘭花は、身をひるがえして
「――うそでしょう?」
湖面を鏡変わりに、蘭花は顔の角度を変えながら、自分の顔をまじまじと見つめた。
金色の瞳は黄金に輝き瞳孔は鋭さを増して、吊り上がった目元には、紅化粧を施したような文様が浮かび上がっている。
そして、
信じられない光景を、ぼうっと見つめていた蘭花は、タンタンと机を叩く音に振り返った。
「小蘭。……いえ。
そう言って明全は、石畳に両膝をついて、そのまま上体を前に倒した。
「転変、おめでとうございます」
「師傅……」
蘭花は、夢でも見ているような心地で
「
「感謝いたします」
と言って顔を上げた明全に、蘭花は苦々しい顔を向ける。
「……師傅。私をわざと怒らせましたね?」
「はて。怒らせるとは……?」
白々しい態度で押し通そうとする明全に、
「そちらがそういう態度を取られるのならば、私もそれ相応の態度をとらせていただきます」
と言って、蘭花は右腕を空に掲げた。すると晴れていた青空がみるみる雨雲に埋め尽くされ、遠くでは雷鳴が轟いている。
「ほほう。早速、天候を操りなさるか」
「お母様を侮辱したこと。謝ってください」
明全と蘭花の視線が交錯する。そして――
「沈婕妤の慈悲深さは有名……にもかかわらず、その名声を貶める発言をしてしまったこと。誠に申し訳ありませぬ」
再び叩頭した姿を見て、蘭花はようやく溜飲が下がった。すると、蘭花の感情に呼応して、雨雲は消え去り、青空が広がった。そして、蘭花の転変も解ける。
蘭花は、元に戻った自分の両手を不思議な気持ちで眺めた。
「初めて転変なされたご感想はいかがですかな?」
明杰の手を借りて立ち上がった明全に、
「こんなものか、と」
想像していたよりも大したものではなかった。蘭花がそう言うと、明全は、わははと笑い声を上げた。
「我らが蘭花公主は、豪胆であらせられる!」
ぽん! と膝を打った明全は、椅子に座って茶杯を手に取った。
「お茶のおかわりをいただけますかな?」
蘭花は苦笑いを浮かべて、その場に小菊を呼んだ。
「蘭花様……っ」
蘭花の側に戻ってきた小菊は、「蘭花様、まさか」と息を弾ませたが、蘭花が困った顔を向けると口をつぐんだ。
「……詳しいことは、朧月堂に戻ってから話すわ。小菊。お茶を入れてきてくれる?」
「……かしこまりました」
小菊は軽く膝を曲げてお辞儀をすると、茶道具をのせた盆を持って、静かに下がっていった。その姿を見送った蘭花は、身をひるがえして椅子に座り、明全に向き合った。
「それでは、師傅。説明していただけますか?」
明全は背筋を伸ばして顎髭を触りながら、
「己の命をかけるための理由が欲しかったのです」
「……それが私の転変だと?」
明全はこくりと頷いた。
「これで私も覚悟が出来ました。欽天監の件。私がなんとかいたしましょう」
蘭花は明杰と顔を見合わせて笑顔を浮かべた。
「しかし、条件がございます」
喜びもつかの間、蘭花は怪訝な顔を明全に向ける。
「……条件とはなんでしょう?」
――この好々爺然とした男は、なにを要求するするつもりなのか。
警戒の色を濃くした蘭花に、明全は
「蘭花公主には、女王になっていただきたく」
「な……っ」
「師父!!」
これまで黙って、ことの成り行きを見届けてきた明杰が、勢いよく立ち上がった。そのまま詰め寄ろうとした明杰の動きを、明全は片手を上げて制す。
「まあ、私の話を聞きなさい」
言われた明杰は、納得できないといった表情を浮かべながら、渋々の動きで椅子に腰を下ろした。
「まずは、蘭花公主。おめでとうございます。これでようやく、敵と同じ土俵に乗ることができました」
「……どういうことでしょう?」
「誠に僭越ながら、あなた様には、殷氏と戦うだけの権力も後ろ盾もありませんでした」
耳に痛いことを言われ、蘭花は苦笑するしかない。
「陛下の寵愛に頼り切った状態で、本当に復讐を成し遂げられると思っていらしたのですかな?」
「それは……」
「権力も後ろ盾も、財産もない一介の公主に、欽天監を丸め込めると? あなた様の師傅とはいえ、勝ち目のない戦いに、私が喜んで身を投じるとでも思っていたのですか?」
蘭花は言い返すこともできず、衣をぎゅっと握りしめる。――自分の浅はかさに恥じ入るしかない。
「……しかし、あなた様は転変なさった。先程の天象は蘭花公主の転変によるものだと、すぐにでも宮中に広まるでしょう。これであなた様は、偽物の公主という存在から、王位継承権第一位の尊い存在になられました。価値ある存在は権力にも財産にもなる。おそらく、その権力――あなた様におもねろうとする者達が、ひっきりなしに訪れることでしょう」